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第四章 第二次大戦とその後

46  ニジンスキーは生きている

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 一九四七年、フランス政府がぼくのこれまでの功績を認めて、パリに帰ることを許してくれた。

 一度は諦めたパリオペラ座に、ぼくは戻ることができた。
 しかし、罪を取り消されても、ジャーナリストの攻撃はその後もずうっと続いた。世間はそんなに簡単には許してはくれないのだ。
 
 戦争中、ニジンスキーは病院を出てから、どこから疎開したらしいが、その行方を知る者はいなかった。
 当時、ドイツはフランスだけではなく、イギリス、ロシア連邦、オーストリア、ハンガリーなど多くの国を支配下に置いていた。ナチス占領下では精神病者は抹殺されたし、その上、彼はユダヤ系なのだから、彼は殺されてしまったに違いないと噂されていた。戦争の混乱の中で、食料品を手にいれるのも困難な時、彼はもう生きてはいないのではないかと危惧していた。

 ある日、キリルの友人の記者のブルーノ・モリスから、ついに彼を見つけたのだったという知らせがきた。彼とはニジンスキーのことで、ブルーノは彼の後を追いかけていた。

「ニジンスキーは生きている」
 雑誌「ライフ」に、ブルーノはそう書いた。
 彼は最近になって、ウイーンに移ってきて、そこで暮らしているのだという。

「かつて世界一のダンサーと呼ばれた男が、戦争を経て姿を現した」
 大型雑誌の1ページ目に、ニジンスキーとロモラの写真があった。
 
 ニジンスキーは病院で会った時より、顔が引き締まっていた。
 白黒写真なので色はわからないけれど、たぶんチャコールグレーだと思われるチェスターフィルドコートを着ている。口元を見るとカメラに向かって微笑んでいるつもりらしいが、目は笑ってはおらず、困惑している様子に見える。まだこの写真家を信用していない感じがあった。
 彼の隣りにはあのロモラがいた。
 クラッチパックを両手で抱いて、左手の指には吸いかけのたばこがはさまれている。以前に見たロモラの本の中の写真はまさにお嬢様だったが、今はその面影がなかった。随分年齢を取ったなと思った。

 ぼくはロモラが戦争中も、ニジンスキーに寄り添っていた姿に心を打たれた。はじめて、彼女に好感をもった。もう過去のことは忘れて、夫を守り抜いたことを称えようと思った。

「ロモラ夫人は作家風ですね。バージニア・ウルフかと思いました」
 とキリルが言った。
 なるほどとぼくは思った。
 
 ロモラは上着を肩にかけ、細いヘアバンドをつけた短髪を風に乱して、彼の肩ひとつ後ろに立っている女性は、妻というより、母親かマネージャーのようだ。
 ぼくはロモラのことは想像したことは何度もあるが、実際に会ったことはない。でも、電話では、何度か親しく話をしたし、チャリティ公演のことでは、丁寧なお礼の手紙をもらった。あの声や、筆跡の主が、この人なのだ。

 あのスイスの病院のあと、ロモラは夫を連れてアメリカに渡ろうとしたのだ。イタリアまでは行ったのだが、渡航寸前にだめになり、ロモラは戻るところがなくなってしまった。いたるところがナチスに占領されており、ナチスは精神病者を殺す。

 ロモラはオーストリアに近いハンガリー側のエデンブルグという村に疎開することにした。一九四四年、ナチスに代わりソ連軍が台頭すると、ソ連兵は町や村を壊し、多くの強姦が行われたのだという。
 そのエデンブルグにもソ連兵がやってきて、村のあちこちで、ロシア語が聞かれた。ロモラはソ連軍に見つかれば強姦され、夫は殺されるかもしれないと恐れた。

 しかし、ソ連軍の長官はニジンスキーの名声を知っていて、彼が生きていて、この小さな村にいることに驚いた。長官は彼に害を加えないどころか、部下に命じて食料などを届けさせた。
 ニジンスキーは特別待遇で、外出も自由だった。彼は最初は遠巻きに見ていたが、しだいにロシア兵達と話をするようになり、時には飲んだり、踊ったりして、明け方に帰ってくることもあった。
 
 夫妻はある時、ソ連軍の長官からウイーンに招待された。
 ザッハー・ホテルに泊まり、ソビエト連邦一のバレリーナ、カリーナ・ウラノアの「ジ・シルフィード」を観た。公演の後で、ダンサーたちは、伝説のダンサーと会うことができて大感激していた。彼は長いことウラノアを見ていたが、ふと立ち上がったかと思うと、
「あなたはすばらしいダンサーです」と言ったから、ウラノアはうれしすぎて泣き出したという。
 
 やっぱりそうだったとぼくは思った。
 ニジンスキーに必要なのは「ロシア語」と「バレエ」なのだ。
 彼はバレエを見て、ロシア人の彼女に、ロシア語で話しかけたのだ
 ぼくはずうっと前からそのことに気づいていながら、何もしないでいた。そこにはロモラや医療という壁があったが、ぼくにできることがもっとあったはずなのに。ぼくは、何か行動しなければならない。
 どうにかして、兄さんを、もう一度、舞台に立たせてみたいと思った。彼とぼくで踊るのだ。ニジンスキーは復活できる。
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