10 / 484
第一部
パーフェクト・ワールド・ハルⅡ ①
しおりを挟む
[2]
朝に五錠、昼に三錠、夜に五錠。
榛名行人は、誰にも気がつかれないように薬を飲む。オメガのフェロモンを抑え、発情期を抑える抑制剤だ。
この学園に入学を果たした折、学園側と約束を交わした。陵学園はオメガの入学を拒まない。その代わり、最低限、守ってほしいことがある。アルファの多い学内で絶対に発情期を迎えないこと。これはあなたを守るためでもあるし、他の生徒を守るためでもある。
正しいと行人は思った。同じ屋根の下でアルファとオメガが共存していくための最低限。十代後半から始まるとされる発情期を、行人はまだ経験したことがない。抑制剤が良く効く性質なのかもしれないし、あるいは、「遅い」だけなのかもしれない。
どちらとも知れないから、行人は欠かさず抑制剤を飲み続けている。長年の服薬は頭痛や倦怠感と言った副作用をもたらしたが、止めるつもりはなかった。これさえ続ければ、自分も「普通」でいることができる。「ベータ」として生きることができる。繁殖種のオメガではなく。恥ずるべきものでなく。
第二の性は、行人にとって何を置いても隠し通さないといけない秘密だった。そしてそれがオメガであれば当然だと思っていた。
だから。――だから、あの編入生の発言は信じられなかった。
寮二階のトイレ内の洗面台で香水を一吹きする。頭の痛くなりそうな、甘い香り。行人は嫌悪を堪えて顔を上げた。鏡には、青白い不機嫌そうな顔がひとつ映っている。線の細い少女のようなそれが、行人には気に喰わない。筋骨隆々とまでは望まないが、もう少し男らしい顔にならないものか。
そんな悩みとは無縁だろう同室者は、あと二年もすれば嫌でもむさくるしくなるのではないか、と呑気に請け負ってくれたけれど。
ボトルをポケットに仕舞って、鏡の中の自分から顔を逸らす。あと十分もすれば寮生も集まり出すだろうが、六時にもなっていない今は行人一人だけだ。中等部のころから変わらない朝の儀式。
正式な入寮式を終えて二週間近く経つが、一人の時間は誰にも破られていない。けれど、それも今日までだったらしい。近づいてきた足音に、行人は意識してもう一度ゆっくりと息を吐いた。
「あれ。おはよう、榛名ちゃん。早いんだね」
「荻原」
ガラ、とドアを引いて入って来た荻原は、行人を見止めて眼を瞬かせた。けれどすぐに相好を崩す。副フロア長に選ばれるだけあって、無駄に美形の多い陵学園の中でも目立つ華のある存在。
高藤よりもさらに高い百八十近い長身なのに威圧感がないのは、人好きのする雰囲気故かも知れない。
「俺も早くに目が覚めちゃって。というか、美岡の寝言が凄まじいんだよね。あれ、マジで安眠妨害なんだけど。高藤はそんなことない?」
「ないな、さすがに」
「だよねぇ。イメージに合わないもんね。榛名ちゃんも言わなさそうだけど。……あれ?」
「なんだよ」
「榛名ちゃん、香水付けてる?」
隣に立った荻原の頭が近づいてきて、さりげなく避けるように行人は距離を取った。そして、これ、と小ぶりのボトルを掲げる。
「悪い。匂い、きつかったか?」
「ううん、全然。でも、そっかぁ。どうりで。たまに榛名ちゃんから良い匂いするなぁって思ってたんだよね。なんか花の蜜みたいな」
花の密。その表現に知らず、香水を持つ指先が冷たくなった気がした。荻原はそんな変化など露知らずで、楽しそうに口を動かし続けている。
「ハルちゃんからも良い香りしてさぁ。あ、ハルちゃんって、水城ね。水城春弥。ウチのクラスの大半がそう呼んでんの。可愛いでしょ?」
「可愛い……」
「あ、大丈夫、大丈夫。そんなに嫌そうな顔しなくても。高藤は呼んでない派閥だから」
「派閥ってなんだよ、というか、大丈夫もなにも、聞いてねぇし」
主席入学者である水城春弥は、アルファばかりで構成されていると専らの評判の特別進学クラスに配属されている。無論、高藤もこの男もそうで、行人は違う。
「またまたぁ。でも、一回見に来てみたら良いよ。本当、なかなかすごいから。聞いてない? 高藤から」
「アルファが虫みたいに休み時間のたびに群がってるって話なら聞いた」
初日の授業が終わった日。それが、珍しくどんよりとした空気を纏って帰寮した同室者の言である。
あの調子が寮でも続いてると思うと、俺、せめて寮は違って良かった、本当に、と。健気な良いこと探しを遠い目で始めていた姿から鑑みるに、凄まじかっただろうことは間違いない。
