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「第十二話 東京黙示録 ~疵面の凶獣~」
30章
しおりを挟むなぜ、自分は生まれてきたのか?
恐らくは、人生で一度は誰もが考える疑問。自分が何者であるかを知るために、きっと答えなど出ないとわかりつつも、ひとはこの難問に頭悩ませてきた。
オレは運が良かった。すぐに答えがみつかったのだから。
里美がそばにいてくれたから。
彼女を一生守り続けると決めた。そのために生きていくと誓った。恋人だとか、結婚だとか、そんな形式にこだわったことはない。ただ、近くにいられれば、良かった。里美を支えていけるのならば、それだけでオレが生まれた意味はあると、ずっと信じて生きてきた。
里美さえ守れれば、良かった。
強くなったのは、里美を守るためだった。里美を守ることさえできれば、それ以上の強さなんて必要なかった。
同じ父親の血を引き継いだ姉弟と知った日から、全てが変わった。
すぐ見つかったはずのオレの生きていく意味は、幻のように消え去った。
里美のそばでずっと支えていくはずだったオレは、実は五十嵐家の嫡子たる彼女にとって、もっとも邪魔な存在だったのだ。
なんという、滑稽な話。
五十嵐の家にとって汚点であるオレという存在は、里美のそばどころか、もっとも遠ざかるべき人間だった。執事の安藤さんが冷たい視線を向けるのも当然のことだ。あのひとの反応は、実に正しいものだった。
全てを理解しながら、オレは里美から離れられなかった。
距離を置くことはあっても、間を空ければ空けるほど、心が里美に絡まっていく。解けない、感情の鎖。
愛していたから。里美のことを。
どうしようもないほどの、恋慕。オレの心の一部は、すでに里美のものだった。胸の奥に棲みついた彼女は、表面上をなにで覆っても隠れることはなかった。
新しい恋をしようとするたびに、胸の内でひょいと里美が顔を出す。
カワイイと思える少女はいくらもいた。魅力を感じる女性にも何人も出会ってきた。その度に、心に棲みついた里美が笑う。「早く、私を諦めてね」と。
できるわけねーよ。そんなもん。
オレの心を奪っておきながら、そりゃねえぜ。わかってんだろ? オレがお前以外を、好きになれないってことは――
男は何人もの相手を、同時に愛することができると聞いたことがある。そんなものかもしれん。頭ではそうした言葉も理解はできる。
だけど、たったひとり、人生でたったひとりだけ、どうしようもなく愛してしまう女性が、この世には存在するような気もしている。
それがお前なんだろ、里美。
だから、何があろうと、きっとお前のことを諦めることなんてできない。他の誰かと将来結婚するようなことがあっても、心の鎖は一生お前から解けることはないだろう。
そう、思っていた。
だから、絶望していた。オレが生まれてきた意味は、もう二度と見つからないと。
存在理由を奪われたまま、ただ流されて生きていく。心臓は動いていても、里美を守ることが許されなくなったときから、工藤吼介という男は死んだのも同然だったのだろう。
「七菜江」
歩みを止めた吼介は、背中におんぶした少女に唐突に声を掛けた。
「・・・はい?」
「寒くないか?」
「大丈夫です。先輩の背中、あったかいから・・・」
「前にもこうして、傷ついたお前を背負って歩いたこと、あったな」
「憶えてます。あたしがまだ、ファントムガールになったばかりの頃で・・・あの時から、先輩の背中はちっとも変わってないです」
「・・・いや、変わったんだ」
「え?」
お前のおかげで、オレは変われたんだ。
「七菜江、オレはお前を守るために生きていく」
里美。
ようやく、お前のことを諦められる日が来たよ。
お前よりちょっとおマヌケで、不器用だけど、ビックリするほど純粋で、真っ直ぐなコなんだ。
里美。
オレは七菜江のために、生きていく。
「・・・立てるか?」
頷く背中の少女を、そっと逆三角形の男は下ろす。
拝借した白のTシャツと黒のホットパンツ。大きめのレザージャケットに身を包んだ藤木七菜江は、無言で吼介の顔を見上げていた。
弓張りの月が照らす淡い光に、少女が流す涙の跡が、キラキラと頬を輝かせた。
「これから起こることを、お前は黙って見ているんだ。いいな?」
ショートカットにポンと乗せた格闘家の掌が、グシャグシャと七菜江の頭を撫でる。
ボロボロと真珠のような雫を瞳から溢れさせ、少女はただ愛する男の顔を見詰め続けた。
「・・・来たか」
風が鳴る。
雨上がりの九月の夜は、グンと秋らしい肌寒さに支配されていた。
刻々と迫る、人類敗北のカウントダウン。無人と化した東京の街。
千代田区北の丸公園の敷地内。靖国神社から眼と鼻の先にあるその場所に、巨大なたまねぎにも喩えられる、特徴的な擬宝珠を屋根に乗せた荘厳な建物があった。
日本武道館。
武道の聖地とされるだけでなくライブコンサートや格闘技の会場としても著名な威風漂う建築物を背後にして、今、セーラー服に身を包んだひとりの少女が立っている。
美麗の化身とでも言うべき、美しさであった。
冷たい風に茶色混じりのストレートが踊る。陶磁器の如き青白き面貌は、天空に輝く月にも勝る清廉に満ちていた。
ゴクリと咽喉を鳴らしたのは、藤木七菜江であった。
五十嵐里美は、これほどまでに美しい少女であったのか。圧倒される。いや、ただ外面だけではない。ある種の決意を思わせる情念が、スレンダーな令嬢の肢体から青き炎のように迸っている。
ズイ、と一歩を吼介が前に踏み出す。
見詰め合う。幽玄の美少女と獣臭漂う格闘者とが。まるで己が部外者であるかのような疎外感を七菜江は自覚した。
「久しぶりだな、里美。昨日会ったばかりだってのに」
「・・・そうね。いろいろなことが、起こりすぎたわ。あまりにも、多くのことが」
10mの距離を置いて、里美と吼介、そして男の背後に控えた七菜江とが対峙する。
対峙と呼ぶのに相応しい、距離であった。これまで常に隣にいた里美と向き合っていることの違和感が、七菜江の心を締め付ける。
「よく、抜け出せたな。こんな事態だってのに」
「あなた・・・いいえ、あなたたちに会うことは意味があると思ったからよ。でも、時間がないのは確かだわ」
「そうだな。じゃあ、単刀直入に言わせてもらうぜ」
風が唸る。人影の絶えた首都を、走り抜ける風が。
沈黙の後に、工藤吼介は静かに声を放った。
「里美・・・お前が持つ最後の『エデン』を、オレに譲ってくれ」
初めて聞く吼介の言葉に、背後の七菜江が息を呑む。
「できないわ。それは」
「もうお前たちが傷つくのは見たくない。オレがやる。たとえこの身が朽ち果てようと、あの悪魔どもはオレが殲滅する」
「わかっているはずよ。あなたが『エデン』を得たところで、光の戦士になるとは限らない」
「そうだな。どうなるか、わからねえ。オレ自身、闇側のミュータントにならない確証はねえ。だから賭けだ。それでもこのまま破滅を迎えるよりは、ずっとマシなはずだ」
「破滅するとは決まっていないわ。まだ私は闘える。ユリちゃんも、それに御庭番衆にだって逆襲の秘策が・・・」
「無理だ。どんな策を練っていようが、あいつらには勝てねえ」
まるで作戦の一部始終を予測しているかのように、吼介は言い切った。
「お前も本当は気付いているはずだ、里美。やつら・・・手を組んだ3匹の悪魔には、小細工なんか通用しないってことは。お前やユリ、それに七菜江を加えたところで、あいつらの相手にならねえ」
「・・・随分と、ハッキリ言うのね」
「ああ。お前は自分だけ死のうとしているからな」
一切表情の変わらなかった里美の柳眉が、ピクリと反応する。
「だが、ダメなんだ」
フルフルと男が、弱々しくかぶりを振る。太い眉毛が苦悩に歪む。
「わかってんだよ。お前がひとりで死んで、責任取ろうとしてんのは。でも、ダメだ。お前ひとりの命で事が済むほど、奴らは甘くねえ。七菜江もユリも、全員が殺されるだろう。奴ら3匹を滅ぼさねえ限り、お前たちに未来はないんだ」
「・・・やってみなければ、わからないわ」
「奴らはオレが消す」
ゾクリとするような落ち着いた声で、吼介は言い放った。
真っ直ぐに射抜いてくる格闘獣の眼光を、凛とした少女は正面から受け止めた。
「賭けなのはわかってる。だが『エデン』は寄生時の精神状態が、変身後の姿に大きく影響すると聞いた。オレが奴らを潰したい気持ちが確かな以上、きっと大丈夫なはずだ」
「・・・吼介」
「お前を死なせたくない」
何かに心臓を貫かれたように、くノ一少女の美貌が瞬間歪む。
「オレが代わりに全ての決着をつける。お前はもう、闘わなくてもいいんだ。七菜江にも、もう闘わせるようなことはしない」
言葉を返そうとして、里美の鈴のような声は詰まった。
もしそれが許されるならば、どんなに嬉しいことか。
愛する男が自分のために闘ってくれる。盾になってくれる。妹のように可愛がってきた、朋友のことさえ守ってくれる。
有難かった。泣き崩れたいほどに。それが現実となるならば、全ての気を緩めて甘えてしまいたかった。
でも。
「それは・・・できないの」
胸に渦巻く熱い感情とは裏腹に、冷めた口調で少女は呟いた。
「使命だから。私の。吼介、あなたに『エデン』を与えてはならないのは、御庭番衆次期頭領として、私に課せられた使命。なにがあっても、たとえ世界が滅びようともあなたに『エデン』は与えられない」
「どうしても、か?」
「どうしても。あなたが『エデン』と融合したら、私は吼介を殺さなくてはならない」
ブルッと震えが爪先から脳天まで、令嬢戦士の脊髄を駆け上がる。
気を抜けば、涙が溢れそうだった。気力のみで、里美は込み上げる感情を力づくで抑え込む。
「そうか。やっぱりな」
ガクリと吼介が首を垂れる。脱力に合わせたように、逆三角形の肉体を包んでいた濃密な“気”が、しぼむように縮んでいく。
束の間、だった。
「わかっていたさ。こうなることは」
世界が青から紅に、一気に塗り潰されるように。
男の気配が変わる。急激に。噴火とも言うべき、劇的な変化。
メキョ・・・メキメキ・・・ミシィッ・・・ビキビキビキッッ!!!
虫の音のごとき、奇怪な響き。筋肉が、鳴いている。膨張し、研ぎ澄まされていく筋肉が。
そのサインの意味するところを、里美も知っている。格闘獣の本気のサイン。真の武力を発動する時のみの、最強の男の警戒警報。
「どうしても拒否すると言うのなら・・・オレはお前から、力づくで『エデン』を奪わなければならない」
五十嵐里美という少女を、誰よりも知るのは吼介であった。
使命のためなら命も捨てる。愛した男を、手に掛けることすら。
今、傷つけあうことがどんなに無益で、馬鹿げたこととわかっていても、里美は闘う。課せられた、使命のために。
そんな少女とわかっていて、この場に赴くことを決意したのだ。
「ならば、私はあなたを倒すわ」
美しき生徒会長は、純然たる戦士の顔つきで宣言した。
空気も凍てつくようであった。月が死を司る星というのなら、きっと月の女神は彼女のことだ。
「お前に拳を向けた瞬間、オレは御庭番衆の敵ということになるな」
下向いたまま、鋼のごとき筋肉の鎧を纏った獣が、静かに呟く。
「御庭番のことは、関係ない。これはあくまであなたと私の闘いよ」
「里美、悪いが、全力を出す」
「望むところよ」
「お前を倒し、『エデン』をもらう。そして、悪魔どもを蹴散らしたあと、オレは二度とお前の前には現れることはないだろう」
ゆっくりと最終形態に変形した工藤吼介が、俯いていた顔をあげる。
泣いていた。
男臭い顔面をくしゃくしゃに歪ませ、最強と謳われる男は泣き崩れていた。
「サヨナラだな、里美」
「・・・ええ」
「オレ、七菜江と生きていくよ。全てが終わったら、七菜江とふたり、ひっそりと生きていく」
「・・・・・・ええ」
「ごめんな。お前のそばに、ずっと一緒にいるはずだったのに。でも、できねえから。オレたち、許されねえから。七菜江が、お前のこと諦めさせてくれた。オレはこいつのために、これから生きていくよ」
秀麗な美貌が天を仰ぐ。
頬をつたう一筋の涙に、里美は気付くこともなかった。
「もう、わかったから・・・・・・我が・・・・・・弟よ」
キッと美少女の切れ長の瞳が、鋭い光を放つ。
呼応するかのように、筋肉の集合体と化した格闘の化身が、戦意を一気に解放する。
轟音と震動がふたつ。
大地を蹴ったくノ一戦士と格闘獣が、一直線に同時に飛び込んでいた。
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