行きずり

美里

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 じゃあ、私はもう行くから。
 頭の中で準備した台詞は、それっきり。それ以上のなにかが必要だとも思わなかった。別に、非情な振る舞いというわけでもない。行きずりの相手としては、上等な部類だろう。
 そう考えながら、濡れた髪をタオルで拭きつつ、ベッドに目をやる。すると、そこでおんなは眠っていた。さっきまでの硬い強張った表情とは別人みたいに、西洋画の天使と見まがうほどの安らかさで、すやすやと。
 雛子はなんだか気抜けして、眠るおんなをじっと見下した。なんの憂いもなさそうな寝顔をしていた。
 「……。」
 自分は、どんな顔をして寝ているのだろう、と思う。うなされていた、とか、眉間にしわを寄せていた、とか、寝苦しそうだった、とか、そんなふうに、共寝したおんなに言われることは多かった。どちらにしろ、こんなに安らかに眠った覚えは、ここ数年、我ながらない。認めたくはないが、安眠できなくなったのは、菜乃花が嫁いでからだ。菜乃花が嫁いで、夫の愚痴を言うために雛子を家に呼び、あっさり肌を許してからだ。その前までは多分雛子も、こんなふうに子どもの顔をして安眠していた。
 うらやましいな、と思う。うらやましい。こんなふうに、子どもの顔で眠れて。そして、よかった、とも思う。自分に抱かれたくらいのことで、このおんなが子どもの寝顔を手放さなかったことを。
 「……おやすみ。」
 頭の中で準備していた台詞とは、違う言葉が自然と口から出た。おやすみ。安らかに。
 そして雛子は、おんなの眠りを邪魔しないように、手早く髪を乾かし、化粧を直し、身支度をして、ホテルを後にした。おんなを愛するおんなが多い街の路上に出ると、もうひとりくらい、と思わなくもなかった。もうひとりくらい声をかけて、今度は好みの遊びなれた女とベッドに転がり込んで、それで朝を迎えたいと。
 けれども、ラブホテルの大きなベッドの隅っこで、幼い寝顔を見せていたじゅりのことを思い出し、そして、今夜は結局誰を抱いても、忘れたいことのひとつも忘れられやしないと理解もしていたから、雛子はそのまま、街外れの自分のマンションに、まっすぐ帰った。
 電気が消えた、暗い一人暮らしの部屋。それ自体には当然慣れているのに、今夜はそれが胸に迫る。菜乃花はいつも、夫のために家の電気をつけて、薄化粧をして、出迎えをするのだろう。
 いやになるな、と、口の中で呟き、雛子は服を着たままベッドに身を投げた。今夜もどうせ、うなされ、眉間にしわを寄せ、寝苦しそうに、ひとり寝るしかないのだ。
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