2 / 73
1巻
1-1
第一章 朝、宦官は帝姫に迫られる
「待てこら! 俺はやるって言ってねぇぞっ!」
今上皇帝の後宮奥深くにある承寧宮。
大弦国皇帝の寵愛を一身に受けていた美貌の妃――瑛賢妃が亡き後、その宮には一人の帝姫が住んでいた。
齢十五の姫君は大層病弱で、枕から頭が上がる日が月のうち幾日もないという。同じく体が弱かったとされる賢妃が亡くなってからというもの、古参の侍女頭をはじめとするたった三人の侍女と、一人の護衛宦官、そして小間使いの宦官が姫君に仕えるのみだった。
妃がいない故に、承寧宮は他の妃嬪からほとんど見向きもされない。姫君を診察する後宮の侍医と、父である皇帝が時折足を運ぶ以外に、訪れる客もなくなって久しい。
そんなひっそりとした宮の一番奥の部屋、姫君の寝室に当たるその部屋では、早朝から一組の男女がもみ合っていた。
一人は小間使いの宦官。
もう一人はこの宮の主である帝姫。
姫君と宦官の道ならぬ恋――ではない。
当代一の病弱と言われている姫君は、あろうことか絹の下着姿で、寝台の上に逃げた半泣きの宦官を追い詰めていた。
「く、来るな銀月! ちょっと待て、お前、勝手に脱がそうとするんじゃねえ!」
「往生際が悪くてよ、白狼。大人しくなさいな。お前の気が進まぬのであれば、わたくし手ずから一枚ずつ脱がせて差し上げると言っているのに」
「猫なで声やめろ!」
「お前な、優しく言ってやっているうちに着替えろ。早くしないと侍医が来る。支度が間に合わんぞ」
この騒ぎを聞きつけた者は、おやと訝しく思うだろう。
銀月と呼ばれた姫君の口から飛び出す声は、変声期に差しかかった少年のそれだった。やや低くなりたてのかすれ声は、その背に美しく波打つ髪と花のように可憐な顔立ちとはなんとも不釣り合いである。
「うっせえ! 今までだったらお前がやってたんだろ? だったらそれでいいじゃねえか!」
対する白狼と呼ばれた宦官は随分と小柄であった。寝台に膝をかけてにじり寄る姫君を遠ざけようと、闇雲に振りまわす手足も男のものにしては細く、小さい。そして宦官の特性というものを差し引いたとしても、声が子どものように高かった。
「やかましい。定期健診の侍医だけならさして問題ではないが、何故かご機嫌伺いと称して皇后の女官がついてくるなんて先触れがあった。皇后の意見といって診察ついでに服を脱がされる可能性もある。女の体が必要だ」
「だったら黒花さんにやってもらえばいいだろう!」
「体格はともかく黒花じゃ年齢が違いすぎる。四の五の言わずにさっさと脱げ。そしてこれを着ろ」
上下ともに丈の短い絹の下着姿になった銀月がにじり寄り、白狼にぐいっと女物の薄い着物と裳を突き出す。白狼は着ている宦官服の胸元をぎゅっと握りしめ、断固拒否の構えを取った。
が、それも一瞬のこと。
銀月の背後に控えていた翠明、黒花、小葉という三人の侍女にあっという間に白狼は取り押さえられてしまった。
「うわああああ!」
「いい加減に観念なさい、白狼。この宮に来る際、なんでもやると申したではないですか。姫様ではないですが、往生際が悪いにもほどがあります。黒花、小葉、さっさと脱がしておしまい!」
「なんでもやるとは言ったけど、女の恰好は絶対しねえとも言ったじゃねえか!」
「何を言っているのです。普段は宦官の服を着ていて良いというのは姫様の温情ですよ」
「とにかくやだっつってんだろ!」
「人の耳元で叫ばない!」
初老に差しかかっているとはいえ、長年この宮で侍女頭をやっているという翠明は、驚くほど素早い動きで白狼の頭に拳骨を落とした。
瞬間、白狼の目の前に星がちらつく。やせぎすの女性の拳だというのに、とんでもない威力だ。
