夢の続きの話をしよう

木原あざみ

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第六話

38.

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 先輩。
 ねぇ、先輩。
 ――先輩。

 ほんの少しだけ甘えるような、どこか照れくさそうな変声期前の声も。
 自信に満ちた明るい、そしてこちらを信じきっているような声も。
 憂いを含むようになった、けれど、どこまでもまっすぐ自分を射抜く、声も。

 昔から、もうずっと、ずっとだ。
 いつか掴まってしまいそうで。俺でさえ認知できていない本音を引きずりされそうで。
 そんなことに耐えられるわけがなかったから、だから、逃げた。

 折原に、何も言わせる隙を与えずに。
 かといって、俺から終わりを突きつけることもせずに。

 本当に言葉通り、逃げたのだ。
 サッカーからも、折原からも。
 これで全部終わりだと、言い聞かせて。
 これで正しいのだと、そう繰り返して。

「俺、そんなに難しいこと言ってますか? 先輩を困らすこと、言ってます? 訊きたいことも話したいことも、もっともっとありますよ、でも」

 一度そこで言葉を区切って、折原が目を伏せた。
 堪えているみたいだと思った。堪えさせているとしたら、きっとそれは俺がずっと押し付けている物なのだろう。でも。

「結局、俺が一番知りたいことは一つだけなんです」
「……折原」
「先輩は、俺のことどう思ってるんですか? 好きか嫌いかそれだけじゃないですか。ねぇ、それさえも俺に教えてくれないの」

 宥めるために呼んだはずの声の続きが喉の奥で消えた。
 折原の目に宿っているのは、不安なような苛立ったような、そんな色だった。
 どんな負け試合でも、劣勢な場面でも見たことがないような、色。

 それがふっと諦めたように揺れる。

「今度は言ってくれるかなって、ちょっと期待してました、俺」
「……悪い」
「俺、べつに謝ってほしいわけじゃないんですけど。それとも先輩、俺に謝らないといけないようなことしてるんですか」

 日常のトーンに無理矢理戻した調子で折原が苦笑を零した。
 しているだろう、と思っているし、そうだった。
 なにも進展させられていないことが、終らせると言ったくせに、それさえもできていない。
 そしてそれは全部、俺のせいだった。

「先輩、俺ね。先輩は俺のこと嫌いだって言わなかったじゃないですか。だから許されてるんだろうなって思ってました。それがいつまでなのかは、知らなかったけど」
「そう、だったか?」
「うん。言わなかったですよ、先輩。好きだとかそう言ったことも何も言ってくれなかったですけど。でも先輩はそういう意味で俺に遠慮して我慢なんてしないだろうから、拒絶されないうちは先輩から許されてるって」
「……馬鹿じゃねぇの、おまえ」
「ここにきてそう返す先輩もたいがいだと思いますけどね、俺」

 ためらうような沈黙の後、

「でもだって、そうじゃないですか。先輩、俺のこと好きだったでしょ?」
と、折原がはっきりと口にした。

「おまえが、……」

 ――なぁ、折原。
 きもちわるい?

 息がかかるほど近くで見た瞳に映っていたのは、困惑だった。
 それが徐々に熱を持ち始めていくのを、見ていた。

 だから、それは俺が焚き付けたものなのに。そうでしかなかったはずなのに。

「おまえがそう思うんなら、そうだったのかもな」

 吐き出した声は、自分でも意外なほど平淡だった。

「ずるいですよ、それ」

 堪えきれなかったように折原が失笑したのが分かった。

「ずるい」
「……」
「それで、俺がそれ以上何も言えないって、どうせあんたは思ってるんでしょ」

 じゃあ俺が好きだって、好きだったって仮に言ったとして何が変わるんだよ。
 それだけで全部がどうにかなるのかよ、おまえはどうするつもりなんだ。
 完璧ただの八つ当たりでしかないものが溢れそうになるのを呑み込んだ。
 消化して、消してしまいたかった。跡形もなく消えていってほしかった。

「でもどうせそうですよ、悔しいんですけど。俺、先輩にひどいこと言いたくもないし、したくもないんです」

 何を言えばいいのか、分からなかった。
 だって間違いなく、何を言ったとしても、きっとどうにもならなくなってしまう。

「良かったですね、俺が従順で」
「――折原」
「なんでそこで先輩が怒るの。図星だからですか」
「そういう問題じゃねぇだろ、おまえは……」
「俺は、なんですか」

 おまえは、折原なら。
 俺が飲んだ言葉の先もすべて分かっているみたいに、折原が笑う。

「先輩の思う、俺は、そんなこと言いませんか。あんたが諦めたサッカー選手であるところの俺は」

 卑屈なことも何も言わないで、馬鹿みたいに前向きなことばかり口にして、夢に向かって突き進んでいたら満足ですか、と。

 冷めた目で言い切った折原に、気が付いた時には手を出しかけていた。
 はたと冷静に戻ったのは、顔に手が当たる寸前で、だった。折原は微動だにさえしなかった。
 そして俺を見て、また笑った。

