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本編

しおまのわかれ

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 清羅は眠気と戦っていた。
 生徒総会が始まって三〇分しか、と思うかも知れない。けれど清羅にとっては、永劫にも等しい時間である。
 議論が活発になるにつれて、清羅の眠気も強くなる。ざばざば追いかけてくる睡魔《スイマー》から逃れることは難しい。
 ショートカットの長身の女性が立ち上がるのが、落っこちそうになる瞼の間に見えて、眠気は一瞬で覚めた。

 ――ぼたんせんせー……。

 約束通り文化祭に来てくれたのだ。牡丹は清羅からしても惚れ惚れする能弁で、清羅にも彼女が校則改正の後押しをしてくれているのがわかった。
 清羅自身はコート内を飛び交うボールを追うだけの観客みたいにしているだけだったが、議案はしかるべく可決され、校長が拙速に苦言を呈すのみで、無事に生徒総会は幕を閉じた。
 引いていく潮のように拍手の余韻を残す体育館。
 生徒達は体育館を出て行く。めいめい昼食を取るためだ。

「セーラ!」

 もたもたと何か手伝うことがないか見回している清羅の後ろから、志摩が抱きついてきた。

「お疲れぇ~、生徒会長殿ぉ! お腹空いたし、お昼食べ行こうよ。シシケバブの屋台来てたよ!」
「志摩ちゃん! 首、首!」

 清羅は志摩の腕をタップして苦しさを訴える。志摩は清羅より上背があり、ついでに胸もある。
 豊かな胸の友人を押しのけ、それから、生徒達に続いて体育館を出て行こうとする牡丹に向かって声を張り上げた。

「ぼたんせんせー!」

 何事かと牡丹が振り向く。清羅は志摩の腕を振り解いて、牡丹のもとに駆け寄った。
 隆嗣を欲しいと言った牡丹。清羅は隆嗣にふさわしくないと言った牡丹。
 けれど、今は。
 牡丹は清羅に、ぎこちなく笑みを作った。
 清羅は、勢いよく牡丹に抱きついた。
 寂しげな笑みが、驚愕に打ち消される。

「えっ、ちょ、ちょっと、黒木さん……!?」
「ぼたんせんせー、かっこよかったよ!」

 ぎゅぅっと抱きしめたあと、すぐに、ばっと牡丹の両手を握って、ぶんぶん千切れそうな勢いで振りまくる。ぽかんとしてがくがく清羅に揺らされる牡丹だが、清羅が尻尾を振る犬のように、目をきらきらさせて「すごいすごい」と連呼するのがツボにはまったらしい。
 揺さぶられながらくすくすと笑い出した。
 つられて清羅も「えへへ」と笑って、ぶんぶん振っていた手を横に広げる。

「黒木さん、子供みたい」

 そういう牡丹の顔に、清羅に対する侮りはない。だから、清羅はもう一回「えへへ」と笑う。

「私、かっこよかった?」
「うん! ぼたんせんせーの発言、説得力すごかった!」

 後から歩いてきた志摩が、ワンレングスの髪を揺らして、牡丹に会釈する。

「由井先生もお昼一緒にどうですか? もうちょっといるんですよね」
「そうね」

 巡らせた牡丹の視線を、清羅と志摩が追う。そこに隆嗣の姿を認めて、清羅の浮ついていた気持ちが、針を刺されたみたいにしぼみ始める。
 隆嗣の指示に従って、撤収作業は迅速に進む。隆嗣は、指揮者に似ている。彼の采配で、ステージが再設営される。
 その手際が、いつも自分のことのように誇らしいのに、今は素直に喜べない。

「黒木さん」
「は、はは、は、はいっ!?」
「……いろいろ言ってやろうかと思ったけど、あなた、ばかばかしいくらい素直なんだもの。……かわいいだけで充分よ」
「ん? せんせー、それ、褒めてないし」
「私みたいに、かわいげのない女って大変なの」

 牡丹は清羅の鼻を指でぴんと弾いた。

「お昼は、少し待ってもらってもいいかな。先に行っててくれる?」
「あ、あの……せんせ」
「……いいのよ」

 牡丹は清羅と志摩を置いて、ステージの方へ歩いて行く。背中は真っ直ぐ伸びていて、モデルみたいだと清羅は思った。

 ざわざわした体育館の片隅で、隆嗣と牡丹が向かい合う。
 二人が話しているのを、他の生徒は先程の生徒総会についてと勘違いしたかも知れない。
 牡丹が唇を動かす。
 生徒達の声は賑やかで、体育館の無機質な空間を温かくかき混ぜる。
 流れというものが、止まることは殆どなくて、たまに一緒になって、ともに泣いたり笑ったりする。海際のぬるまったいタイドプールみたいな心地よい時間。
 だからきっと、牡丹の声は、この空間において、海の貝の呟きほどの、小さな声であったに違いない。
 隆嗣はそれに耳を澄まし、それから、ゆっくりと首を横に振った。
 牡丹は、一度小さく頷いた。
 二度目は、噛みしめるように、頷いた。