礼儀作法を重んじ、帝姫たる銀月に貴婦人としての教育を施した人とは思えないほどの力に、さしもの白狼も黙らざるを得ない。
白狼を一喝した翠明は、ほかの二人が作業を始めるのを見届けるとくるりと銀月を振り返った。
「姫様も、いったんそちらの衣はお預かりしますのでご退室なさってお召し替えを」
「しかし、白狼が逃げてしまわんように人手があるに越したことはなかろう」
「何をおっしゃっているのです。殿方が女人の着替えを見るなんてもってのほかですよ」
「私は構わんが。どうせ白狼だし」
「構わんが、ではございません! いくら白狼とて中身は女子。日頃から姫様とお呼びしておりますが、あなた様は殿方。しかも御歳十五になられたこの国の皇帝の御子でございます。弁えなさいませ!」
今度は銀月に翠明の雷が落ちた。
しまった、と銀月の表情が気まずいものに変わる。つい先ほどまで寝台で白狼と取っ組み合って服を脱がそうとしていたことを思い出したのだろう。
既に二人の侍女に半分がた脱がされている白狼は、黒花に羽交い絞めにされたまま小さな体を一層縮めた。年端もいかない童のように小柄とはいえ、実際の歳は十九を数える白狼の胸元には分厚くさらし布が巻かれている。その布にわずかな膨らみは押しつぶされ、細い谷間ができていた。
「周! 周は控えていますか? 早く姫様のお召し替えを!」
翠明が戸口に向かって声をかければ、外に控えている大柄な宦官が「はっ」と応じた。
武官らしく太刀を佩いたこちらは、宦官といえどさすがにうら若い娘が衣服を剥かれている室内には入らず、扉の前で銀月を促す。
ばつの悪い顔をしたままの銀月が周に連れられ出ていくと、黒花と小葉は白狼の着替えを加速させた。その手は無慈悲にも白狼が着ていた官服や袴を剥ぎ取り、丈の短い麻の下着から伸びる手足や胸元に白粉を叩いていく。
「や、やめろって! 絶対バレるから!」
「大丈夫大丈夫。姫様はいつも顔色が悪いのを隠すためって言って白粉の厚塗りをしてるし、化粧も濃いめにするから」
「あら白狼ったら顔は日焼けしてるけど、体はそうでもないわね。うなじはもう少し白粉塗っとく?」
「あらほんと。ああ、服がだぶだぶに余っていて手足が外に出ないせいかしら。それにしてもちょっとあんた、このさらし、強く巻きすぎよ。痕がついてるわ」
「うっせ! 勝手に取るな!」
「あ、ちょっと白狼! どさくさに紛れて人の帯飾り盗まないでよ! ほんとあんたって手癖が悪いわね」
「精神的な慰謝料だ! 女装はやだってば!」
ほとんど裸にひん剥かれながらも、白狼は化粧を拒もうと抵抗を試みた。
しかし三人の有能な侍女たちに囲まれては、一般的な女性より小柄な白狼では太刀打ちができない。荒事は不得手ではないが、かといって女性を殴るのは気が引けた。
高まっていくどうしようもない憤りは、得意のスリの技で侍女たちの宝飾品を抜くことで発散するしかないではないかと開き直る。
こんなところ来なければ良かった、と心の奥底から後悔の念が湧いてくるがもう遅い。もしもその後悔に従って逃げだしたら、重大な秘密を知っている自分が一生お尋ね者にされるのは間違いなかった。捕えられれば間違いなく斬首である。
それだけではない。あいつ――銀月が困る。状況次第ではあるが、悪くすると逃げ出した白狼のせいで銀月も殺される。それはなんとなく後味が悪いし、嫌だった。
目尻に紅を入れられている間、薄目を開けていた白狼は前かがみになっている黒花の帯紐の先についている玉をこっそり抜いた。本日、二個目の戦利品だ。
こんなところにいては換金するあてもないが、女装の憂さ晴らしと将来のちょっとした小遣い代わりだ。これほどの無茶を強いられているのだから、彼女たちの飾り物の一つくらい貰ったってばちは当たらない、はずである。
