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第二部
パーフェクト・ワールド・レインⅤ ⑦
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「成瀬」
観察するようだった表情を一変させて、本尾が薄い笑みを浮かべた。
「明日、顔貸せよ。それでぜんぶチャラにしてやる」
――おまえがなに考えてるのかは、知らねぇけどな。
呆れたように言うくせに、瞳の奥の色はどこまでも優しい。あのころの向原はそうだった。今と違って、もっとストレートに甘いことを言うこともあったし、特別なのだとにじませてくることもあった。
けれど、あの夜は、そうではなかった。三年前のことだ。
――もし、おまえが本気でそのままで、……アルファのままで卒業したいなら、妙な情けは二度とかけるな。
当時所属していた中等部の寮で成瀬が「それ」を見かけたのは、偶然だった。たまたま夜に廊下を歩いていて、たまたま新入生が空き部屋に連れ込まれる場面に出くわした。
連れ込んだ複数の同級生はアルファで、一年生はオメガだった。とはいえ、アルファの同級生は「かわいいベータ」だとしか思っていなかったはずだ。その子はうまく隠していた。同じだったから、成瀬はわかったというだけで。
扉が閉まる直前、通りがかった成瀬を捉えた瞳に浮かんでいたのは不安と恐怖だった。だから、助けてやろうと思ったのだ。かわいがっている幼馴染みの同室者だという縁もあったし、なにより、あの程度のアルファに自分が負けるわけがなかったから。
だから、あれは無謀な真似ではなかった。絶対になかった。それなのに、向原はいい顔をしなかった。
――自分の身体のことを、もっとしっかり自覚しろ。本当におまえが思うほどコントロールできてるものなのか、それは。
言い聞かせる調子で続いた言葉に、「大丈夫だ」と言い切れるだけの根拠はなかった。大丈夫だろうと思ってはいたけれど。
抑制剤を服用して、第二の性をコントロールする。本当に幼かった時分から、そうして生きてきた自負が成瀬にはあった。
息子が劣等種だと知った両親は、判定が覆らないと悟ると、著名なバース性の専門医を頼るようになった。アルファとして生きていく基盤を整えるために必要だったからだ。
だから、成瀬は「アルファ」だった。オメガ性は薬で完全にコントロールされていた。この男に出会うまで、誰にも気づかれたことはなかった。
とはいえ、それは、あくまでも「いつも」の生活を送っているときの話だ。
ヒート状態のオメガと接触したとき。オメガのフェロモンにあてられた興奮状態のアルファと遭遇したとき。そういった本能が刺激される状況に置かれたときに、変調をきたす可能性はゼロではない。
向原がそれを憂慮していることは、知っていた。あながち的外れでないこともわかっていた。認めたくは、なかったけれど。
――ほかのやつにバレてみろ。どうなるか、わかってんだろうな。
なぁ、祥平、と。今はしない呼び方で、向原は念を押した。
眇められた瞳ににじんだ苛立ちの色を覚えている。今の向原は、感情の揺らぎを見せることはほとんどない。けれど、このころはそうではなかった。
自分たちの距離は、もっともっと近かった。ふいに恐ろしい箍が外れてしまいそうになるくらいに。
ふたりきりの寮室で、成瀬は黙り込んだ。アルファと一緒の部屋なんて冗談じゃないと思っていたのが嘘のように、ほっと息を吐けるようになったはずの場所。それなのに、今この瞬間の沈黙は、どうにも落ち着かなかった。
適当に頷いて終わらせたらそれで済む。そうも思うのに、どうしてもできなかった。
保護した彼を幼馴染みのもとに送り届けて、それで解決したはずだった。どういうつもりだと問い詰められなくとも、なにもなかったし、それに――。
自分を心配するということは、この男の目に自分が「弱いオメガ」として映っているということだ。
そんなこと、許せるはずがない。
舌打ちとともに、まだ線の細かった指が肩にかかった。不意打ちに負けた身体が、ベッドに倒れ込む。その上に乗り上げるようにして押さえ込んだまま、向原が言った。
――アルファだぞ、俺も。
だから、なんだ。尖った瞳を見上げて、成瀬は笑った。だから、なんだ。だから気をつけろとでも言いたいのか。それとも、ほかのアルファにバレたら、こうなるとでも言いたいのか。
――おまえが、俺になにかするわけないだろ。
その言葉の残酷さを知らなかったわけではない。
知っていて、選んだ。そう言えば、向原が一線を越えないと知っていたから。
大嫌いだ、アルファなんて。大嫌いだ、決して越えられないこの男が。大嫌いだ。大嫌いだ。何度も言い聞かせた。言い聞かせ続けてきた。そうでなければ、自分が自分でなくなってしまう。それは、絶対にあってはならないことだった。
俺はアルファ以外になれない。弱い人間にはなれないし、誰かを頼ることもできない。したくもない。そんな自分を、俺は許せない。
一生ひとりで生きていく。誰もいらない。安穏とした日々も、心安らぐ場所も、なにもかもいらない。