「セーラ、泣いてるの?」

 清羅は自分の頬に手をやった。確かに指は濡れていて、それが自分の涙だと気づくのに、また少しかかった。

「セーラ……」

 志摩は清羅の視線の行く先を把握していて、だから彼女の小さな肩に手を置いた。

「あれ。おかしいな。なんで泣いてるんだろ」

 清羅はブラウスの袖で頬をこする。けれど、涙は静かに、次々と清羅の目から流れ出てきて、途方に暮れる。
 志摩は、気の毒そうに清羅に言う。

「セーラ、教室、今誰もいないと思うから、そっちで休んでな。お昼買って持ってくから。由井先生にも言っとくね」
「……うん……」



 生徒達は、中庭のステージ前に設置された飲食店に群がっている。
 キッチンカーであったり、屋台であったり。この時間だけ食事が提供されるので、みんな自分の昼食を確保するのに必死だ。
 清羅は彼らを横目に、教室へと向かった。もう一度、隆嗣と牡丹のやりとりを見る勇気はなかった。
 清羅はしおたれた――岩にはりついたわかめみたいに、へろへろひろひろぺたぺた歩く。
 すれ違う生徒もいなくて、中庭から音楽が響いてくる廊下を、清羅の上履きの音がなぞっていく。
 清羅達の教室は、お化け屋敷。窓という窓は段ボールとガムテープで目張りされていて、なかは真っ暗。
 清羅は入口で、入ることを躊躇って立ち止まる。
 臆病者で、恐がりで、甘えたがりのわがまま。
 だから、清羅は一人で暗がりに進んでいくことができない。

 ――ただの独占欲なんじゃないの。

 ――清羅《あなた》は、隆嗣を誰かに取られたくないだけなんじゃないの。

 牡丹のぴんと伸びた背中は、清羅には持ち得ないものだ。
 彼らは確かに恋というものを知っていて、清羅はまだ、入口に立ったばかり。
 ここから進んだらいいのか、それとも後戻りできるものなのか。

 迷ってドアに向かって伸ばした手を、後ろから大きな手が包んだ。

「ひっ!? お化け!?」
「……なわけ、ないでしょう」

 振り返ろうとする清羅を後ろから羽交い締めにする。――隆嗣である。
 大きな手、大きな身体、清羅をすっぽりと包み込んでしまう。体温、匂い。

「い、やぁ、あ」

 清羅の胸の下、隆嗣の腕ががっしりと彼女の胴を締め上げる。
 もがく彼女の耳元に鼻をこすりつけるようにして、隆嗣は囁いた。

「……また逃げたでしょう」
「ひっ、耳元、やめ、て」
「やめません。バカな君のことだから、牡丹に僕を譲るとか言い出しかねない」
「……ぇ……?」
「泣いてたでしょう?」

 隆嗣はドアを通れる分だけ細く開けて、そこから清羅ごと教室に滑り込むと、ドアを音もなく閉めた。
 教室は暗闇だ。触れているところと、声だけ。

「ぼ、ぼたん、せんせーは……」
「挨拶は済みました」
「そ、そういうことじゃなくって!」
「彼女が、僕をどう思っていようと、僕には関係ありません」

 言い放った声は、暗闇に研がれ、一層冷たく聞こえる。
 清羅は彼の言いようにかっとして、隆嗣の腕を引きはがすと、ぐるんと身体を返した勢いのまま、暗闇に向かって手を振り上げた。

「バカはあんたでしょ! 隆嗣のくせに!」

 ぱちぃん! と小気味よく平手が隆嗣の頬に炸裂する。――当たった。

「あっ、あのねぇ! そういうのって、ふせーじつって言うし! 不誠実! だ、だめなんだからねっ、そやってひとを……」

 手探りで、隆嗣の胸ぐらを掴み上げようとした手首を、隆嗣が握る。

「……ぁ……!? は、はな、し……」

 暗闇では、隆嗣の顔も、自分の気持ちも見失う。

「……君は、こんな時ばかり、誰かの味方ぶろうとするけど」

 いつもなら、逃がして貰える。清羅が嫌だということを、隆嗣がするはずがないのだから。

「それで、僕を手放そうとするなら、許さない」

 暗がりに膨れあがる、まるでお化けみたい。
 悲鳴を上げようとした口が塞がれる。

「んっ、ん、んっ……! ん、くっ……」

 じゅくじゅくと突き入れられた舌が口内をかき混ぜる。次から次へと唾液が溢れ出て、別の生き物みたいに動く舌に喉を塞がれて、溺れてしまいそう。
 縋りたい腕はねじ上げられて、清羅ははりつけで罰を受ける。
 ぷちゅ、と清羅の唇の堰を越えた唾液が、顎からのど元へ伝う。舌はその流れを追って、清羅の顎から、のど元へと辿った。
 鎖骨の間の窪んだ場所を、舌が抉り、唇が強く吸い上げる。

「い、いたっ……っ、はぁっ、はっ、は……」

 苦しげな清羅ののど元で、隆嗣は低く唸るように呟いた。

「……どうも、僕は君のことになると、自分を抑えられなくなる……でも、抑えるつもりも、もうありません。逃げ場はないんですよ、清羅」


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