「虫って。さすが高藤としか言いようがないんだけど。でも、まぁ、お姫様ではあるよね、ウチのクラスの」
「お姫様もなにも男だろ」
アルファにとってみれば、女もオメガも同じなのかもしれないが。吐き捨てた行人に、きょとんと荻原が首を傾げた。
高藤を相手にする気分で言い過ぎたかと身構えかけた行人に、荻原は眉をひそめて囁く。
朝に五錠、昼に三錠、夜に五錠。
榛名行人は、誰にも気がつかれないように薬を飲む。オメガのフェロモンを抑え、発情期を抑える抑制剤だ。
この学園に入学を果たした折、学園側と約束を交わした。陵学園はオメガの入学を拒まない。その代わり、最低限、守ってほしいことがある。アルファの多い学内で絶対に発情期を迎えないこと。これはあなたを守るためでもあるし、他の生徒を守るためでもある。
正しいと行人は思った。同じ屋根の下でアルファとオメガが共存していくための最低限。十代後半から始まるとされる発情期を、行人はまだ経験したことがない。抑制剤が良く効く性質なのかもしれないし、あるいは、「遅い」だけなのかもしれない。
どちらとも知れないから、行人は欠かさず抑制剤を飲み続けている。長年の服薬は頭痛や倦怠感と言った副作用をもたらしたが、止めるつもりはなかった。これさえ続ければ、自分も「普通」でいることができる。「ベータ」として生きることができる。繁殖種のオメガではなく。恥ずるべきものでなく。
第二の性は、行人にとって何を置いても隠し通さないといけない秘密だった。そしてそれがオメガであれば当然だと思っていた。
だから。――だから、あの編入生の発言は信じられなかった。
寮二階のトイレ内の洗面台で香水を一吹きする。頭の痛くなりそうな、甘い香り。行人は嫌悪を堪えて顔を上げた。鏡には、青白い不機嫌そうな顔がひとつ映っている。線の細い少女のようなそれが、行人には気に喰わない。筋骨隆々とまでは望まないが、もう少し男らしい顔にならないものか。
そんな悩みとは無縁だろう同室者は、あと二年もすれば嫌でもむさくるしくなるのではないか、と呑気に請け負ってくれたけれど。
ボトルをポケットに仕舞って、鏡の中の自分から顔を逸らす。あと十分もすれば寮生も集まり出すだろうが、六時にもなっていない今は行人一人だけだ。中等部のころから変わらない朝の儀式。
正式な入寮式を終えて二週間近く経つが、一人の時間は誰にも破られていない。けれど、それも今日までだったらしい。近づいてきた足音に、行人は意識してもう一度ゆっくりと息を吐いた。
「あれ。おはよう、榛名ちゃん。早いんだね」
「荻原」
ガラ、とドアを引いて入って来た荻原は、行人を見止めて眼を瞬かせた。けれどすぐに相好を崩す。副フロア長に選ばれるだけあって、無駄に美形の多い陵学園の中でも目立つ華のある存在。
高藤よりもさらに高い百八十近い長身なのに威圧感がないのは、人好きのする雰囲気故かも知れない。
「俺も早くに目が覚めちゃって。というか、美岡の寝言が凄まじいんだよね。あれ、マジで安眠妨害なんだけど。高藤はそんなことない?」
「ないな、さすがに」
「だよねぇ。イメージに合わないもんね。榛名ちゃんも言わなさそうだけど。……あれ?」
「なんだよ」
「榛名ちゃん、香水付けてる?」
隣に立った荻原の頭が近づいてきて、さりげなく避けるように行人は距離を取った。そして、これ、と小ぶりのボトルを掲げる。
「悪い。匂い、きつかったか?」
「ううん、全然。でも、そっかぁ。どうりで。たまに榛名ちゃんから良い匂いするなぁって思ってたんだよね。なんか花の蜜みたいな」
花の密。その表現に知らず、香水を持つ指先が冷たくなった気がした。荻原はそんな変化など露知らずで、楽しそうに口を動かし続けている。
「ハルちゃんからも良い香りしてさぁ。あ、ハルちゃんって、水城ね。水城春弥。ウチのクラスの大半がそう呼んでんの。可愛いでしょ?」
「可愛い……」
「あ、大丈夫、大丈夫。そんなに嫌そうな顔しなくても。高藤は呼んでない派閥だから」
「派閥ってなんだよ、というか、大丈夫もなにも、聞いてねぇし」
主席入学者である水城春弥は、アルファばかりで構成されていると専らの評判の特別進学クラスに配属されている。無論、高藤もこの男もそうで、行人は違う。
「またまたぁ。でも、一回見に来てみたら良いよ。本当、なかなかすごいから。聞いてない? 高藤から」
