パーフェクトワールド

木原あざみ

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第二部

パーフェクト・ワールド・レインⅤ ⑤

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 甘い匂いを感じ始めたのは、旧校舎が視界に入る距離になってからだった。
 敷地の外れに一棟取り残された旧校舎は、風紀委員のたまり場だ。風紀委員の中でも素行不良の生徒がたむろしているために、ほとんどの在校生が近寄ろうともしないところ。
 その建物にためらいなく近づいて、ドアに手をかける。施錠されていなかった扉は、簡単に開けることができた。

「皓太は外で待ってたほうがいい」

 きつくなった甘い香りにそう告げると、「大丈夫」と皓太が首を横に振る。

「でも」
「祥くんだって同じだよね。大丈夫、俺も我慢できる」

 同じなんかじゃない、と口走りそうになるのを堪えて、小さく成瀬は息を吐いた。それに――。
 この先で決定的ななにかを見てしまったら、もう見て見ぬふりはできなくなる。わかっていたが、逡巡の末に了承する。
 最後まで着いていくと言ったときの真剣な横顔を思い出したからだ。

「後悔するなよ」

 建物の内部には、アルファでない自分もくらりときてしまいそうな強烈なフェロモンが漂っていた。
 その香りの発生源を追って二階へと向かった足が、突き当たりの部屋の前で止まる。扉の向こう側からは、興奮を抑えきれていないような上ずった声が響いていた。

 ――なにしてるんだ、あいつら……!

 背後から伸びてきた腕が引き戸に触ろうとする。はっとなって、成瀬はその手首を掴んだ。

「俺が入る」
「でも……っ」
「皓太は廊下で待ってて。頼むから」

 言い含めるように告げて、代わりにドアを引く。鍵に阻まれて、ガタンと鈍い音が鳴った。

「祥くん」
「いいから。おまえは絶対に入るなよ。俺は薬を飲んでるから問題ない」

 オメガのフェロモンに振り回されないために、アルファが自衛目的で飲む抑制剤。それを服用しているのだと言えば、それ以上は粘られなかった。

 後ろに下がったのを合図に開かないドアを蹴りつけると、みしりと壁が揺れた。

「ちょ、祥くん……」
「こっちのほうが早い」

 穏便なやり方ではないかもしれないが、名乗ったところで簡単に開けてくれない。そう踏んで続行する。古いドアは、二度目の蹴りで内側にゆっくりと倒れていった。

「そのドアの修繕費は、生徒会で持ってくれるんだろうな」

 悠然と教卓に腰かけたまま、呆れた声で本尾が続ける。

「ノックでもしてくれりゃ、開けてやったのに」

 嘲りを無視して教室に踏み込むと、六人ほどの生徒がなにかを取り囲んでいた。その「なにか」を視認した瞬間、睨みつける視線がきつくなる。

「本尾、おまえ」
「そんなに怖い顔すんなよ、会長。せっかくの美人が台無しだ」

 むせ返るような甘い香りの中に、馬鹿にしたような笑い声が溶けていく。これほどのフェロモンのそばにあっても、いつもと変わらない態度だった。

「それに、こっちは風紀の仕事をしただけなんだけどな」
「これのどこが風紀の仕事だ」
「これを校内にほうっておいたら、どうなってたかわからないのか?」

 それとも、と本尾が肩をすくめた。

「会長様は、ヒートのオメガをアルファだらけの場所に放置しておいてほしかったわけか。ひどい先輩もいたもんだな」
「おまえらもアルファだろうが!」

 詭弁を操る男を筆頭に、風紀委員はアルファばかりだ。こんなところに一分一秒だって行人を置いておきたくないし、ここの空気のおかしさに気がつかなかったとは言わせない。
 本尾はいつもどおりといった顔をしているが、それだっていつまで続いたのかわからない。誰も来なければ、なにがあってもおかしくなかったはずだ。

「それはおまえもだろ。それとも違うのか?」

 糾弾を鼻先で笑い飛ばされた上に揶揄されて、必死に感情を抑えつける。ここで感情的になっても、ろくなことにならない。自分が一番優先しなければならないのは、ただひとつだ。そう言い聞かせる。

「……もっと違う方法があるだろうって言ってるんだ」
「違う方法ねぇ。おまえがどう思おうが勝手だけどな、ここに隔離してやったのは、俺たちなりの親切心ってやつだぞ。ほかにも生徒がわんさかいる保健室に連れて行ってみろ。もっと騒ぎになってたはずだ」
「なら、これはなんだ」

 抑えきれなかった苛立ちを抱えたまま、アルファがひとりのオメガを取り囲んでいる現状を指摘する。それでも本尾は平然とした態度を崩さなかった。

「なんだって、まぁ、応急処置みたいなもんだろ」
「応急処置?」
「ヒートのオメガを慰めてやれるのも、救ってやれるのもアルファだけだからな」
「ふざけるなよ」
「なにもふざけてねぇよ。まぁ、俺たちは理性あるアルファだからな。オメガが助けてくれって言うまで手を出す気はない。だから、出してねぇだろ?」

 まぁ、時間の問題だっただろうけどな。
 さも当然と告げられた台詞が、我慢の限界だった。無言でやり返して風紀委員たちのほうへと近づく。頭がぐらぐらと揺れている気がしてしかたがなかった。
 これもオメガのフェロモンのせいなのだろうか。これだけ間近でフェロモンを浴びたのははじめてのことで判別がつかない。

「行人」

 手前にいたひとりを押しのけて呼びかけると、蹲っていた頭が持ち上がった。

「成、瀬さ……」

 弱弱しい声に、熱を帯びた瞳。自分の中で暴れ狂う本能と必死に戦っているのだと一見してわかった。そして、よかったと少しだけ安堵する。間に合った。
 なにも問題がなかったとは言えないが、最悪の事態を避けることはできたのだ。
 乱れた着衣を直してやりたかったが、他意はなくても触られるだけで辛いかもしれない。そう思い直して、ブレザーを脱いで頭から被せる。視線からだけでも隠してやりたかった。
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