好きになれない

木原あざみ

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 最近は、少し長袖では蒸し暑いと感じる日が増えてきた。大学の食堂で流れていたテレビのニュースで梅雨入りを報じていたけれど、幸い今日は晴れている。
 土曜日だからなのか、火曜日の朝よりは商店街も人の通りがあった。と言っても、盛況とは程遠い様子ではあるけれど。

「こんにちは」

 いつもと違う時間帯に少し緊張しながら、つぼみの戸を引く。スタッフ会議の開始時間の十五分前。玄関にはまだ一足しか靴はない。おまけに女性のものだ。
 早く着きすぎただろうか。悩んだが、引き返すわけにもいかず、諦めて框で靴を脱ぐ。
 いつものくせでスタッフルームのドアを開けたところで、日和は瞳を瞬かせた。

「あら、こんにちは。早いのね」

 中にいた女性が、にこりと微笑む。三十代以上だとは思われるが年齢不詳の、どことなく少女めいた雰囲気の美人。

 ――そりゃ、そうだ。玄関の靴も女性ものだったのに、開けた瞬間、真木さんがいるような気がしてたな。

「日和くんでよかったかしら。会うのははじめてよね。代表の朝森優海です」
「あ、……どうも。日和智咲です」

 よろしくねと笑みを深くした彼女に、日和も慌てて頭を下げた。
 真木をはじめて見たときにも思ったが、それとはまたべつの意味で、あまり民間のフリースクールの代表らしくない人だ。どこぞのお嬢様だと言われた方ほうがしっくりとくる。

「基生だったら、ちょっとお使い中なの。ごめんなさいね、私しかいなくて」
「いえ、あの、……大丈夫です」

 なにが大丈夫なのか自分でもさっぱりだったが、その反応が精一杯だ。優海が変わらない笑顔のまま頷く。真面なことをなんとか思いついたのは、しばらく経ってからだった。

「あの、なにかお手伝いしましょうか」
「ありがとう。噂通り熱心なのね。でも、大丈夫よ。資料はできているから」
「じゃあ、机の上でも綺麗にしてきます。広い和室を使うんですよね」

 スタッフルームに二人きりという状況が落ち着かず、言うなり日和は踵を返した。真木の上司だ。読まれている気がしないでもないが、「ありがとう」とあっさりとした応えがあっただけだった。
 少なからずほっとして、昼食時のように勉強会で使っている机を移動させてくっつける。スタッフ全員が来るとも思えないが、狭いよりはいいだろう。
 ついでに濡らした布巾で机を拭いていると、玄関が開く音がした。

「優海さん。ピーチティーもうなかったからアップルティーでいい? というか、それしか買ってきてないけど。……あ、日和くん、もう来てたんだ。あいかわらず早いね」
「はぁ、つい、いつものくせで」

 そして、つい、真木しかいないような気がしてしまって、予想外の衝撃を受けたのだけれど。日和のほうにそのまま近付いてきた真木が、手にしていたビニル袋の中を見えるように広げた。

「どれがいい? 一番に選んでいいよ。優海さんの金だけど」
「あ……ありがとう、ございます」

 スタッフルームへも届くように声を張ると、「いいのよー」とにこやかな声が返ってくる。お使いとはこれのことだったらしい。
 ペットボトルに紙パック飲料、缶珈琲とバラエティ豊かな品種だ。

「ジュースあるよ。りんごとか。あと……なんだ。オレンジ?」
「俺、カフェイン飲めますからね?」
「誰も子どもみたいでかわいいなんて思ってないって」
「思ってるじゃないですか!」

 カフェオレに手を伸ばしかけて、無糖の珈琲に変更する。子どものようなそれに、また笑われる要素が増えた気がしないでもない。いや、でも、飲めなくはないのだ、本当に。強いて言うなら、甘党だというだけであって。

「こんにちはー、あれ。もしかして、ぴよちゃん?」
「あ、はい。えぇと」

 元気よく現れた新たな人物に愛称で呼ばれて、珈琲を握りしめたまま固まる。生足が眩しいショートパンツスタイルの女性だった。明るいオレンジ色の髪をひとまとめにくくって、手で扇いでいる。

「あ。水曜日に入ってる愛実めぐみです。お噂は凛音ちゃんたちから、かねがね」

 暑いのか額にはうっすらと汗が滲んでいた。健康的な笑顔は文句なしに友好的だったのだが、日和は気後れして、視線をふいと隣に動かした。
 まるで助けを求めたみたいになっていたと気が付いたのは、真木が苦笑気味に口を挟んでからだった。

「時岡さん。時岡愛実さんっていうの。日和くんの一つ下かな。今、大学二年だっけ」
「そうでーす。というか、真木さん、なんで苗字も言うんですかぁ。イケメンに名前で呼んでもらおうと思ったのに」
「その魂胆が見え見えで、日和くんが困ってたからだろうが」
「ちっ。雪ちゃんが言ってたのは本当だな。真木さんがぴよちゃんにはやたら甘いっていう」
「語弊のある言い方をするな、語弊のある」
「語弊って、真木さんがあたしにそんなに優しくしてくれたこと、ありましたっけ?」
「最初の頃は優しかったと思うぞ」
「最初って。そうだったかなぁ。――あ、あたし。大学に入ってすぐの頃からお世話になってるんで、スタッフ歴二年目なんです。というわけで、塩見さんのことも知ってるんですよ」