「ほら、あんた、そうやって、選手としての俺のことしか見てないでしょう」

 ひやりとした折原の手が、ふりかざしたままだったそれをそっと降ろさせた。

「どうせなら、殴るくらいしてみてくださいよ」
「普通、しねぇだろ。今までだって、一回もしたことねぇだろ」
「大事な後輩ですもんね」
「……ならおまえは、付き合ってるやつの顔、殴れるのか」
「しませんよ。って言うか、できません。大事ですもん」
「なら、」
「でも、先輩と俺の言う大事のベクトルは違うんじゃないんですかって話なんですって」

 手に触れたままだった指先がするりと離れていく。視線が合うのが嫌で、その指先の動きをただ追っていた。

「俺は好きですけど。ずっと好きでしたし、申し訳ないですけど、これからも好きだとは思いますけど」

 ため息のような、科白だった。
 諦めているみたいな、分かっているみたいな、そんな声。
 だから似合わないと思ってしまって、あぁまさにそうだと諦念染みた感慨がわき出てきた。
 でも、しょうがないじゃないか。

 俺にとって、折原は、……折原は。

「それで、後輩想いの先輩は、どこまでそれに付き合ってくれるつもりなんですか」

 それは、間違いなく最後通告だった。そして俺が求めていた終焉だったはず、だった。

 あの日。三年前のあの日、あの場所で本当だったら言うべきはずだった言葉だ。
 それを言えば、終わる。

「折原」
「なんですか、先輩」

 あのときとは違う、穏やかな声だった。焦燥を秘めていたまだ幼さの残っていた瞳は、深みを帯びたものに変わっていた。

「俺は……、おまえが」

 なぁ、折原。俺にはおまえの未来が見えるんだ。

 あの時口にした自分の台詞を、俺は一字一句たがわず覚えている。
 必死だった。ただ必死だった。
 冷静になって考えると、何を言っていたのだろうと思う。でも、あれがすべてだった。

 感情を迸らせないために。
 折原の未来を奪わないために。

 なぁ、だって、おまえは、今、幸せじゃないのか。
 サッカー選手として、充足した日々を送っているんじゃないのか。

「おまえのことは、大事な後輩だって、ずっと思ってた」
「後輩、ですか」
「だって、そうだろ。それ以外になにがあった? 俺とおまえの間に」

 ひどいことを言っていると自覚していて、口にするのをやめなかった。
 これで最後だ。ずっとずっと、言えなかった終わりは、思っていたよりもするりと言葉になって落ちていった。
 声は震えなかった。

 けれど、と思う。
 ――本当に、終わるのだろうか。
 消えてなくなるのだろうか、この感情、すべてが。
 なにもかもが。

「やっぱずるいですって、あんた」

 たまらなく重かった沈黙の後、静かに折原が目を伏せた。

「好きか嫌いか、それだけでいいって言ってるじゃないですか。ねぇ、なんで言ってくれないの」

 俺は――あのときと、全く変わっていない。
 結局なにも変わっていないのだと、思い知らされてしまった。
 でも、変わることができないのは俺だけで、立ち尽くしてしまっているのは俺だけで。
 変わるのはいつも折原だ。

 あのころと変わらないと思うのは、俺の勝手な思い込みでしかなくて、折原はもう子どもじゃない。
 俺よりもよっぽど、地に足の着いた、プロとして生きている一人の男だ。

「もう、なんでもいいですけど」

 それは俺が言わせているのだと分かっていた。けれど心臓が掴まれたようにすくむ。
 これで、終わる。
 ――終わっていく。

「俺ね、あんたが好きだったんです。すげぇ好きだったんです。あんたは刷り込みだって、思い込みだってそう言うけど、そんなんで、何年もずっとこんな感情抱えてこれるわけないじゃないですか」
「折原」
「だから、――こうやってあんたと居られて、すげぇ嬉しかったですよ。いつか俺を見てくれたらって、それまで我慢できるって思ってました」

 きゅっと吐き出すように眉間にしわを寄せた折原の顔は、今までに見たことがないものだった。

「でも、もう、無理だ」

 押しつぶしたような声だと思った。
 感情を、欲望を、すべてを覆い隠して、諦めて、捨ててしまうような声。

「言わさないで下さいよ、俺に。大事にさせてくださいよ。俺のこと大事な後輩だっていうんなら、俺に付け込まさせないでください」
「……」
「あんたの言う、正しい道に俺を捨ててくださいよ」

