観音通りにて・母親

美里

文字の大きさ
2 / 30

しおりを挟む
 どんな文脈で発せられた言葉であれ、私にとってその言葉はほとんど天啓だった。
 観音通りに行けば、私一人でも生きていける。
 座り込みかけていた膝に喝を入れ、なんとか立ち上がる。そのまま、住宅街を抜けて駅の方面へ向かい、線路に沿って一駅分歩いた。真っ暗で、いつの間にか降り出した雨が身体を叩いた。観音通りについても、なにをどうやればそこで生きていけるのか、私は分かっていなかった。ただ、あのときの父親の口ぶりからして、快適な生活は待っていないと理解していただけだ。
 重い身体を引きずって、一駅分歩きとおす。駅の北側、夜中なのに妙に活気のある一帯が観音通りだと、すぐに分かった。看板なんかが出ているわけではないけれど、長屋が立ち並び、その前で女たちが、通りかかる男たちの袖を引いていた。
 ここだ。ここで身体を売れば、女一人でも生きていけるという意味だったのだ。
 父親の言葉の意味をしっかりと把握した私は、どっと疲れ込んだ。ここまできても、身体を売らねば食ってもいけない自分の身が、ひどく重たいものに感じられた。重いその身に、観音通りの軽やかでいっそ明るい雑踏は、苦しすぎた。私は自分自身を引きずるみたいに表通りから一本裏路地へ入った。するとそこは、戦後そのままのトタン板のバラックが立ち並ぶ、ひどく静かな小道だった。観音通りと隣接しているとは思えないほど、ここには街灯の灯りも届かない。
 私はなんだか安心して、その場に蹲って膝を抱えた。
 ここは、静かだ。少し、眠りたい。眠ったらもう、目が覚めなければいい。どうかもう、明日なんて来ないでほしい。
 信じたこともない神に祈り、目を閉じる。疲れ切っていたから、すぐに意識は遠のいた。これで楽になれるな、と、ぼんやり思っていたところで、声が聞こえた。
 「雨よ。帰りましょう。」
 若い女の声だった。夜闇によく似合う、やや低めの声。はじめ私は、その声が私に向けられているものだとは思わなかった。だって、その声はごく親しい人に向けて、ごく当たり前に帰宅を促すものにしか聞こえなかったのだ。私には、観音通りには、というかこの世のどこにも、そんな親しげな口をきいてくれるひとはいない。
 けれど、その声はもう一度、全く同じ響きで繰り返された。同時に、肌を刺していた冷たい雨が遮られる。
 私が驚いて目を開けると、長い髪の女のひとが、こちらに赤い番傘をさしかけていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

処理中です...