観音通りにて・父親

美里

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 ぎくりとした。コートのポケットの中、札と一緒にねじ込んだ、新聞紙にくるんだ果物ナイフ。
 どこまで本気なのか、自分でも分からなかった。ただ、出がけにシンクの下を開き、ナイフを取りだした。そうせずには、いられなかったのだ。ナイフなしに、俺は父親を買えはしなかった。
 父親は、平気な顔をしていた。俺の殺意に気が付きながら、その顔で俺と寝たのかと思うと、めまいがした。めまいついでに、掴んでいた父親の手をぱらりと離すと、父親はすっと目を眇めた。
 「いいんですか? 刺さなくて。」
 俺は、首を横に振った。どういう意思表示でそうしたのかは、自分でもよく分からなかった。父親を買ってから、自分のことなのに分からないことだらけだ。それが、苦痛だった。自分で自分を掴めないことが。
 「……平気なのかよ。自分を殺そうとしてるやつと二人っきりで。……それも、慣れてんの?」
 俺がなんとか言葉を紡ぐと、父親はさらりと首を傾げ、歌うように返してきた。
 「まあ、そこそこには。」
 そこそこには。
 なんだそれは、と、言いたかった。
 フリーランスで売春をしているのだから、身の危険にさらされることが多いのは理解できる。死を覚悟するような目にも、一度ならず遭遇しているのかもしれない。でも、なんでそんなに、どうでもよさそうにしているのか。
 「あなたも、大きくなりましたしね。」
 自分で金を稼げるくらい、と父親は言った。自分で稼いだ金で、父親を買った俺は、黙っていた。言葉が見つからなくて。大きくなった、と、息子の成長について話題にしているというのに、目の前の男からは、やっぱり父性みたいなものは微塵も感じられなかった。
 しばらく、無言の間が流れた。父親は、下着を拾い直して身に付けたのをしおに、次々に衣類を身に着けて行った。いかにも立ちんぼ然としていた真っ白い身体が、見慣れた父親の装いに包まれていくのは、まるっきりできそこないの手品みたいで、俺は瞬きもできずにそのさまを眺めていた。
 「もう、いいですか?」
 鴨居に吊るしたハーフコートに視線を流しながら、父親がなにかに飽きたみたいに問いかけてくる。一万円分、気が済んだかと。
 俺は布団の上に半身を起こし、そこでようやく、父親を引き留めるための言葉を探している自分に気が付いた。
 引き留めて、どうするのだ。今ここにいるのは、一回一万円で買った立ちんぼでしかない。俺の父親は、どこにもいない。
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