ブアメードの血

ハイポクリエーターキャーリー

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 池田敬は落ち込んでいた。

せっかく、辿り着いた小さな手がかりは、外れだった。


 塚本内科は町の診療所といった小さな個人病院で、院長の塚本は診療を終えて、待っていてくれた。

年齢は、六十は過ぎているだろう、白髪交じりの薄い頭の代わりのように髭を多く蓄え、腹は出ている。

簡単に事情を説明し、持って来たパソコンで動画を見せるまでは素直に応じてくれたものの、

「こんな、暗い映像じゃ顔もよう見えんし、しかもこんなダミ声の女医なんて知らん」

と言って、老眼鏡を外した。

本当に全く見当がつかない様子だ。


 「そう言わないでもう一度、見てみてください。だみ声って先生の声に似てますし…

それにほら、この人、先生のことを知った感じで言ってますよね、その…ヤブ医者でろくな…」

「失敬な!」

池田の失言もあり、塚本はそう言って、あとは考えようともしなかった。

「所長、ミスが多すぎです」

中津の言葉に、もはや池田は反応しない。

「なんでも結構です。他にお気付きの点はございませんか?」

中津が取り繕うように言った。

「ああ、映画が始まる前に出てた最初のナースの恰好をしていた司会者、マスクでよく見えんかったが、そのきゃんきゃん声をどこかで聞いたことがあるくらいか」

「ああ、同じ帝薬大の同級生なんで、ここに来たことがあるかもしれません」

と、静が説明する。

「ああ、なるほどな。

一度だけだが、確か風邪か何かできたことがあるのかもしれん。

こんな子供のような声は、色気がないなと思った記憶がある。

まあ、それぐらいだよ、もうこれ以上はわからん。勘弁してくれ」

勝元は突き放すように言った。

「あの、この映像しか、手がかりがないんです。

兄はまだ、どこかに捕まっているのかもしれないんで、どうか、お気を悪くされずに…

誰か、候補でもなんでも、思い当たりませんか?」

静は諦めきれずに、食い下がる。

「わからんと言っているだろうが…ああ、それより、君が佐藤さんかね」

「はい…?」

「佐藤って、お父さんが有名な、あの帝都大の佐藤教授だろ」

「ええ、まあ…父をご存知でしたか」

「彼の娘さんの頼みじゃなけりゃ、こんな依頼は受けなかったよ。

いつだったか、一志君と世間話をしているうちに、お父さんがあの佐藤勝教授ってのを知ってね。

彼はお父さんとあまり上手くいってないようだったが、お父さんの著書を褒めたら、まんざらでもなさそうだったな。

私はね、神の一隅!あのフレーズが好きでね、とても引き込まれたよ」

勝元は急に機嫌を直す。

「そうだ、この映像の医者は、遺伝子のことをあれこれ言っているし、科学者でもある、って言っているじゃないか。

お父さんに訊いてみたらどうだい」

<いや、それ先に言うか?俺の次善の策だったのに…>

池田が心の中で悔しがった。


「あ、そうですね…でも、父が知っていますかね?」

静は気乗りしない面持ちで言った。

<それみろ、静ちゃんはお父さんと上手くいっていないんだよ>

「どっちにしろ、私は知らんし、駄目で元々だろう。

それに、遺伝子工学は君のお父さんの専門分野だ。

本当に、これが誘拐ビデオだとでも言うなら、この女はそれなりの知識と施設も持っていて声も変わっている、ときたもんだ。

嚢中の錐と言うし、そんな目立つ女なんて、その世界にそうはおらんだろう」

「わかりました。聞いてみます…」

静は気乗りしない様子で言った。

その傍らで池田が

「のうちゅうのきりってなんだ?」

と聞くのを中津が表情をきつくし、無言で諌めた。


 「では、今日はお忙しいところ、ありがとうございました」

「お兄さんが見つかったら、ぜひまた来てくれ。あと、お父さんの本にサインをもらえるとありがたい」

帰り際の玄関で、塚本は半ば強引に静の手を取って握手する。

<俺でさえ、まだ握ったことないのに、くそ。それに、佐藤教授に訊いてみる、というのは俺も考えていたアイデアだ>

池田は苦々しく思った。


 「お父さんは、もう自宅にいらっしゃるんですか」

静を家に送ることにした車の中で、中津が運転しながら訊いた。

「もう七時を過ぎてますし、帰っていると思います」

「あの、ところで『神のいちぐう』ってなんなんです?」

今度は助手席の池田が訊く。

「ああ、それは、父が書いた『インフレーション進化論』っていう論文の解説本があって、そのキャッチコピーみたいなものです。

出版社が作った言葉なんですよ。

父の論文は、遺伝子の進化についてで、簡単に言いますと、古生代っていう時代に生命の細胞が有糸分裂から減数分裂へ発展していく過程において、ある特別な状態があった、というものです。