 テンポよく進む会話に入りこめない日和を気遣ったのか、愛実がそう教えてくれた。曖昧に頷いた日和に、もう一度笑いかけてから、ビニル袋に興味を移す。

「あ、真木さん。それ、あたしも選んでいいんですか? 優海さん?」
「そうそう、優海さん。好きなの選びな。早いもの順」
「やった。うーん、どうしようかな。……あ、ぴよちゃんは珈琲なんだ? 話に聞いてたより大人じゃないですか」
「って、どんな話をいったい……」
「ふふふ。内緒です。じゃあ、あたしはオレンジにしよっかな」
「日和くん、甘いのが良かったら変えてもいいよ」
「大丈夫ですから!」

 半ば意地のように宣言してプルトップを開ける。そのあいだに何人か到着したようで、窓の外から人の気配がした。時刻はちょうど十三時になるところだ。
 一口飲んだブラックは、やっぱり少し喉に苦かった。


 今回のメインテーマは夏のキャンプであるけれど、スタッフ会議自体は年に三度ほど開催されているのだそうだ。
 どのくらいの人数が集まるのだろうかと思っていたが、蓋を開けてみれば、正規職員を含めて総勢十名という、二つ並べた机でも狭いと感じてしまう大所帯である。
 真木以外に知っている顔のない会議に最初は緊張していた日和だったけれど、日常の生徒たちの様子や今後の方針などの議題を聞いているうちに、少し和らいできた。
 さすがに、生徒たちと過ごしている平日の空気と、初対面の大人ばかりに囲まれた今の空気は違う。初参加の日和を弾く雰囲気はないが、そうかと言って、すぐに和気あいあいとできるような性分でもない。

 ――そう思うと、俺、真木さんには、最初からあまり緊張しなかったんだよな、不思議と。

 真木と優海が並べば、誰でも優海のほうが話しやすいと判断すると思うのに、日和にとっては、そうではない。
 なんでだろう、と余計なことを考えそうになった自分を戒めて、議題に耳を傾ける。話の中心は、中学三年生の進路についてになっていた。
 机を囲んでいるボランティアスタッフの八割が女性で、そのほとんどが大学生や院生らしい。主婦や社会人もいるそうだが、みんな生徒のことをよく見ている。
 次々と報告、共有される話に頷きながら聞き役に徹していると、不意に自分の名前が飛び出した。

「日和くんは、一番スタッフとしての歴は短いわけなのだけれど、その分、新しい目線があるのではないかなと思って。ここに来てみて、なにか思ったこととか、気が付いたこと。こうしたほうが良いなって思ったこととかあった?」

 にこりと優海に微笑まれて、日和はボールペンを握りしめたまま、固まった。集まった視線が痛い。

「え、えぇと」

 急かすでもなく、そうかと言って、見切りを付けることもなく、優海は笑顔のまま日和の答えを待っている。

「えぇと、あの、そう、ですね」

 教室の真ん中で立ち尽くしている気分になって、思考はますます煮詰まった。……やばい、あれ、なんだっけ。質問。

「日和くん」

 その声に、飽和状態だった脳みそがすっと開けていく。ぱっと視線を向けると、いつもの顔で真木が続きを促した。

「キャンプも参加するんだし、香穂子ちゃんのことは話しておいてもいいかもね」
「あ、……はい」

 そうですね、と一拍置いて、日和は口を開いた。
 しどろもどろな説明に相槌のような真木の補足が付いて、現場を見ていない人間になんとか伝わる有様だったが、とりあえず役目は終えた。カラカラに乾いた喉を、少し温くなった珈琲で湿らせる。苦い。眉間に皺が寄ったのを見られたのか、はす向かいで資料に視線を落としていたはずの真木が、小さく笑った気がした。

 ――絶対、あの人、俺のこと、ここの生徒と変わらないレベルで手のかかる人間だと思ってるよな。

 愛実の言っていた「甘い」対応というのは、他のスタッフと接しているこの人を知らないから、なんとも言えない。けれど、もし、生徒たちの眼にそう映っていたとするのなら、それは自分がそれだけ頼りないということで。
 ん? と、日和は鎌首をもたげ始めた疑問に首をひねった。
 今まで、誰かに頼りにされたことなど、ほとんどない。むしろ皆無だ。それなのに、自分はつぼみで「頼りにされたい」などと積極的なことを願っていたのだろうか。

 ――らしくない。

 まったくらしくない。覚えた疑念を押し流すように、もう一口、珈琲を流し込む。
 あのくらいの年の子が恋愛感情を持つことは自然なことだけれど、助長させることはしないように。距離が近くなりすぎるようなことがあれば、あくまで自然な形で間に入ってあげるようにしましょう。優海の言葉を聞きながら、「恋愛」について日和は少しだけ意識を飛ばした。
 彼女なんて、この数年つくろうという気も起っていなかった。そもそも、過去に付き合った彼女たちもみんな一様に日和に告白してきてくれたから、なんとなくで応じていただけだ。そして、時間が経てば、日和がなにを言わなくとも彼女たち自ら離れて行った。
 私のことなんて好きじゃないんでしょ、という捨て台詞付きで。
 そう思うと、自然と誰かを自分から好きになるという感覚は、もうずっと経験していないのかもしれなかった。
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