いつか絶対銭に替えてやる、と固く決意するが、それが一体いつになることか見当もつかないところがつらい。
しかしなんの因果か、性別を偽った皇子が後宮で息を潜めているなんて。この秘密は、宮にいる側近達と後宮の主人でありこの国の主人でもある皇帝しか知らないという。
そんな重大な秘密をうっかり知ってしまった自分が心底恨めしかった。
白狼が激しく後悔に苛まれている最中も、侍女たちの作業は続けられていた。
いつの間にか女物の上等で豪華な絹の着物を重ねられ、長い髪の鬘を頭に括り付けられている。鬘は紐や簪であちこち縛られ突き刺され固定されているため、土台に使われた地毛が尋常ではない力で引っ張られ、頭皮がずきずき、ぎりぎりと痛い。
痛みによって自然と白狼の眉は下がり、伏目がちになった。それを確認した翠明は、よろしいと言って白狼を姫君用の椅子に座らせたのだった。
そして今に至る。
まもなくやってきた侍医の診察を、銀月の格好をさせられた白狼は受けていた。
とはいえこの国において高貴極まりない身分である帝姫の身体においそれと触れることはできないため、ほぼ問診だ。それでも繰り返される同じような問いに辟易しながら、白狼はひたすら頭痛に耐えていた。
鬘を固定したときから続く痛みが徐々に重苦しい鈍痛に変化しているのだ。痛むところも頭から首、肩に変わっている。
「……はぁ」
目の前にいる白衣の年寄りはぼけてるんじゃないだろうか。いつ終わるともしれない繰り返しの問診に、白狼は顔のほとんどを隠した扇の裏で声にならないため息を吐く。すると手元の帳面に何事かを書き入れていた侍医の筆が止まった。
「い、いかがされました姫様。お疲れでしょうか? お加減がよろしくないようでしたら、薬湯を煎じて出直してまいりましょうか」
心配そうな申し出に、白狼は扇の陰から部屋の入口に控えている銀月を見た。
白狼が着ていた宦官の服を着て頭を垂れているが、話は聞こえていたのだろう。こちらに目配せをして、首を小さく横に振っている。
まあそうだよな、と白狼が断るために口を開こうとすると、それを遮るように翠明が「不要です」と侍医に告げた。まるで白狼が直答しそうになったことを察していたかのような素早さだった。ついでに後ろに立つ小葉につんと背中をつつかれ、白狼はあぶないあぶないと肩を竦めた。
いかに私的な宮の中で侍医相手とはいえ、高貴な姫君が男を相手に直接口を利くことなどありえないのである。
それからしばらくの後、ようやく問診を終えると、侍医は頭を下げて退室していった。薬を後程取りに来るようにということなので、おそらく着替えた白狼があとでお使いに行くことになるのだろう。全くひと使いが荒い。
侍医が退室すると、黒花と小葉に立て続けに小突かれた。ため息をつきすぎ、姿勢が悪い、気品が足りない、うっかり口を利きそうになるな、などなど。無理やり身代わりに仕立て上げたくせにひどい言いようである。
しかも結局、皇后の女官なんて来なかった。意に沿わない女装をし、痛みに耐えた自分を褒めてくれる者はいないのか。
侍女たちのぞんざいな扱いにふくれていると、周と戻ってきた銀月がするすると白狼に近づいてきた。
こいつだけは褒めてくれるか。
期待する白狼に、銀月はそっけなく言い放った。
「お前、扇を持つ手を袖から出しすぎだ。私はもっと手指を隠して、上品にそれを支えるのだ、この粗忽者め」
「なっ! お前、無事乗り切った、よくやったくらい言えねえのかよ!」
「ギリギリだ。バレたら私もお前も、宮のみんなも、その一族全員の首が飛ぶぞ。もっと精進しろ」
しれっと物騒なことを言った銀月は着替えのために踵を返す。その後姿に白狼はべえっと舌を出した。しかしちょっとした動きで簪がずれ、引っ張られた地毛の部分に鋭い痛みが走る。ぐうっと白狼は奥歯を噛んだ。これだから女装なんて慣れないことをするもんじゃない。
――あのとき、なんでもやるなんて言わなきゃよかった。
男として生きてきた自分には到底納得しきれない状況ではある。しかし実際のところ銀月達の言い分も分かるし、やらなきゃならない事情も理解できる。
そう頭では分かっていても、心の反発は抑えられない。
なんだってこんなことに、と泣きたい気持ちになった白狼は、泣く代わりに大きなため息を吐いたのだった。
第二章 河西の白狼
出会いは唐突だった。
そして出会ったその夜のうちに、二人はお互いの秘め事を共有した。
寝台の上で胸倉を掴みあった二人の手が止まったのはほぼ同時。
離宮とはいえそこらの食堂より広い姫君の寝室。寝台に添えられたたった一つしかない燭台のわずかな灯りの中、はだけた夜着からのぞく胸元をお互いが凝視する。
片や白くなだらかな、うっすらと筋肉が乗った胸。
片や硬い麻の布で巻かれ、わずかな膨らみを押しつぶした胸。
胸元を凝視していた二人の視線が、ゆっくりと交差する。
そして、二人の口が同時に開いた――
★
「おい坊主、今日の芋餡は会心の出来だぜ? 美味えだろ?」
「俺ぁもうちょっと甘くねえほうが好みだな。ちょっと糖蜜入れすぎじゃねえの?」
「小僧が生意気言うんじゃねえよ。帰って母ちゃんの乳でも吸ってやがれ!」
「なんだよ、不味いとは言ってねえだろ」
河西に来た時の馴染みにしている甘味屋の店主にしっしと手で追い払われながら、白狼は行商が集う朝市で芋団子を齧るふりをして行き交う客を物色していた。
大陸の北から南西へ流れる濃河は、海の近くから内陸部を繋ぐ物流の要所であった。その濃河の西側を流れる支流沿いにある河西は、海の物も山の物も扱う行商がよく立ち寄る街だ。
毎朝開かれる朝市には活気があふれ、近隣に住む民や商人が入れ替わり立ち代わり訪れる。
その隅に店を構える甘味屋にもそれなりに人気があるらしい。白狼以外にも若い母親風の女やそれについてくる子どもが、団子をひと串、せんべいをひと袋、などと買っていく。
「そういやおっさん、今朝は娘を見ねえがどうした? 留守番か?」
客が途切れた隙に世間話の一環で白狼が店主に問えば、陽気な笑い声とともに嫁に行ったと聞かされた。
「ついこないだ、いいとこの坊ちゃんが見初めてくれてなぁ」
「いいとこの坊ちゃんのとこって、そりゃ嫁入り道具と持参金の支度がかかっただろ?」
「そこそこな。いっときは痛え出費だが、あの大店と縁続きになりゃ、うちの店も金が借りやすくなるってもんさ。うちの娘狙ってやがったのか? 小僧、十年早えぞ?」
「抜かせ、あばたヅラの女にゃ興味ねえよ!」
「んだとこのガキ! 買わねえならとっととどっか行っちまえ!」
店主が拳を振り上げた瞬間、それをかいくぐって白狼は店先から離れた。
場末の甘味屋だが、その娘がいいとこの坊ちゃんに見初められたとは景気がいい。景気がいい話ではあるが、胸糞悪い。
娘を嫁に出した見返りが楽しみだという内心が明け透けに見えすぎて、白狼は店主を振り返って舌打ちをした。
小柄なせいで坊主や小僧などと呼ばれることが多いが、既に白狼は数えで十九だった。どんぐりのような大きな目をした童顔も、ひとまわり大きな着物のだぶついた袖も、周りに対して年齢を低く見せるのに一役買っている。ただし、もちろん白狼はそんな見た目通りの「子ども」ではない。
鋭い視線であたりを窺う白狼は、帝都などにいれば警邏に声くらいはかけられたかもしれない。その程度には「柄が悪い」のである。
しかしここ、河西は帝都からも離れておりのんびりとした田舎町の風情を残したところだ。白狼の柄の悪さを気にする兵もほとんど配備されていないのは、白狼の生業にとって幸運だった。
「おっと……」
口内に広がる芋餡の甘さに閉口しつつ、人波を避ける。やけに朝市の客が多いなと辺りを見渡せば、街のはずれに建つ大きな赤い瓦屋根の屋敷が目に入った。
――そういやこないだからお姫様が来てるって噂だっけ。
行商達が話していた噂話を思い出して、白狼はまた団子を齧った。
この河西の街には何代か前の皇帝が建てた離宮がある。夏を前に皇帝の娘がその離宮へ避暑に来ているらしい。体の弱いお姫様で毎年夏の暑さで体調を崩すらしく、今年は初夏の足音も聞こえぬうちに療養のため移動してきたという。
確かにこの辺は帝都に比べれば北にあるので夏でも涼しいが、その反面暖かくなるのも遅く、秋になると水辺の街ゆえにすぐ冷え込む。しかも標高の関係か夏でも朝晩の気温差がかなりある。
夏前から秋口まで滞在するとして、ひと月半、あるいはふた月ほどで帝都と河西を往復するとなると、病弱な姫君にはかえって酷ではないだろうか。
まあ、そんなことは白狼の知ったことではないが。
お姫様の一団が来た時は、それはそれは華やかな行列だったと聞いたが、生憎その時白狼は港に近いもうちょっと大きな街へ出稼ぎに行っていたので見ていなかった。
大きな街は人出が多く、街を一巡するだけでかなりの稼ぎになった。芋団子の数串を気兼ねなく買えるくらいに今の白狼の財布は重い。自分ひとりであればしばらく食うには困らない十分な稼ぎだ。
そんな額をどうやって稼いだかといえば答えは簡単。
大きな声では言えないが、白狼の生業は人様の財布をちょいと「拝借」すること――つまりスリ稼業だ。街が大きければそれだけ金を持っている人間も増え、白狼の稼ぎも増えるという話だ。
ちなみに今白狼が着ている故服はその時の稼ぎを使い、港町の市場で買ったものだった。一般的な庶民に偽装することができ、街角に佇んでいても目立ちもしなければ胡散臭がられもしない。
いい買い物をした、と白狼は大満足していた。
さて、お姫様効果かどうかはともかく、のんびりしている河西の街であっても人通りが増えれば増えた分だけ店は繁盛する。市に店を広げる行商達も各々商売に勤しみ、客引きの声が大きく響いていた。
客引きに応じて売り物を手に取る者、目的の店までわき目もふらず歩く者、冷やかしなのか店ごとに足を止めて覗き込む者など、客側も様々だ。いずれにせよ賑わっている市にわざわざ足を運ぶくらいだ。どの客も、行商も、懐は大層温いに違いない。
ということは、と自然に白狼の頬が緩んだ。
今日は白狼にとっても稼ぎ時であるらしい。
であれば、早めに「商売相手」の目星をつけてさっさと仕事に取り掛かろう。
白狼は残りの団子を手早く口に放り込み、冷やかし客のふりをして人混みに紛れ込んだ。
薬草売り、肉売り、野菜売り、布売りなど行商の露店が隙間なく立ち並ぶ大通りは、文字通り人でごった返していた。行商人は仕入れと売却が済めばまた別の街へと移動していくものだが、先月もいた商人がまだ店を畳んでいない。ざっと見ただけでもそんなのが何人かいるようだ。
お姫様効果ってやつかね、と白狼は露店を覗きながら油断なく辺りを観察し続けた。下手な商売相手を掴めば稼ぎは少ないし、かと言ってあまりにも上等な商売相手となれば、警戒も上等で捕まる可能性も跳ね上がる。程良く銭を持っていて、ちょっとトロくさそうで、と客を吟味する。
なるべく人に顔を晒さないように立ち回りながら、念入りに商売相手を探していた白狼の視線がぴたりと止まった。
その視線の先にいたのは、ややみすぼらしい身なりをした二人組の中年男だった。
継ぎをあてられた着物を着ているものの、当人たちの血色は悪くなく腹などはむしろ出っ張っている。いや、でっぷりとだらしなく突き出しているといったほうがいいか。髪に巻かれた布も、薄汚れているように見えるが生地自体は上物のようだ。
市場の活気に誘われて出てきたどこぞの有閑お貴族様やその従者あたりだろう。庶民を装ってはいるが、周囲の人間と比べたら二人の出立ちは浮いて見える。しかし本人たちはお忍びで街の風景に馴染んでいるつもりらしく、見たかぎり、護衛がついている様子もない。
いい商売相手を見つけた、と白狼は舌なめずりをしながら二人をさらに観察した。
二人組は食材を買おうとしているのか、肉売りと野菜売りの店の前で額を寄せ合って何事か相談しながら店主にあれこれ言いつけている。店側は揉み手でそれに応じ、いくつかの野菜の束と干し肉、締めた鶏などを布にくるみ始めた。品物を受け取ると、二人組の一人がそれを持ち、もう一人が銭を払う。
なるほど財布係はそっちか、とアタリをつけた白狼は二人組の背後にそっと近づいた。
「待てこら! 俺はやるって言ってねぇぞっ!」
今上皇帝の後宮奥深くにある承寧宮。
大弦国皇帝の寵愛を一身に受けていた美貌の妃――瑛賢妃が亡き後、その宮には一人の帝姫が住んでいた。
齢十五の姫君は大層病弱で、枕から頭が上がる日が月のうち幾日もないという。同じく体が弱かったとされる賢妃が亡くなってからというもの、古参の侍女頭をはじめとするたった三人の侍女と、一人の護衛宦官、そして小間使いの宦官が姫君に仕えるのみだった。
妃がいない故に、承寧宮は他の妃嬪からほとんど見向きもされない。姫君を診察する後宮の侍医と、父である皇帝が時折足を運ぶ以外に、訪れる客もなくなって久しい。
そんなひっそりとした宮の一番奥の部屋、姫君の寝室に当たるその部屋では、早朝から一組の男女がもみ合っていた。
一人は小間使いの宦官。
もう一人はこの宮の主である帝姫。
姫君と宦官の道ならぬ恋――ではない。
当代一の病弱と言われている姫君は、あろうことか絹の下着姿で、寝台の上に逃げた半泣きの宦官を追い詰めていた。
「く、来るな銀月! ちょっと待て、お前、勝手に脱がそうとするんじゃねえ!」
「往生際が悪くてよ、白狼。大人しくなさいな。お前の気が進まぬのであれば、わたくし手ずから一枚ずつ脱がせて差し上げると言っているのに」
「猫なで声やめろ!」
「お前な、優しく言ってやっているうちに着替えろ。早くしないと侍医が来る。支度が間に合わんぞ」
この騒ぎを聞きつけた者は、おやと訝しく思うだろう。
銀月と呼ばれた姫君の口から飛び出す声は、変声期に差しかかった少年のそれだった。やや低くなりたてのかすれ声は、その背に美しく波打つ髪と花のように可憐な顔立ちとはなんとも不釣り合いである。
「うっせえ! 今までだったらお前がやってたんだろ? だったらそれでいいじゃねえか!」
対する白狼と呼ばれた宦官は随分と小柄であった。寝台に膝をかけてにじり寄る姫君を遠ざけようと、闇雲に振りまわす手足も男のものにしては細く、小さい。そして宦官の特性というものを差し引いたとしても、声が子どものように高かった。
「やかましい。定期健診の侍医だけならさして問題ではないが、何故かご機嫌伺いと称して皇后の女官がついてくるなんて先触れがあった。皇后の意見といって診察ついでに服を脱がされる可能性もある。女の体が必要だ」
「だったら黒花さんにやってもらえばいいだろう!」
「体格はともかく黒花じゃ年齢が違いすぎる。四の五の言わずにさっさと脱げ。そしてこれを着ろ」
上下ともに丈の短い絹の下着姿になった銀月がにじり寄り、白狼にぐいっと女物の薄い着物と裳を突き出す。白狼は着ている宦官服の胸元をぎゅっと握りしめ、断固拒否の構えを取った。
が、それも一瞬のこと。