だから、頼むから、これ以上、俺を揺さぶらないでくれ。
気がつけば、成瀬は祈るようにそう願っていた。
観察するようだった表情を一変させて、本尾が薄い笑みを浮かべた。
「明日、顔貸せよ。それでぜんぶチャラにしてやる」
――おまえがなに考えてるのかは、知らねぇけどな。
呆れたように言うくせに、瞳の奥の色はどこまでも優しい。あのころの向原はそうだった。今と違って、もっとストレートに甘いことを言うこともあったし、特別なのだとにじませてくることもあった。
けれど、あの夜は、そうではなかった。三年前のことだ。
――もし、おまえが本気でそのままで、……アルファのままで卒業したいなら、妙な情けは二度とかけるな。
当時所属していた中等部の寮で成瀬が「それ」を見かけたのは、偶然だった。たまたま夜に廊下を歩いていて、たまたま新入生が空き部屋に連れ込まれる場面に出くわした。
連れ込んだ複数の同級生はアルファで、一年生はオメガだった。とはいえ、アルファの同級生は「かわいいベータ」だとしか思っていなかったはずだ。その子はうまく隠していた。同じだったから、成瀬はわかったというだけで。
扉が閉まる直前、通りがかった成瀬を捉えた瞳に浮かんでいたのは不安と恐怖だった。だから、助けてやろうと思ったのだ。かわいがっている幼馴染みの同室者だという縁もあったし、なにより、あの程度のアルファに自分が負けるわけがなかったから。
だから、あれは無謀な真似ではなかった。絶対になかった。それなのに、向原はいい顔をしなかった。
――自分の身体のことを、もっとしっかり自覚しろ。本当におまえが思うほどコントロールできてるものなのか、それは。
言い聞かせる調子で続いた言葉に、「大丈夫だ」と言い切れるだけの根拠はなかった。大丈夫だろうと思ってはいたけれど。
抑制剤を服用して、第二の性をコントロールする。本当に幼かった時分から、そうして生きてきた自負が成瀬にはあった。
息子が劣等種だと知った両親は、判定が覆らないと悟ると、著名なバース性の専門医を頼るようになった。アルファとして生きていく基盤を整えるために必要だったからだ。
だから、成瀬は「アルファ」だった。オメガ性は薬で完全にコントロールされていた。この男に出会うまで、誰にも気づかれたことはなかった。
とはいえ、それは、あくまでも「いつも」の生活を送っているときの話だ。
ヒート状態のオメガと接触したとき。オメガのフェロモンにあてられた興奮状態のアルファと遭遇したとき。そういった本能が刺激される状況に置かれたときに、変調をきたす可能性はゼロではない。
向原がそれを憂慮していることは、知っていた。あながち的外れでないこともわかっていた。認めたくは、なかったけれど。
――ほかのやつにバレてみろ。どうなるか、わかってんだろうな。
なぁ、祥平、と。今はしない呼び方で、向原は念を押した。
眇められた瞳ににじんだ苛立ちの色を覚えている。今の向原は、感情の揺らぎを見せることはほとんどない。けれど、このころはそうではなかった。
自分たちの距離は、もっともっと近かった。ふいに恐ろしい箍が外れてしまいそうになるくらいに。
ふたりきりの寮室で、成瀬は黙り込んだ。アルファと一緒の部屋なんて冗談じゃないと思っていたのが嘘のように、ほっと息を吐けるようになったはずの場所。それなのに、今この瞬間の沈黙は、どうにも落ち着かなかった。
適当に頷いて終わらせたらそれで済む。そうも思うのに、どうしてもできなかった。
保護した彼を幼馴染みのもとに送り届けて、それで解決したはずだった。どういうつもりだと問い詰められなくとも、なにもなかったし、それに――。
自分を心配するということは、この男の目に自分が「弱いオメガ」として映っているということだ。
そんなこと、許せるはずがない。
舌打ちとともに、まだ線の細かった指が肩にかかった。不意打ちに負けた身体が、ベッドに倒れ込む。その上に乗り上げるようにして押さえ込んだまま、向原が言った。
――アルファだぞ、俺も。
だから、なんだ。尖った瞳を見上げて、成瀬は笑った。だから、なんだ。だから気をつけろとでも言いたいのか。それとも、ほかのアルファにバレたら、こうなるとでも言いたいのか。
――おまえが、俺になにかするわけないだろ。
その言葉の残酷さを知らなかったわけではない。
知っていて、選んだ。そう言えば、向原が一線を越えないと知っていたから。
大嫌いだ、アルファなんて。大嫌いだ、決して越えられないこの男が。大嫌いだ。大嫌いだ。何度も言い聞かせた。言い聞かせ続けてきた。そうでなければ、自分が自分でなくなってしまう。それは、絶対にあってはならないことだった。
俺はアルファ以外になれない。弱い人間にはなれないし、誰かを頼ることもできない。したくもない。そんな自分を、俺は許せない。
一生ひとりで生きていく。誰もいらない。安穏とした日々も、心安らぐ場所も、なにもかもいらない。
だから、頼むから、これ以上、俺を揺さぶらないでくれ。
気がつけば、成瀬は祈るようにそう願っていた。
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