24 / 31
5
しおりを挟む
じゃあ、と、軽く手を上げ、マリさんは風呂を出ていこうとした。その動作はあまりにさらりとしていて、本当に彼女は私を見ていてくれはしたのだろうけれど、それ以上の余計な情は寄せていないのだろうと、はっきり分かった。
私にとって、それくらいの間隔は心地よいとすら言えた。心のなかにまでは踏み込まない冷静さ。
だから咄嗟に私が彼女の手を掴んで引き止めたのは、その冷静さに縋るみたいな気持ちだった。
「だめなのは、分かってるんです。」
私の声は、ぎすぎすと掠れていた。風呂場には女郎たちの嬌声が反響していたけれど、私の声はそこに紛れられず、すとんと床に落ちた。
サチさんも、マリさんも、他の女郎たちも、一気に私を見た。
私はその視線に怯みはしなかった。怯むほどの心の余裕がなかったのだ
「ずっと紅子を見張っているなんて、だめだって、分かっているんです。でも……、」
上手く言葉が組み立てられなかった。
私が黙ると、女郎たちはまた銘々のおしゃべりに戻っていった。サチさんは心配そうに私を見ていた。マリさんは、風呂から上がろうと立ち上がった姿勢のまま、ただ無表情で私に掴まれた右手を見下ろしていた。
「でも、……そうしないではいられないんです。どうしても。怖いんです。紅子がいなくなるんじゃないかって。」
なんとか言葉を絞り出し、私は半ば怯えるようにマリさんを見上げた。彼女はあっさり私の手を振り払って、去っていくのではないかと思っていた。
けれどマリさんはそうはせず、ちゃぽん、と湯に浸かり直し、そう、と呟くように言った。
「いくら怖がって見張っていてもね、いなくなるときはいなくなるのよ、人って。」
マリさんの声には、妙に実感がこもっていた。わたしは、この人は多分、大切な人をなくしたことがあるのだろう、と思った。
「だから、今あなたがしてることは、結局無駄なのよね。」
突き放すような、マリさんの言いぶり。驚いたように、サチさんがマリさんの腕を掴んだのだから、普段彼女はこんな物言いはしないのだろう。
「……無駄。」
私は、ただ彼女の台詞を繰り返しだ。それ以外できなかった。そう、無駄よ、と、マリさんが軽く頷いた。
「人間は、一人と一人よ。いくらあなたたちが似ていてもね。」
じゃあ、と今度こそ軽く手を上げ、マリさんは風呂から上がり、脱衣場の引き戸の向こうに消えていった。
私にとって、それくらいの間隔は心地よいとすら言えた。心のなかにまでは踏み込まない冷静さ。
だから咄嗟に私が彼女の手を掴んで引き止めたのは、その冷静さに縋るみたいな気持ちだった。
「だめなのは、分かってるんです。」
私の声は、ぎすぎすと掠れていた。風呂場には女郎たちの嬌声が反響していたけれど、私の声はそこに紛れられず、すとんと床に落ちた。
サチさんも、マリさんも、他の女郎たちも、一気に私を見た。
私はその視線に怯みはしなかった。怯むほどの心の余裕がなかったのだ
「ずっと紅子を見張っているなんて、だめだって、分かっているんです。でも……、」
上手く言葉が組み立てられなかった。
私が黙ると、女郎たちはまた銘々のおしゃべりに戻っていった。サチさんは心配そうに私を見ていた。マリさんは、風呂から上がろうと立ち上がった姿勢のまま、ただ無表情で私に掴まれた右手を見下ろしていた。
「でも、……そうしないではいられないんです。どうしても。怖いんです。紅子がいなくなるんじゃないかって。」
なんとか言葉を絞り出し、私は半ば怯えるようにマリさんを見上げた。彼女はあっさり私の手を振り払って、去っていくのではないかと思っていた。
けれどマリさんはそうはせず、ちゃぽん、と湯に浸かり直し、そう、と呟くように言った。
「いくら怖がって見張っていてもね、いなくなるときはいなくなるのよ、人って。」
マリさんの声には、妙に実感がこもっていた。わたしは、この人は多分、大切な人をなくしたことがあるのだろう、と思った。
「だから、今あなたがしてることは、結局無駄なのよね。」
突き放すような、マリさんの言いぶり。驚いたように、サチさんがマリさんの腕を掴んだのだから、普段彼女はこんな物言いはしないのだろう。
「……無駄。」
私は、ただ彼女の台詞を繰り返しだ。それ以外できなかった。そう、無駄よ、と、マリさんが軽く頷いた。
「人間は、一人と一人よ。いくらあなたたちが似ていてもね。」
じゃあ、と今度こそ軽く手を上げ、マリさんは風呂から上がり、脱衣場の引き戸の向こうに消えていった。
0
あなたにおすすめの小説
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
踏み台(王女)にも事情はある
mios
恋愛
戒律の厳しい修道院に王女が送られた。
聖女ビアンカに魔物をけしかけた罪で投獄され、処刑を免れた結果のことだ。
王女が居なくなって平和になった筈、なのだがそれから何故か原因不明の不調が蔓延し始めて……原因究明の為、王女の元婚約者が調査に乗り出した。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる