パーフェクトワールド

木原あざみ

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第二部

パーフェクト・ワールド・レインⅠ ②

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 湿気をはらむようになった風が、頬をなぶっていった。真夏の暑さには遠いが、みささぎ祭のころに比べると、季節は確実に変わりつつある。
 もう六時近いこともあって、校内にほとんど生徒の姿はなかった。静寂の中を歩いていた成瀬は、行く手に見えた人影に足を止めた。
 強い夕暮れの日差しを受けて、茶色い髪の毛がきらきらと輝いている。その眩い光の中心で、水城春弥はほほえんでいた。

「成瀬会長」

 人懐こい呼びかけとともに、渡り廊下の向こう側から彼が歩み寄ってくる。取り巻きは置いてきたようで、珍しくひとりきりだった。
 生徒会室で暇を潰していた友人の顔が思い浮かんで、苦笑を噛み殺す。この少年が校内に残っていたのなら、今日の楓寮は静かだっただろうに。

「こうしてお話しするのは、ひさしぶりですね」

 オメガの特性を存分に備えたかわいらしい風貌に、成瀬もにこりと笑いかけた。

「珍しいね、ひとりなんだ」
「ええ。ひとりで残ることを心配してくれる人はたくさんいるんですけど、この学園は安全ですから」
「そう」
「あなたのおかげですね」

 そんなことはないよ、と受け流そうとしたタイミングでひときわ強い風が吹き抜けていった。

「あ、……ごめんなさい」

 きつくなった甘い香りに息を詰めたことを悟ったのか、水城が申し訳なさそうに目を伏せる。

「会長はオメガがお嫌いなんですよね。でも、僕にもコントロールができなくて」
「そんなことはないよ」

 好きだとか、嫌いだとか、そういう問題ではないだろうと思ったが、言葉にはせずに、やんわりと否定する。その気があれば、コントロールできるだろうとも思うけれど。

「そうだったら、うれしいんですけど。会長のお母様は、オメガのことをよく思っていらっしゃらないみたいだから。……すみません。こんな悪口みたいなこと」
「べつにいいよ、事実だから。それに実際、俺もどうかとは思うし」
「そうなんですか?」
「血の繋がった親子でも人格は別物だと、俺は思いたいけど」

 母を相手にしているときと似た疲れを覚えて、早々に会話を切り上げにかかる。アルファとオメガの違いはあれど、自分優位に話をすすめようとするところがそっくりだ。

「じゃあ、気をつけてね。もう暗くなるから」
「待ってください。僕、まだあなたに伝えたいことがあって」

 芝居がかった声に引き留められて、成瀬はしかたなくほほえんだ。

「伝えたいこと?」
「一度くらいは。あなたに感謝をしているということを」

 感謝と言うわりには敵愾心に満ちた目をしている。そんなふうに思いながらも続きを促せば、彼は器用に棘を隠した瞳を笑ませた。

「この学園の平和は、あなたが一番上に立っているからこそのものでしょう。だから僕は、オメガだと公表することができたんです」
「それは入学式の式辞のことかな」
「ええ、そうです」

 我が意を得たりとばかりに水城が頷いた。覚えている。あの瞬間、講堂を包む空気は一変してしまった。

「あなたを見たときに確信したんです。この学園で三年間生きていくためには、オメガ性を公表したほうが安全だと」
「隠して生きていくよりも?」

 やはり相当な自信家だと半ば呆れた。それとも、この少年は、アルファを完全に操れると信じているのだろうか。首を傾げた成瀬に、「そうでしょう」となにも疑っていない声が応じる。

「ここにいるのは、お上品な生徒ばかりですから。あなたの言う、第二の性は秘匿だという理想論が守られている。その前提に立って僕は考えました。この学園に通う立派なアルファが、オメガと公言した僕を卑劣な手段で襲うでしょうか」

 にこりと水城が目を細める。

「僕は、そうは思いません」

 一部界隈で天使のほほえみと称されている笑顔を見つめたまま、成瀬はゆっくり言葉を選んだ。

 ――なんでも叶えてやりたくなる、だったかな。

 アルファの同級生が鼻の下を伸ばして言っていたことだ。「ハルちゃんの天使のほほえみ」を前にすると、どんな願いでも叶えてやりたくなるのだと、そう。

「オメガもアルファも、ベータも。誰もが安全な生活を送ることができる大前提は大切なものだし、守るべきものだと思うよ」
「そうですよね」
「でも、だからこそ、公言しなくてもよかったんじゃないかな。きみが言うとおり、この学園が平和なら、誰も襲ったりしないと思うしね。オメガだろうが、そうじゃなかろうが」

 生徒会長の顔で理想論を諭してから、「それと」と付け加える。

「これは差別というより区別の話だけど。きみがオメガだと公表したことで、きみに気を使わざるを得なくなった生徒もいるんじゃないかな」
「やっぱり、オメガがお嫌いなんですね」

 あからさまにしゅんとしたそぶりで返された極論を、成瀬は苦笑いで否定した。

「そんなことはないよ」

 訪れた沈黙に、目の前の少年から周囲に意識を散らす。纏わりつく甘い匂いのせいだけでなく、嫌気が差してきてしまったのだ。
 背後から注がれる視線に気がついたのは、そのときだった。
 水城の取り巻きが待機しているのだろうかと疑ったが、敵意は感じられなかった。どちらかといえば、おもしろがっているといったほうが近いかもしれない。

「あの、会長」
「なに?」

 ということは、あいつあたりかな。当たりをつけた顔をひとまず脇に置いて、笑顔を取り繕う。

「お時間とってすみませんが、最後にひとつだけいいですか。これもぜひ、あなたに聞いてみたかったんです」
「もちろん」
「ありがとうございます」

 にこりと口元をうれしそうに笑ませてから、彼はこう続けた。

「もしもの話なんですけど。もし、あなたが僕と同じ性だったら、どうされたのか聞いてみたくて。僕のやり方はよくないんですよね」
「きみが選んだ方法を一蹴する気はないけど」

 隠しきれていない棘をひしひしと感じたまま、「そうだな」と成瀬は悩むようなためをつくった。思い当たる節はいくらでもあるが、随分と嫌われたものだ。それもおそらく、お互い様なのだろうが。
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