「アルファが虫みたいに休み時間のたびに群がってるって話なら聞いた」
初日の授業が終わった日。それが、珍しくどんよりとした空気を纏って帰寮した同室者の言である。
あの調子が寮でも続いてると思うと、俺、せめて寮は違って良かった、本当に、と。健気な良いこと探しを遠い目で始めていた姿から鑑みるに、凄まじかっただろうことは間違いない。
「虫って。さすが高藤としか言いようがないんだけど。でも、まぁ、お姫様ではあるよね、ウチのクラスの」
「お姫様もなにも男だろ」
アルファにとってみれば、女もオメガも同じなのかもしれないが。吐き捨てた行人に、きょとんと荻原が首を傾げた。
高藤を相手にする気分で言い過ぎたかと身構えかけた行人に、荻原は眉をひそめて囁く。
22
あなたにおすすめの小説
運命よりも先に、愛してしまった
AzureHaru
BL
幼馴染で番同士の受けと攻め。2人は運命の番ではなかったが、相思相愛だった。そんな時、攻めに運命の番が現れる。それを知った受けは身籠もっていたが、運命の番同士の子供の方が優秀な者が生まれることも知っており、身を引く事を決め姿を消す。
しかし、攻めと運命の番の相手にはそれぞれに別の愛する人がいる事をしり、
2人は運命の番としてではなく、友人として付き合っていけたらと話し合ってわかれた。
その後、攻めは受けが勘違いしていなくなってしまったことを両親達から聞かされるのであった。
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
8/16番外編出しました!!!!!
読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭
1/27 1000❤️ありがとうございます😭
3/6 2000❤️ありがとうございます😭
4/29 3000❤️ありがとうございます😭
8/13 4000❤️ありがとうございます😭
12/10 5000❤️ありがとうございます😭
わたし5は好きな数字です💕
お気に入り登録が500を超えているだと???!嬉しすぎますありがとうございます😭
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。
【完結】初恋のアルファには番がいた—番までの距離—
水樹りと
BL
蛍は三度、運命を感じたことがある。
幼い日、高校、そして大学。
高校で再会した初恋の人は匂いのないアルファ――そのとき彼に番がいると知る。
運命に選ばれなかったオメガの俺は、それでも“自分で選ぶ恋”を始める。
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
運命の番は僕に振り向かない
ゆうに
BL
大好きだったアルファの恋人が旅先で運命の番と出会ってしまい、泣く泣く別れた経験があるオメガの千遥。
それ以来、ずっと自分の前にも運命の番があらわれることを切に願っていた。
オメガひとりの生活は苦しく、千遥は仕方なく身体を売って稼ぐことを決心する。
ネットで知り合った相手と待ち合わせ、雑踏の中を歩いている時、千遥は自分の運命の番を見つけた。
ところが視線が確かに合ったのに運命の番は千遥を避けるように去っていく。彼の隣には美しいオメガがいた。
ベータのような平凡な見た目のオメガが主人公です。
ふんわり現代、ふんわりオメガバース、設定がふんわりしてます。
六年目の恋、もう一度手をつなぐ
高穂もか
BL
幼なじみで恋人のつむぎと渉は互いにオメガ・アルファの親公認のカップルだ。
順調な交際も六年目――最近の渉はデートもしないし、手もつながなくなった。
「もう、おればっかりが好きなんやろか?」
馴ればっかりの関係に、寂しさを覚えるつむぎ。
そのうえ、渉は二人の通う高校にやってきた美貌の転校生・沙也にかまってばかりで。他のオメガには、優しく甘く接する恋人にもやもやしてしまう。
嫉妬をしても、「友達なんやから面倒なこというなって」と笑われ、遂にはお泊りまでしたと聞き……
「そっちがその気なら、もういい!」
堪忍袋の緒が切れたつむぎは、別れを切り出す。すると、渉は意外な反応を……?
倦怠期を乗り越えて、もう一度恋をする。幼なじみオメガバースBLです♡
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる