10 / 22
10
しおりを挟む
『就職のことなんだけどね、』
と、姉の夫は端的に切り出した。俺は、ただ黙っていた。
『東京以外の場所を、考えてみてほしいんだ。』
「え?」
一瞬なにを言われているのか分からなかった。東京以外の場所。俺はそんな場所に、この二十数年の人生で、行ったこともない。
姉の夫の声は、静かで、穏やかで、いっそ無機質だった。
『妻から、離れてほしい。……勝手なことを言って、ごめんね。』
妻、という単語と、姉の姿が結びつかずに戸惑ったのは、数秒間。その間、姉の夫は黙って俺の返事を待っていた。
「……姉は、なんて言ってるんですか?」
ぎりぎり喉から絞り出した問いに、姉の夫は凪いだ声で答えた。
『彼女は、なにも知りません。僕の勝手な希望だから。』
俺は、その言葉を信じられなかった。だって、姉の夫は姉の携帯から電話をかけているのだ。そこに、姉がいるのではないか? 姉は、すぐ側にいるのではないか?
「代わってください、姉に。……いるんだろ? 出ろよ!」
後半は、錯乱したみたいな声を出した自覚はある。妙に冷静な自分がいて、そいつが錯乱した俺を斜め上から見下ろしている。
「おい! 出せ!」
『祐樹くん、』
「いるんだろ!?」
『いないよ。彼女は、いない。』
「嘘だ! あいつがいないわけない! 裏切る気かよ、今になって!」
今になって、裏切る気か。一緒に狂って、死ぬほど抱きあったあのアパート。あそこを出る日にでもあっさり裏切ってくれていれば、俺だってこんなにならずに済んだのに。いっそ安心して、姉を送り出せたかもしれないのに。それなのに、最後の朝にさえ俺を求めた女が、夫の留守には必ず俺を家に引き入れた女が、どうして、今更。
さらに喚こうとした俺を止めたのは、姉の夫でも、姉本人でもなく、淳平だった。濡れた髪のまま、驚いたように部屋のドアを開けた淳平は、俺からスマホをとりあげた。あっさりスマホを奪われた俺は、それを取り返そうと一瞬もがいたけれど、身体の力が抜けてその場に蹲った。視界の端で、淳平が黙って電話を切るのが見えた。
無言の間が空いた。淳平は、俺のスマホを持ったまま、じっと俺を見下ろしていた。その顔は、泣いているみたいにも見えた。
「……勝手なことして、ごめん。」
髪、乾かしてくる。そう言って、俺に背中を向けた淳平の腕を、思わず掴んでいた。今、一人にされるのが怖かった。どうしても。
と、姉の夫は端的に切り出した。俺は、ただ黙っていた。
『東京以外の場所を、考えてみてほしいんだ。』
「え?」
一瞬なにを言われているのか分からなかった。東京以外の場所。俺はそんな場所に、この二十数年の人生で、行ったこともない。
姉の夫の声は、静かで、穏やかで、いっそ無機質だった。
『妻から、離れてほしい。……勝手なことを言って、ごめんね。』
妻、という単語と、姉の姿が結びつかずに戸惑ったのは、数秒間。その間、姉の夫は黙って俺の返事を待っていた。
「……姉は、なんて言ってるんですか?」
ぎりぎり喉から絞り出した問いに、姉の夫は凪いだ声で答えた。
『彼女は、なにも知りません。僕の勝手な希望だから。』
俺は、その言葉を信じられなかった。だって、姉の夫は姉の携帯から電話をかけているのだ。そこに、姉がいるのではないか? 姉は、すぐ側にいるのではないか?
「代わってください、姉に。……いるんだろ? 出ろよ!」
後半は、錯乱したみたいな声を出した自覚はある。妙に冷静な自分がいて、そいつが錯乱した俺を斜め上から見下ろしている。
「おい! 出せ!」
『祐樹くん、』
「いるんだろ!?」
『いないよ。彼女は、いない。』
「嘘だ! あいつがいないわけない! 裏切る気かよ、今になって!」
今になって、裏切る気か。一緒に狂って、死ぬほど抱きあったあのアパート。あそこを出る日にでもあっさり裏切ってくれていれば、俺だってこんなにならずに済んだのに。いっそ安心して、姉を送り出せたかもしれないのに。それなのに、最後の朝にさえ俺を求めた女が、夫の留守には必ず俺を家に引き入れた女が、どうして、今更。
さらに喚こうとした俺を止めたのは、姉の夫でも、姉本人でもなく、淳平だった。濡れた髪のまま、驚いたように部屋のドアを開けた淳平は、俺からスマホをとりあげた。あっさりスマホを奪われた俺は、それを取り返そうと一瞬もがいたけれど、身体の力が抜けてその場に蹲った。視界の端で、淳平が黙って電話を切るのが見えた。
無言の間が空いた。淳平は、俺のスマホを持ったまま、じっと俺を見下ろしていた。その顔は、泣いているみたいにも見えた。
「……勝手なことして、ごめん。」
髪、乾かしてくる。そう言って、俺に背中を向けた淳平の腕を、思わず掴んでいた。今、一人にされるのが怖かった。どうしても。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない
すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。
実の親子による禁断の関係です。
過保護な父の歪んだ愛着。旅立ちを控えた俺の身体は、夜ごとに父の形で塗り潰される
中山(ほ)
BL
「パックの中、僕の形になっちゃったね」
夢か現か。耳元で囁かれる甘い声と、内側を執拗に掻き回す熱。翌朝、自室で目覚めたパックに、昨夜の記憶はない。ただ、疼くような下腹部の熱だけが残っていた。
相談しようと向かった相手こそが、自分を侵食している張本人だとも知らずに、パックは父の部屋の扉を開く。
このお話はムーンライトでも投稿してます〜
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる