海鳴き様と暮らした郷

松山あき

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第三章 二人の手紙

29 勝の手紙 二通目

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――十九歳 十月初旬

 錦州は満洲国内でも比較的夏が長く、九月のうちは軍服では汗ばむ日も多かった。
 このところは夜冷え込むことも増えてきて、上着が欠かせない。

 虫の音も遠いような夜に、勝はこれまでの清一郎からの手紙を広げて一つひとつ読み返していた。

 一年ほど前までカナと少しの漢字しか書けなかった清一郎は、今やひらがなもカタカナも、そしてある程度の漢字も使いこなせている。
 幼い子どものような文章が時を経るごとに洗練されていく様は、勝の胸に喜びと焦燥をもたらし、最近もらった手紙から目を逸らせずにいた。

 この蕾が花開くような成長を見守れなかった悔しさはあるが、あの日と変わらず清一郎の心が温かなものであることが無骨な文字から透けて見えて、勝の心を温かくする。

 懐中時計で時間を確認すれば、夜も更けてきていることに気がついて勝は慌てて筆をとる。返事を書くべく広げたのはいつもの官給品の便箋ではない。
 ハルビンの風景を切り取った絵が入っていて、上質な紙で出来たものだ。休暇を使って勝が選んできた。

 使ったことのないような便箋を目の前になぜか走る緊張を振り払うように首を横に振れば、そっと優しくペンを走らせていった。

『拝啓 秋の深まりを感じる今日この頃いかがお過ごしでしょうか。急にこんな手紙をもらい驚いているでしょうか。清一郎がとても大人びた文字や手紙を書くようになり、一人前の男になったのだと感じました。その感動を表そうと、今回に限り洒落たことをしてみたのです。海兵団での生活は仲間にも恵まれ楽しんでいるみたいですね。清一郎にとっては初めての学校生活のようなものですから、充実している様子は私も自分のことのように喜ばしく思います。次は洋上で手紙を書いてくれるとのことですが、部隊名も忘れずに教えて下さい。お前が活躍したらすぐに分かるよう必ず。いつか清一郎の成長した姿を見られるよう心から祈っています。 草々』

 同じく錦州にいる歳の近しい兵士が婚約者から薔薇が描かれた便箋で手紙をもらっていた。ほとんど女の気配がない軍では珍しがられ、皆が盛り上がっていたのが一週間ほど前。
 それを真似て街まで出て清一郎に便箋を選んだが、実際にやって見ると気恥ずかしいもので、勝はすぐに官給品の封筒に先ほど書いたものを入れ込んだ。

 父や源吉とも手紙のやりとりをしている勝だったので、ガダルカナル島で激しい戦闘が始まり、マレーやフィリピンの統治も行う中、日本国内の物資が不足していることはもちろん聞いていた。

『お前たちの活躍で苦しい生活に終止符が打たれることを望んでいる。』と父は書いていたが、実際どの程度期待していて、どの程度町の人々が耐えられるのか勝としても憂いを感じる。

 勝の部隊は錦州の施設や街の警備が仕事だ。駅や鉄道は別部隊の仕事だが共同で任務を行うこともある。
 もとより関東軍は鉄道を守ることを目的に作られたが、今や満州全土を支配するためにあることは勝も気がついていた。

 豊かな大地を持つ錦州や熱河では、日本国内ほど食糧不足は感じにくい。
 
 また、首都の新京はもちろん、奉天や大連など交易拠点となるような土地や都市は物資が不足しているのが嘘のような暮らしをしている日本人もいる。
 確実に戦線は拡大し優先的に物資を与えるべき兵士の数も増えているのに、形だけの質素さを見せながらも飢えを知らない人間の裏には、当然犠牲もあった。
 それがこの大陸では日本人以外だった。
 
 中国人や韓国人労働者への食事はかなり減っていることは勝の耳にも届いている。
 元々彼らへの扱いは酷いものだったが、勝はこのところ痩せている者が街に増えだしたように感じていた。

 今も道路建設の現場には痩せた子ども――おそらく勝よりも少し歳下の――が列をなしてセメントを運んでいる。

 ふと勝の目の前で青白い顔をした子どもがセメントと一緒に地面に倒れ込む。
 その重たい音に気がついた現場監督らしい日本人の男が少年に走り寄ってくる。

「何をしているか、貴様は!!荷物をまともに運ぶことすら出来んのか!!」

 少年は肩で息をするばかりで返事をしない。周りは憐れむ顔で少年を見つめ、中には足を止める者も現れた。
 だが、当然日本人の男はそれが許せず、「貴様らは仕事だ!休むんじゃないッ!」と怒鳴り散らしてから再び少年に目を移す。
 それから興奮した顔で彼の肩を踏みつけだした。

「貴様もいつまで寝ている!早く起きんかッ!!」

 満洲国には不問律がある。これは日本人であっても守らねばならない、暗黙の掟である。
 それは憲兵隊と満鉄社員に逆らわないことだ。

 憲兵隊は満州の秩序で、満鉄は満州の生活そのものだ。この道路建設も満鉄が請け負っている。

 憲兵隊に睨まれれば死が待っているが、満鉄に睨まれれば軍部とつながりの深い彼らによって職を追われる上に、鉄道も病院も使うことさえできなくなる。
 生きたければ二つの大きな組織に逆らってはいけない。

