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第四章 第二次大戦とその後

49. プッサンのアルカディア

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「この絵はプッサンがローマにいた時に描いたものです」

 そう言って、キリアンがノートを開いた。
 この絵のことについては調べたことがあるので、誰かと話してみたいと思っていたのだという。
 ぼくはうれしかったが、喜びが顔に出過ぎてしまわないように唇に力をいれた。軽薄な男に見られたくはない。

「依頼主はジュリオ・ピリオッシというトスカーナ出身の三十代の男性で、プッサンとは友達で、詩や劇作が大好きな人でした。でも、このジュリオは後に、ローマ総督、枢機卿、そしてローマ教皇クレメンス九世になったお方です。クレメンス九世は、あのサンタンジェロの橋に十体の天使が立っていますけれど、ベルニーニにあれを依頼した教皇です」

 この絵は教皇が亡くなった後、フランス国王のルイ十四世の所有になった。太陽王と呼ばれたルイ十四世は一七一五年に崩御するまで、この絵をそばにおいて置いたと言われている。

「それが本当だとしたら、この絵をなぜ、ローマ教皇やフランス国王がどうしてこの絵を、いつもそばに置いておいたのかと不思議には思われませんか」
「はい、不思議に思います」

「専門家はこの絵のテーマはメメント・モリ、つまり、死を忘れるな、だと言っています。つまり、つまり、いつ死というものは、いつ訪れるのかわからないのですから、時間を無駄にしてはいけないということですよね」
「はい」

「でも、考えてみますと、教皇や国王は、若い時ではなく、死が目前に迫って来た時に、この絵をそばにおいて見ていたのですよ。キリスト教では、神が天国を約束してくれているのですよね。でも、教皇や国王がキリストや聖母マリアの絵ではなくて、このアルカディアの絵をそばにおいておいた意味は何なのでしょうか。どう思われますか」

「ああ、そうなのですね」
 とぼくは考えこんだ。少しはましな返答がしたい。
  ぼくはほんの数分間考えていたつもりだったが、どうやら二、三十分近くこの姿勢でいたらしい。気がつくと、キリアンがぼくの顔を覗き込んでいた。
「どうかなさいましたか」
「すみません」

「何を考えていらしたのですか」
「違うかもしれませんが、ぼくは自分のことを考えていました。ぼくは若い頃にパリにやってきたのです。ぼくにとっては、パリという場所が、ぼくのアルカディアでした。でも、ようやくパリに辿りついて、バレエ団にいれてもらえた時、少しでもよい役につきたいと思いました。それが手にはいった時は、今度はセンターで踊りたいと思いました。それがかなった時には、振付がしてみたいと。ぼくのアルカディアは、そこに到着したかと思ったら、アルカディアはさらに遠くて・・・。ああ、ぼくはなにか、変なこと言っていますか」
「いいえ。聞かせてください」

「ぼくには、この絵のテーマは死のことではないように思います。理想郷を求めてたどり着いたら、そこにも死はあった、というような絵ではないとぼくは思います。古い石に言葉を残した人は、その地に到達し、そこで暮らして、そこで亡くなったのでしょうか。ぼくの素人考えですが、もしかしたら、その人はその言葉を刻んで、次のアルカディアを目指して行ったのではないかと思うのですが、なんか、変ですか」
「いいえ、とてもおもしろいです」
 
 こういう考え方もできるとかできないとか、ぼく達の話が四方に飛んだ。
 ぼくはこの絵画をバレエなしてみたいと話した。
 それまでは、牧人が、どこにいっても死から逃れられないと悟るところで終わりにしようと考えていたけれど、今は違う。また次の旅に向かうところで終わりにしてはどうかと考えている、と。

「私も正解はわかりません。でも、いろんな解釈ができるのがおもしろいところです。そんな会話をできるのは楽しいです、とても。やはりジュリオの依頼で、この絵と同時に描いた映画に『人生の踊り』というのがありますよ」
「どんな絵ですか」
「男女が楽しく輪になって踊っている絵です。空には馬車に乗ったアポロンがいます」
「ここにあるのですか」
「いいえ。ロンドンです」
「ご覧になられたのですか」
「はい」 
「見たいなあ。キリアンさんはとても絵画がお好きなのですね」
「ええ」
 美術館で働いている人が絵画を嫌いなわけがない。ぼくにはどんな質問が適切なのか、わからない。変な質問をしてしまったと後悔した。

 けれど、キリアンはぼくにがっかりすることなく、翌日にも会う約束をしてくれた。
 帰り道、セーヌ沿いを歩きながら、ぼくは自分に、きみにしてはよくやったじゃないかと、自分を褒めたい気持ちだった。


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