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第二部
パーフェクト・ワールド・レインⅢ ②
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「あ」
五階の談話室の前を通り過ぎたところで、ついそんな声がもれた。その声に、自分の寮室に入ろうとしていた向原が振り返る。食堂で話しているあいだに入れ違っていたらしい。
相部屋でなくなってからも寮室は隣り合っているのだ。抜け出している時間が多くなっていることは、茅野に言われなくても知っていた。
「なんか、ひさしぶり」
「ひさしぶりってほどでもないだろ」
笑いかけると、向原のまとう空気がわずかにゆるんだ。以前と変わらない態度に少なからずほっとして、そのまま歩み寄る。
「だって、俺の部屋にも最近来ないから。このあいだ生徒会室に顔出したときも、俺のいないタイミングだったし」
「それで?」
遮るような言い方なのに、不思議と突き放したようには聞こえなかった。
「なんの用だよ。それに、俺が来ないのが気になるなら、おまえが来たらよかっただろ」
「それはそうだけど」
誤魔化すように苦笑してから、成瀬はしっかりと顔を向け直した。
なにを考えているのかよくわからない、だとか。怖い、だとか。そう評されることの多い男だが、そうでないことはよくよく知っている。おそらく自分が一番、身をもって。
「なにもしなくていいって言ってなかったなと思って」
主語もなにもなくても伝わっている確信はあった。じっと見つめてくる瞳に向かって、もう一度ほほえむ。
「大丈夫だから」
「借りは返すって言っただろ」
「俺は貸した覚えはないって言ったつもりだったんだけどな」
笑みを深くすると、呆れたように向原が言った。
「まぁ、おまえはそうだろうな」
うん、と成瀬は頷いた。そのとおりだった。アルファに庇われたいと思ったことは一度もない。守られたいと思ったことも。
この男が、それを無意味なプライドだと思っていることも知っているけれど。
「いいんだな、本当に」
「うん。でも、向原は中途半端なことしてるって思ってるよな」
アルファもオメガも関係のない世界をつくりたいと言ったのは自分だ。夢物語のようだった主張を受け入れ、付き合ってくれたのはこの男だった。だからここまで来ることができた。
それなのに、現状を乱しかねない異分子の台頭を許している。篠原にも不審な顔をされたのだ。向原がなにも感じていないはずがない。
そのことを自分は糾弾されたかったのだろうか。自嘲じみたことを言っているとわかっていてなお、言葉は止まらなかった。
「俺もそう思ってる」
「思った上で、やってるんだろ」
非難するでもない静かな声だった。知らず下がり始めていた目線がぱっと上がる。
「だったら好きにしろよ」
目が合ったのは、声と同じ非難するでもない静かな瞳だった。わかりやすく優しいというわけではないのに、不思議なほど心が落ち着いたような気がした。
こういうところ、なんだよな。誰にともなく思う。向原のこういったところが一緒にいて楽だったし、それで――。
「オメガを排除したいわけでもなくて、俺は」
続きが喉の奥で引っかかって、成瀬は我に返った。
「俺は、なに?」
問い直されて、「ごめん」ととってつけたような謝罪を口にする。またやってしまった、と自分に呆れながら。
「余計なこと言った」
そうだ。冷たくなんてない。
向原は優しい。誰がなんと言おうと自分よりよほど優しいし、誰にどう指摘されなくとも、その優しさが自分に対してだけ特別に注がれていることも知っていた。
知っていて、利用していて、そうして勝手に罪悪感で苛まれている。
「べつに余計なことじゃないだろ」
「え?」
「なにかあったら言えばいい。おまえが呼んだら俺は優先する」
いつだってそうしていただろう、という調子に、成瀬はぎこちなくほほえんだ。もし、と思ってしまったのはそのときだった。
もし、この言葉を聞いたのが自分ではないオメガだったら。たとえば水城であれば、素直に喜んで受け入れたのだろうな、と。そんなことを思ってしまった。
自分には到底できないことで、向原も知っていることだ。知っているよな、なんて確認しなくてもわかるくらいには、自分たちのあいだには時間が降り積もっていた。
打算しかなかったはずの始まりから、こんなところにまで来てしまっている。あのころの自分は、この今を望んでいたのだろうか。なんだか、よくわからなかった。
「ありがと。でも、俺に言わなくていいよ。もったいないから」
いつもの調子で受け流したのは、そうすれば、いつもが返ってくると思っていたからだ。そのはずだったのに。
「選ぶに決まってるだろ、言う相手くらい」
いつもと違うものを選んだ向原に、笑顔が固まりそうになった。
「なぁ」
戸惑いも緊張も歯牙にかけないまま、向原は淡々と言葉を投げかけてくる。
「じゃあ、なんで、おまえに言うと思う?」
ともすればきつい印象を与える双眸に射抜かれて、いつもどおりを取り繕うべく腐心する。いつもどおり。いつもの、アルファの顔。
その顔で笑えばいい。それだけのことだ。慣れた手順のはずなのに、うまくできている自信はまったく湧かなかった。
向原はいつも人の目を真っ正面から見つめてくる。同じように見つめ返すことが苦しくなったのは、いつからだっただろう。
秘密を知られたときから、じゃない。利用してやろうと決めたときから、でもない。きっと、打算だけの関係だと割り切れなくなってしまったときからだ。
隣にいることが楽だなんて知りたくなかったのに、知ってしまった。認められるはずがないのに。
「友達、だからな」
我ながら、白々しい声だった。胃が痛くなりそうな数秒の沈黙を経て、「へぇ」と向原が笑った。呆れきった声で。
「そう」
返事を待とうともせず消えた背中を見送って、そっと息を吐く。それしかできなかった。
今までどおりでいてくれ、なんて言えるわけがない。膨れ上がる罪悪感から目を逸らして、成瀬は鍵を差し込んだ。
五階の談話室の前を通り過ぎたところで、ついそんな声がもれた。その声に、自分の寮室に入ろうとしていた向原が振り返る。食堂で話しているあいだに入れ違っていたらしい。
相部屋でなくなってからも寮室は隣り合っているのだ。抜け出している時間が多くなっていることは、茅野に言われなくても知っていた。
「なんか、ひさしぶり」
「ひさしぶりってほどでもないだろ」
笑いかけると、向原のまとう空気がわずかにゆるんだ。以前と変わらない態度に少なからずほっとして、そのまま歩み寄る。
「だって、俺の部屋にも最近来ないから。このあいだ生徒会室に顔出したときも、俺のいないタイミングだったし」
「それで?」
遮るような言い方なのに、不思議と突き放したようには聞こえなかった。
「なんの用だよ。それに、俺が来ないのが気になるなら、おまえが来たらよかっただろ」
「それはそうだけど」
誤魔化すように苦笑してから、成瀬はしっかりと顔を向け直した。
なにを考えているのかよくわからない、だとか。怖い、だとか。そう評されることの多い男だが、そうでないことはよくよく知っている。おそらく自分が一番、身をもって。
「なにもしなくていいって言ってなかったなと思って」
主語もなにもなくても伝わっている確信はあった。じっと見つめてくる瞳に向かって、もう一度ほほえむ。
「大丈夫だから」
「借りは返すって言っただろ」
「俺は貸した覚えはないって言ったつもりだったんだけどな」
笑みを深くすると、呆れたように向原が言った。
「まぁ、おまえはそうだろうな」
うん、と成瀬は頷いた。そのとおりだった。アルファに庇われたいと思ったことは一度もない。守られたいと思ったことも。
この男が、それを無意味なプライドだと思っていることも知っているけれど。
「いいんだな、本当に」
「うん。でも、向原は中途半端なことしてるって思ってるよな」