 それが分かってもなお勝は目の前の光景を残虐に感じてしまい、つい足をそちらに向けてしまった。
 慌てた同僚が止めるのも聞かず日本人の男の肩に手をかける。

「もうそのあたりで良いではないか。」

「……なんだ。上等兵ごときが何のつもりだ。」

 止めに入った勝を満鉄の男はギロリと不審そうに見るだけで少年を踏みつけた足はそのままだった。
 先日上等兵に昇格したが、その他大勢の兵でしかない勝は彼らにとっては侮って良い相手でもある。
 
「私が見ていて不快だから止めてくれと言っている。」

「こっちは大事なお国の工事をダメにされかけているんだ。叱りつけて何が悪い?」

 チラリと少年に目を向ける。辛うじて意識はあるようだが、それでもこの様子では歩くことも難しいだろう。
 よくこのような病人に鞭が打てるものだと、勝は男を睨みつける。

「病人を無理やり働かせればこうなることなど目に見えているではないか。事故が起きる前に帰してやればいい。それも出来んのに管理者とは聞いて呆れる。」
 
 一人が倒れれば大事故になるかもしれない。故郷の荒くれ者たちでさえその道理は理解している。
 ただひたすらに働かせれることが至上だと思い込んでいる男がいっそ憐れとさえ勝には思えた。
 
 じっと真っ直ぐな視線で正論を叩きつける勝にいよいよ我慢ができなくなったらしい男が少年から足を退けて今度は勝に向けて拳を振り上げた。
 どういなそうか冷静に考えている勝と男の間に、突然人が入り込んでくる。

 音もなく入り込んできたことに驚く男を無視してこちらを振り返ったのは、勝の上官でもあり華族の釘宮だった。

「お前は私に苦労ばかりかける。困った子だ。」

 全く困っているように見えないのは、釘宮中尉がいつものように微笑んでいるせいだろうかと考えつつ、勝は姿勢を正して敬礼をした。

「すみませんね。私はこれの上官なので、引き取りに来ました。」

 突然怒りのやりどころを失った男は困惑したように勝と釘宮の襟章を交互に見つめてから、ぐっと押し黙る。
 まだ行き場をなくした感情があるのか士官だと分かってなお何も言わない。

「ふん。少し考えてから発言するよう、あなたからも注意してください。」

「あはは。返す言葉もない。……そうそう、篠山さん。」

 釘宮が男の名前を知っていることに対して勝が驚きを口にすることも憚られる中、釘宮は篠山という男に何かを耳打ちした。
 すると突如男の顔から血の気が引き、黙り込んでしまう。
 
「ね、お互い大事しない方が良いでしょう?」
 
 何が起きたか分からず困惑する勝をよそに釘宮が踵を返してきた。
 いつものように微笑んで温度のない瞳のまま肩を叩かれ合図をされれば勝もついていかざるをえない。
 少し迷ってから勝は倒れている少年を抱きかかえてから釘宮のあとを追った。

 やはりかなり調子は悪そうだが、それでも息をしているだけで勝は安心できた。
 さすがに勝の行動には驚いたのか、顔を上げると目を瞠っている釘宮と目が合った。
 
「妙なことをする。」

 釘宮の言葉にふと故郷の港で日雇いの男たちと談笑していた祖父の顔を思い出した。
 港のあたりと街の一部の地主として町を治める勝の家では、港湾労働の男たちを重宝していた。
 彼らがいなければ港は荷卸しもできないので、町が潤うこともない。
 他の町では安く買い叩かれることもあるというが、父も兄も港の男たちを大事にするように勝に説いた。

 それだけではない。町で商いをする者、田畑を耕す者、誰かが欠ければ町の営みは絶えると、地主の家の者だからといっておごってはならないと教えを受けた勝には妙なことでも何でもなかった。

「……この子どもも、我らが守るべき民でしょう。」

 だからこそ、人を大事にしないこの満州のあり方は、海鳴き様だけでなく勝の心もざわつかせるのだった。

「美しく、真面目な男だ。」

「……はあ。恐縮です。」

「けれど真面目が過ぎる。……お前には少し遊びが必要だ。いつか私が直々に教えてやろう。」

 いつもより少しだけ愉快そうな色を顔に浮かべてそれだけ言い残すと、再び勝の肩をぽんっと叩いて釘宮は去っていった。

 遊びとは言っても、この時代遊びは贅沢だ。とてもではないが勝が簡単に手を伸ばせるものでもない。
 一体どのような意図があってのことか分からず首を傾げつつも、勝は少年を中国人や朝鮮人の居住区の入り口まで送っていった。

「どこに住む者か分からない。すまないが少し休ませてやってほしい。」

 たまたま居合わせた母子にそう日本語で話しかける。
 母の方はきょとんとしていたが、子どものほうがいくらか日本語が分かったらしい。母親に通訳すると、二人して頷いてくれた。
 勝はその母子にわずかばかり金を握らせてから自分の職務に戻るべく、錦州の町をかけていった。
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