父はそれを『遺伝子の進化過程における特異点』と呼んでいました。

そのままですけどね。

その点というのは、遺伝子配列が異常に不安定な状態で、言い変えれば、とても変異しやすい状態というか…」

「カンブリア爆発って奴ですか」

運転中の中津がそう言ったのを聞いて、既に半分、話についていけていない池田は焦った。

「ええ、よくご存知ですね。

生命の樹がそこから大きく、また、たくさんの枝を分けていった、というものです。

父もカンブリア爆発直前がその特異点であった、と論じました。

そして、その不安定な状態の遺伝子を古い地層の中に生き残っていた原始のウィルスの中に見つけて、学会の注目を浴びたんです。

父はそのウィルスをパームウィルスと名付けました。

出版社がその論文に目を付けてくれて、父にロングインタービューって形で、わかりやすく解説したものを出版して…」

「勝元先生のお目にとまった、という訳ですね」

「ええ、そうみたいですね。

父のこととはいえ、なんだか照れくさいですけど…」

静は少し苦笑いして、話を進める。

「それで父は、その本の最後に、その特異点というのは後にも先にもその時だけ、遺伝子の飛躍的な進化にとってはまさに神が与え賜うた千載一隅の好機であった、と結びました。

ご存知かどうか、特異点から始まった宇宙は“神の一撃”からと呼ばれることがあって、それなら生命進化の特異点の始まりは『神の一隅』、と縮めて呼ぼう、って。

ちょっと強引ですよね」

「いちぐうって、千載一隅のいちぐうですか、なるほど。

あのところで…」

池田は頭をかきながら、またわかった風を決め込んだところで、話題を変える。

「えっと、お家に帰られてからのことを…」


 「立派な家ですねえ」

静の家に到着した池田は、目を見張る。

カイヅカイブキの垣根が続き、その切れ目にある門から見える建物は、石造りの瀟洒な洋館だ。

「あの、ひいお爺ちゃんの代からあって、最近、それらしくリノベして使ってます。大きいだけです。

それじゃあ、送っていただいて、ありがとうございました。

父から話が訊けたら、すぐ報告します」

静は照れくさそうに、大きな門の前に停まった車を降りた。

「ほんとに我々が付いていなくていいですか」

「はい。家族だけの方が父も話しやすいと思います。

それにあの…探偵さんに依頼してることもまだ言ってないんで…

こういう言い方は失礼ですが、いらっしゃると返って面倒なことになるかも…」

「ああ、そうですね、ではこれで」


 走り出した車の中で、池田は玄関に向かう静をできる限り、目で追っていた。

「お名残惜しそうですね」

中津が冷めた口調で言った。

「中津、いい加減にしろよ、お前。

今日という今日は…」

「本当のことを言ったまでです。

探偵が事実を言って、許されないも何もないと思います。

気に入らないなら、運転変わってください。

私はもう休みたいんで」

池田と中津の言い争いは事務所に帰るまで続いた。


 「お父さん、ちょっと話があるんだけど…」

静は風呂上りの勝に声をかけた。

「遅く帰っておいてなんだ?急に」

そう言いながら、勝はキッチンの冷蔵庫から、ビールを取り出した。

洗いたての頭は少し薄くなっているものの、黒々としており、広めの額の下には、遠視用の黒縁の眼鏡をかけ、その奥の知性を携えた眼をより大きく見せている。

「ちょっと見てほしいものがあって」

静は、キッチンの大きなテーブルに着いた勝の側に行き、スマートフォンを渡す。

スマートフォンにはパソコンの画面を直接撮影した様子が映っている。

正確には、見せる、と言うより、聴かせる、といった方がいいかもしれない。


 要は、声だけ聴かせればいい。

そう結論に達した池田が、急遽、車の中でノートパソコンを再生。

医者が長く話している部分を、静のスマートフォンで撮影しておいたのだ。

余計な説明を省き、その正体を聞き出す。

少し音は悪くなるが、この特徴のある声なら、知っている人物であれば、すぐわかるだろう。


 静が伺った勝の顔は、想像を超えた変化を起こし、明らかに動揺の表情を浮かべ始めた。

「何?どうしたの?」

静が怪訝そうに尋ねた。

「こ、この動画、一体どうしたんだ?」

「この声の人、知ってるのね」

静は色めきたった。

「しっ…いや、知らん!

いや…こんな女は…」

勝は、取り乱し、滅多に出さない大きな声で否定し、スマートフォンをテーブルに投げるように置いた。


 「どうしたの?」

静の夕食を出す支度をしていた累が、そのただならぬ様子に気付いた。

黙っている二人と対照的に、テーブルに置かれたスマートフォンの音が際立って聞こえている。

「何これ?」

累がスマートフォンを取り上げた。

勝は一瞬、スマートフォンを取られまいとしたが、すぐに手を止め、背中を椅子に投げ出して、観念した様子を見せた。

「これは…零さん!?」

累は驚いて、スマートフォンと勝を交互に見た。

勝は黙ったままだ。

「お母さん…その人、知ってるの?」

最近は母親と余り口をきいていなかった静は、久しぶりに母親に顔を向けた。

「ええ…知って…え、ちょっと、待って、これって、一志じゃない!?」


「扱いやすいってなんだよ」


そう一瞬聞こえたその声で、累はすぐにそれが一志とわかった。

「そう、そこに映っているのは、お兄ちゃん。

お父さん、お母さん、知っているなら、教えて。

今すぐに」
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