海鳴き様と暮らした郷

松山あき

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第三章 二人の手紙

33 勝の手紙 四通目 前編

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――二十歳 十二月

 満州の黄金時代はついに終わりを迎えた、という雰囲気が漂っていた。
 
 農村にいた男は皆戦争に行ったのだから当然今年の収穫は寂しいものであったという。
 そうすると食事もいよいよ質素になって、粥か雑炊をひと掬い程度が精一杯な日も増えいた。兵士はいつも腹を空かせていたが、売るほど食料が余っているところがあるはずもなく、「欲しがりません、勝つまでは。」と誰が言い出したのか分からない言葉をつぶやく他何もできなかった。

 官給品のコートはウールと中綿で出来ており、暖かいとはいえ夜の巡回には今ひとつ物足りない。
 それも今や新兵には支給されないため、勝は自分のそれをこれから巡回に行く兵に貸し与え今日の軍務を終えようとしていた。

「……お前、波多野。」

「は、はいッ。」

 先ほどまでつまらなそうな顔で書類を眺めていた釘宮中尉から突然名前を呼ばれて、勝は動揺で一拍返事が遅れてしまった。

 釘宮のほうはそれを特に気にかけることなく、目の前に来て敬礼をする勝を眺めたあとで「ふー。」と息をついて再び書類に目を落とす。

「お前、明日は非番だったね。」

「は。」

「今夜の予定は?」

 勝の休みを把握していることも驚いたが、全く興味ないであろう非番の予定まで聞かれて思わず黙り込んでしまった。
 反応が返ってこないことを意外に思ったのか、釘宮の目が見開かれ作業していた指が止まる。

「なんだ、予定があるのか。」

「い……いえ、とくにございません。」

 中尉殿にそんなことを聞かれると思っていなかったとは言えず、動揺を隠せないまましどろもどろに答えた。
 返事を聞いて再び書類を片付けながら「だろうな。」とつぶやく釘宮が何故か自分の予定を全部知っても不思議でないと勝に思わせるのは、数ヶ月前のアヘン密売人の捕物騒動のせいだろう。

「私はあと二十分ほどで仕事が終わる。お前も支度をしてきなさい。」

「……はあ。どこかお出かけでありますか?」

 突然のお誘いに困惑しながら勝が尋ねれば、釘宮は顔を上げてニッコリと微笑んだ。

 勝は釘宮の部下になり二年ほど経つが、未だに掴みどころがない。
 ふらふらしていたかと思えば成果を上げてきて、軍規違反をいくつも犯しているのにお咎めはなく、そのくせ彼の指揮下はなぜだか規律正しい。
 その中に自分もいるのだが、この人に逆らってはいけない何かを誰もが感じていて、そのせいか目の前の笑顔が勝にはとても怖かった。

「遊びを教えると、以前約束しただろう。遅くなるだろうから暖かくしておいで。」

 それも一年以上前の話で、まさか釘宮が覚えているとは思わなかった。
 今日は驚くことばかりだと呆然としていると、釘宮に不機嫌そうに睨まれた。

「早くしなさい。まさか私を待たせるつもりか?」

「い、いえ。……行ってまいります!!」

 他の上官に叱られない程度に早歩きで官舎に向かうと慌てて楽な服装に着替えた。
 釘宮の言いつけどおり羊毛の二重廻しトンビコートも忘れずに羽織り、やはり急いで陸軍司令部に戻る。

 先ほど呼びつけられた部屋の扉を叩けば、中から釘宮が出てきた。
 軍服はやはり脱いでおり、仕立てが良いとひと目で分かる外套の襟にはふっくらと艷やかな毛皮が贅沢に使用されている。
 これほどのものは滅多にお目にかかれものでもなく、勝は釘宮の財力と育ちの良さを改めて実感した。

「……ふむ。良い感性だ。」

「は。恐縮であります。」

 勝の返事を待たずして釘宮は颯爽と歩きだした。
 いつかのようにその半歩後ろを歩きながら、勝は不安を拭えないまま錦州の街へと繰り出していく。

 司令部の中はまだ暖かかったが、外は吐く息が凍りそうなほど寒い。風が吹くたび頬もピリリと痛んだ。
 今は明かりなども制限されており、駅の周辺を除けば闇に包まれ何も見えなくなりそうなほどだった。

 しばらく歩くと、釘宮はとある店の前で足を止めた。
 錦州唯一の歓楽街のど真ん中、派手ではないが上品な佇まいの店は勝もよく知る場所だった。

「く、釘宮中尉!!まさか、この店に入るんですか?」

 勝は一度もこの店に入ったことはない。だが、店の名は広く知られていたし、一般の兵士たちの間でもよく囁かれる場所だった。
 それは足を踏み入れたからではない。“足を踏み入れること自体が兵士の憧れだから”である。

「ああ。何か問題があるか?」

「私は、このような場所に入れるほどの稼ぎは……。」

 いわゆる高級娼館……それも一般の兵士では一年頑張って金を貯めても足を踏み入れらるが女は買えないと言われているほどで、錦州でも指折りの名店だ。

「良い。支払いは私がする。」

 そう言って何も気にせずに中に入る釘宮を勝も追いかけないわけにもいかず、バクバクと心臓を鳴らしながら入店した。

 中は外観同様に落ち着いた雰囲気で、意図的に落とした照明とろうそくが揺らめいている空間だった。
 パチパチと音を立てる暖炉でさえ計算されたように調和しており、きらびやかさとは違った高級感が見事だと勝は呆然とする。
 
 何組かの客が店の娘らしき女と談笑している中、それには目もくれず釘宮が奥の方へと足を踏み入れて行くと、身なりの良い一人の男が出てきて恭しくお辞儀をした。

「ようこそお越し下さいました。釘宮様。」

「お前、出てくるのが遅いのではないか?」

「貴方様が早いのです。皆様入り口で立ち止まってくださいますよ。」

 店の者であるのはすぐに分かったが、それにしても釘宮と親しげな様子に勝は目を丸くした。

 本人の気位の高さや一部の崇拝者のせいもあるが、軍内部ではこのように軽口を叩ける人間は誰もいなかった。
 それを言わせるどころか許しているようにも見えるのが勝には意外な光景に見える。

「外套をお預かりします。皆さんお待ちかねですよ。」

「そうか。些か早いと思っていたが。」

「貴方様のお越しですから。……お連れ様もどうぞ楽しんで下さいませ。」

 二人分の上着を店の者に預けると、釘宮は案内もなしに二階へ続く階段を上がっていく。
 外套の下はおそらく特別に誂えたであろう洋装。
 満洲の街中や日本では肩を強調し、ゆったりとした形のものが多かったが、釘宮が着ているのはどちらかというと細身で、上着もくびれがしっかりついている。
 一見すれば流行りには程遠いが、釘宮の身体によく合っていて品の良さが引き立っているようにも感じられた。
 その服装と彼の行動とが相まって、勝の頭に“傾奇者”という言葉が自然と浮かんだ。

 薄暗い館内を釘宮は迷うことなく進み、二階の一番奥の部屋をさも自分の部屋と言わんばかりに合図もなく開けた。

「あら、釘宮様。いらっしゃいませ。」

「お早いお帰りでしたのね。」

 暖かい部屋の中には二人、いずれも見目麗しい女性がいて、突然開いた扉に驚きもせずに釘宮の来訪を歓迎していた。
 皆が釘宮ばかりに夢中になるので勝は置いてけぼりのような気持ちになるが、とりあえず控えめに黙ったままその後ろに続く。

「あら、お連れ様?今日は可愛らしい方を連れているんですのね。」

「本当だわ。軍人さんですの?」

 一人が気がつけば、皆の視線が一斉にこちらに注がれた。
 勝は男兄弟の中で育ち、婚約者もいない。交際経験などもちろんないため女性には慣れておらず、思わず身を小さくして黙り込んでしまう。

「私の部下だ。」

「釘宮様、初めてですわね。」

「ええ。いつも一人でお見えになるのに。妬けちゃう。」

 女性を侍らせたまま上質な革で出来た椅子にゆったりと腰を下ろした釘宮は、部屋の隅で侍従のように佇む勝に視線を投げて手招きをする。

「お前もこちらに来なさい。」

「さあさあ」と女性の一人に促されるまま勝もその輪の中に入るが、ここにいる女性たちが“そういう”接待もすると思うと落ち着くことは出来ず、椅子の柔らかさなども感じられず、小さくなることしかできなかった。
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