 先輩だっていうなら、それくらいしてくれてもいいじゃないですか、と折原が小さく笑った。

 先輩とその声に呼ばれるのが、俺はたまらなく好きだった。
 俺しか見ていないというように、まっすぐに俺だけを呼ぶ声が、俺は確かに好きだった。

「折原」

 久しぶりにしっかりと折原の目を見据えることが出来たような気がする。
 ここまできて、やっと。
 馬鹿だな、と思った。

 結局、未練を捨てきれていなかったのは折原なんかじゃない。俺だ。

「俺はずっとおまえが羨ましかった」
「……そうなんでしょうね、俺には分かりませんけど」
「でも、同時に確信してた。おまえはどこまでもいける。なににでもなれる。おまえの未来は幸せに満ちている」

 あの日も、俺は同じようなことを口にした。
 そしてあの日から3年の月日が経った今も、俺は一遍の疑いもなく信じている。
 折原藍と言うサッカー選手の才能を。
 そしてなによりもずっと見てきた折原自身を。

「でも、あんたはいないんですよね、その未来に」

 それもまたあの日と同じ科白だと思った。
 絞り出すみたいに、折原が繰り返した。

「俺がいてほしいって言っても、先輩がいてくれないと意味がないって言っても」

 だからそんなわけはないのだ。
 そんなわけはない。俺がいなくても、大丈夫だっただろう。なにも、――。
 俺にはあったとしても、おまえに問題があるはずがないだろう。

「先輩はいてくれないんですよね、そこに」
「俺がいなくても大丈夫だったろ、今までも。だからこれからも大丈夫だ」

 そのはずだった。俺がいようがいまいが、折原に何の影響もあるわけがない。
 あるとしたら、こんな風に、――焦燥をきたすような、マイナスの影響だけだ。
 だから離れてしまえば、何もなくなるはずなのだ。
 消えて、なくなる。
 なくなってしまえ。ぜんぶ、ぜんぶ、すべて。

 何かを堪えるように、シートの上で握り込められていた手が伸びてきた。狭い空間ではあった。でも、退けようと思えば、退けられたのだと思う。
 なのに、――。

「折原、」

 気が付いたときにはその腕にきつく抱き込められてしまっていた。
 肩口に埋められた頭から香るのは、昔とは違う整髪剤の匂いだった。

「先輩なんか、……あんたなんて」

 折原の声が直接骨にひびくように染みてきた。
 もうきっと「先輩」とその声に呼ばれることはないのかもしれない、と思った。
 科白の続きをためらように、ぎゅっと腕に一度力がこもった。
 逃げようとは、思えなかった。

「……きらいだって、言えたら良かった」

 くぐもって響く声は、どこか頼りなく揺れていた。
 俺だって同じだと、思った。
 言わなければならないと分かっていて、なのに、結局、できなかった。
 でもそれも、終る。

「もう全部、最後だって、言えたら良かった、のに」

 気持ちを整えるように息をついて、吐き出されたそれは、どこまでも平淡なものだった。
 感情のない、低い声。
 すっと折原の手が離れていく。嫌えよ、そして忘れろ。忘れろ、頼むから。
 忘れてくれ、忘れて、捨てて、何もなかったことにしてほしい。

 俺も、そうするから。
 ぜんぶ、ぜんぶ、そうやって、この3年も俺は息をしてきたから。






「新天地のドイツに連れて行きたい女性はいらっしゃらないんですか?」
「たとえば、アナウンサーの三好さんとか……。以前、週刊誌に撮られていらっしゃいましたよね」

 旧年の未練をそぎ落とすように降り続いていた雪がようやく落ち着いた、三が日明けの朝のワイドショーだった。
 時計代わりについていたテレビから聞こえてきた声に、つい意識が向く。
 折原がドイツ一部リーグへの移籍が決まったことと富原から聞いて知っていた。

 折原とは、あの日以来、一切連絡を取っていない。もう取ることもないだろうとも思う。少なくとも、俺が本当に「ただの後輩」だと思えないうちは。

 聞くにしてもサッカーのことだけにしておけよ、と意味のない苛立ちを覚えたまま、折原が映る前に消してしまおうと、電源に伸ばしかけていた指先が止まった。
 そつない笑顔を浮かべているはずの折原の顔が、なぜか不機嫌そうに見えてしまったからだ。

 折原のことをよく知らない相手なら、気づかないのかもしれない。
 でも、俺や、チームメイトであれば分かるようなそんな変化。

 珍しいなとは思ったけれど、まぁでも虫の居所が悪いこともあるよなと。それなりに上手くかわして終わらせるのだろうと、思い込んでいた。
 次の瞬間までは。

「今はサッカーに集中したいんで、そんな人はいないですけど。ところで、なんで女の人って限定するんですか?」
「え?」
「いつも疑問だったんですよね、なんでなのかなって。三好さんはただの知人ですし、それ以上になりえようがないんです、俺にとって」
「あの……、折原さん?」
「俺、女性を好きになれないんです」

 返答を詰まらせたマイクに向かって、ブラウン管の中で折原が笑う。
 それは俺の全く知らない折原の顔だった。

「ゲイなんですよね、俺」

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