アルファもオメガも関係のない世界をつくりたいと言ったのは自分だ。夢物語のようだった主張を受け入れ、付き合ってくれたのはこの男だった。だからここまで来ることができた。
それなのに、現状を乱しかねない異分子の台頭を許している。篠原にも不審な顔をされたのだ。向原がなにも感じていないはずがない。
そのことを自分は糾弾されたかったのだろうか。自嘲じみたことを言っているとわかっていてなお、言葉は止まらなかった。
「俺もそう思ってる」
「思った上で、やってるんだろ」
非難するでもない静かな声だった。知らず下がり始めていた目線がぱっと上がる。
「だったら好きにしろよ」
目が合ったのは、声と同じ非難するでもない静かな瞳だった。わかりやすく優しいというわけではないのに、不思議なほど心が落ち着いたような気がした。
こういうところ、なんだよな。誰にともなく思う。向原のこういったところが一緒にいて楽だったし、それで――。
「オメガを排除したいわけでもなくて、俺は」
続きが喉の奥で引っかかって、成瀬は我に返った。
「俺は、なに?」
問い直されて、「ごめん」ととってつけたような謝罪を口にする。またやってしまった、と自分に呆れながら。
「余計なこと言った」
そうだ。冷たくなんてない。
向原は優しい。誰がなんと言おうと自分よりよほど優しいし、誰にどう指摘されなくとも、その優しさが自分に対してだけ特別に注がれていることも知っていた。
知っていて、利用していて、そうして勝手に罪悪感で苛まれている。
「べつに余計なことじゃないだろ」
「え?」
「なにかあったら言えばいい。おまえが呼んだら俺は優先する」
いつだってそうしていただろう、という調子に、成瀬はぎこちなくほほえんだ。もし、と思ってしまったのはそのときだった。
もし、この言葉を聞いたのが自分ではないオメガだったら。たとえば水城であれば、素直に喜んで受け入れたのだろうな、と。そんなことを思ってしまった。
自分には到底できないことで、向原も知っていることだ。知っているよな、なんて確認しなくてもわかるくらいには、自分たちのあいだには時間が降り積もっていた。
打算しかなかったはずの始まりから、こんなところにまで来てしまっている。あのころの自分は、この今を望んでいたのだろうか。なんだか、よくわからなかった。
「ありがと。でも、俺に言わなくていいよ。もったいないから」
いつもの調子で受け流したのは、そうすれば、いつもが返ってくると思っていたからだ。そのはずだったのに。
「選ぶに決まってるだろ、言う相手くらい」
いつもと違うものを選んだ向原に、笑顔が固まりそうになった。
「なぁ」
戸惑いも緊張も歯牙にかけないまま、向原は淡々と言葉を投げかけてくる。
「じゃあ、なんで、おまえに言うと思う?」
ともすればきつい印象を与える双眸に射抜かれて、いつもどおりを取り繕うべく腐心する。いつもどおり。いつもの、アルファの顔。
その顔で笑えばいい。それだけのことだ。慣れた手順のはずなのに、うまくできている自信はまったく湧かなかった。
向原はいつも人の目を真っ正面から見つめてくる。同じように見つめ返すことが苦しくなったのは、いつからだっただろう。
秘密を知られたときから、じゃない。利用してやろうと決めたときから、でもない。きっと、打算だけの関係だと割り切れなくなってしまったときからだ。
隣にいることが楽だなんて知りたくなかったのに、知ってしまった。認められるはずがないのに。
「友達、だからな」
我ながら、白々しい声だった。胃が痛くなりそうな数秒の沈黙を経て、「へぇ」と向原が笑った。呆れきった声で。
「そう」
返事を待とうともせず消えた背中を見送って、そっと息を吐く。それしかできなかった。
今までどおりでいてくれ、なんて言えるわけがない。膨れ上がる罪悪感から目を逸らして、成瀬は鍵を差し込んだ。
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