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第四章 第二次大戦とその後

50. モナリザ

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「ルーヴルの中で、どの作品が一番お好きですか」
 翌日、キリアンに会った時、ぼくは尋ねた。昨日の晩から考えておいた質問だ。

 キリアンはそうね、と考えながら、コーヒーを一口飲んだ。この質問がだめなら、次は何を訊けばよいのだろうと、ぼくは頭をフル回転させていた。

「モナリザです」
 とキリアンがしなやかに微笑んだ。

「ああ、ミケランジェロのモナリザ、人気ありますよね」
 キリアンの瞳がおかしそうに笑っていた。
 ぼくはその時、ダピンチというところをミケランジェロと言ってしまったことに気がついた。ダビンチの作だということは小学生でも知っている。ぼくときたら、しなくてもよい失敗をして、無能さを丸出しにしてしまった。これは挽回できるレベルなのだろうか。

「ダビンチのところ、言い間違えましたか」とぼくはおそるおそる訊いた。
「いいえ、大丈夫よ」
 キリアンは何事もなかったかのように言った。

「どうして、モナリザが一番、お好きなのですか」
 この質問は窮地の凡打かと思われたが、これがヒットになったのだった。人生は何が起きるのか、わからない。

 キリアンが話し始めた。
 世界には、人物を描いた絵画は数えきれないほどたくさんある。もっと美人の絵もあるし、魅力的な表情のもの、泣いているところ、悩んでいるところなど、何十万枚、それ以上あるかもしれない。しかし、こんなに満ち足りた表情を描いた絵画はこれひとつ。トランクゥリティーの状態、つまり心が静かで、穏やかで、優しさと感謝で満ちている表情はこの一枚だけ。

「ああ。そうなのですね」
 ぼくはそんなことを考えたことがなかったけれど、言われてみると、確かにそうだと感心した。

 モナリザは若くはない。きっといろんな人生を歩いてきて、こういう境地に達し、それが表情に現れたのだと思う。
 この絵を見ていると、この女性の人生が感じられて、まるで1冊の厚い本を読んだような気になる。ダビンチだって、何十年もかけて、この一枚を描いたと言われているけれど、その意味がわかる。
 私はモナリザのようにはなれるはずがないけれど、近づきたいとは思っている。
 ダビンチはきっとこういう女性を見たはず。フィレンツェでかしら。その女性は、その時、そういう静寂な中にいたのだわ。そうでなければ、こういう奇跡の一枚は描けないと思う。
 キリアンはそういう話をした。

 キリアンの白い頬が少しピンク色に染まっていた。
「私、モナリザのことを語っていたら、興奮してしまったようですわ。ごめんなさい」
「謝ることなんか、何もないです。ぼくは感動しています。そんなふうに、考えたことがありませんでしたから」
「少しは説得力、ありました?」
「はい。あなたの考えに、100パーセントの賛意を表しますよ」
 すると、キリアンはいたずらっぽく笑って、
「私、モナリザが誰なのか、考えがありますのよ」と言った。
「ぜひ、聞かせてください」
「それについては小論文を書いていますので、その話はまたいつか。世界中の専門家がいろんな意見を述べているでしょう。こんな素人の私の仮説なんて、相手にしてもらえないでしょうが、私としては大発見なのよ」
 リリアンが無邪気な笑いをみせた。
「そのこと、ぜひ聞かせてください」

 ルーヴルを出てからオペラ座までの道を、ぼくはどのように歩いたのか覚えてはいないが、道を歩いている人々が、みんな善良に見えた。ぼくは世界中の人々の幸せを祈りたい気分だった。
 その午後、雨上がりに見たオペラ座は、まるでアポロの神殿のようで、金色に輝いていた。

 オペラ座に戻ると、キリルが事務室にいたから、
「キリアンがパリにいるそうじゃないか」
 とぼくが少し責めるように言った。

「そうですよ」
 ぼくは、キリルがなぜそのことを教えてくれなかったのかと訊いた。
「言いませんでしたか」
 とキリルが素っ気なく言った。
「いや、聞いていない」
 彼はしばらく無言でいたが、ふっと顔を上げて、いつもの笑顔を見せた。
「いとこがまた離婚して、パリに戻ったなんてくだらない話、多忙なセルジュに言うことでもないでしょう」
「そ、それはくだらない話なんかではないよ」

 キリルは、キリアンから今度はひっそりと暮らしたいから、誰にも言わないでほしいと頼まれていたのだという。
「でも、キリアンのことは、ゴシップ新聞によく載っているでしょう。どこかの国の皇太子と付き合っているとか、騒がれていますよ。セルジュはそれを知っているものとばかり思っていました」
「全然、知らないよ」
「まあ、スキャンダルなんていうものはくだらないし、知らなくていいのです。大体時間の無駄ですし、知る必要なんかないですから」

 ぼくはキリアンとルーヴルで偶然に出会い、楽しい時をすごしたことを告げた。 
「へぇぇ」
 キリルが思わず声を上げた。
「どんな話をしたのですか」
「モナリザの話とか」
「ああ、あれですか。おもしろいですか」
 キリルはちょっと白けた顔をした。

「とてもおもしろくて、あんな楽しい話は久しぶりだよ」
「そうかなぁ。モナリザが洗礼者ヨハネの母親だという話でしょう」
「そうなのかい。そこまではまだ聞いていない」
「ぼくはもう飽きるくらい聞きました。そんなにおもしろい話ではないですよ」
 彼にしては珍しくすねたような顔をした。三歳年上のいとこには、こういう甘えた表情がでるのだとおもしろく思った。
「ぼくは、ぜひ聞いてみたい」
「本人は大発見のように思っていますけれど、たいした話ではないです。期待しないほうがよいですよ」

「キリル、きみはいつもは柔和なのに、キリアンのことになると辛辣だね。喧嘩でも、しているのかい」
「えっ。そんなこと、全然ないですよ。喧嘩なんかしていません。仲、いいですよ」
「それなら、いいけど」

「少し年上だと思って、いろいろ言ってくるから、うるさいだけです。自分のことを心配したほうがいいっていう話ですよ」
「そういういとこがいるきみが羨ましいよ」
「そうかな。ぼくはキリアンがいとこでなかったらよかった、と思うことがあります」
「なんて贅沢な話なんだ」
 ぼくにキリアンみたいないとこがいたら、人生がどんなに満ち足りることだろうと心から思った。
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