銀月の背後に控えていた翠明、黒花、小葉という三人の侍女にあっという間に白狼は取り押さえられてしまった。
「うわああああ!」
「いい加減に観念なさい、白狼。この宮に来る際、なんでもやると申したではないですか。姫様ではないですが、往生際が悪いにもほどがあります。黒花、小葉、さっさと脱がしておしまい!」
「なんでもやるとは言ったけど、女の恰好は絶対しねえとも言ったじゃねえか!」
「何を言っているのです。普段は宦官の服を着ていて良いというのは姫様の温情ですよ」
「とにかくやだっつってんだろ!」
「人の耳元で叫ばない!」
初老に差しかかっているとはいえ、長年この宮で侍女頭をやっているという翠明は、驚くほど素早い動きで白狼の頭に拳骨を落とした。
瞬間、白狼の目の前に星がちらつく。やせぎすの女性の拳だというのに、とんでもない威力だ。
礼儀作法を重んじ、帝姫たる銀月に貴婦人としての教育を施した人とは思えないほどの力に、さしもの白狼も黙らざるを得ない。
白狼を一喝した翠明は、ほかの二人が作業を始めるのを見届けるとくるりと銀月を振り返った。
「姫様も、いったんそちらの衣はお預かりしますのでご退室なさってお召し替えを」
「しかし、白狼が逃げてしまわんように人手があるに越したことはなかろう」
「何をおっしゃっているのです。殿方が女人の着替えを見るなんてもってのほかですよ」
「私は構わんが。どうせ白狼だし」
「構わんが、ではございません! いくら白狼とて中身は女子。日頃から姫様とお呼びしておりますが、あなた様は殿方。しかも御歳十五になられたこの国の皇帝の御子でございます。弁えなさいませ!」
今度は銀月に翠明の雷が落ちた。
しまった、と銀月の表情が気まずいものに変わる。つい先ほどまで寝台で白狼と取っ組み合って服を脱がそうとしていたことを思い出したのだろう。
既に二人の侍女に半分がた脱がされている白狼は、黒花に羽交い絞めにされたまま小さな体を一層縮めた。年端もいかない童のように小柄とはいえ、実際の歳は十九を数える白狼の胸元には分厚くさらし布が巻かれている。その布にわずかな膨らみは押しつぶされ、細い谷間ができていた。
「周! 周は控えていますか? 早く姫様のお召し替えを!」
翠明が戸口に向かって声をかければ、外に控えている大柄な宦官が「はっ」と応じた。
武官らしく太刀を佩いたこちらは、宦官といえどさすがにうら若い娘が衣服を剥かれている室内には入らず、扉の前で銀月を促す。
ばつの悪い顔をしたままの銀月が周に連れられ出ていくと、黒花と小葉は白狼の着替えを加速させた。その手は無慈悲にも白狼が着ていた官服や袴を剥ぎ取り、丈の短い麻の下着から伸びる手足や胸元に白粉を叩いていく。
「や、やめろって! 絶対バレるから!」
「大丈夫大丈夫。姫様はいつも顔色が悪いのを隠すためって言って白粉の厚塗りをしてるし、化粧も濃いめにするから」
「あら白狼ったら顔は日焼けしてるけど、体はそうでもないわね。うなじはもう少し白粉塗っとく?」
「あらほんと。ああ、服がだぶだぶに余っていて手足が外に出ないせいかしら。それにしてもちょっとあんた、このさらし、強く巻きすぎよ。痕がついてるわ」
「うっせ! 勝手に取るな!」
「あ、ちょっと白狼! どさくさに紛れて人の帯飾り盗まないでよ! ほんとあんたって手癖が悪いわね」
「精神的な慰謝料だ! 女装はやだってば!」
ほとんど裸にひん剥かれながらも、白狼は化粧を拒もうと抵抗を試みた。
しかし三人の有能な侍女たちに囲まれては、一般的な女性より小柄な白狼では太刀打ちができない。荒事は不得手ではないが、かといって女性を殴るのは気が引けた。
高まっていくどうしようもない憤りは、得意のスリの技で侍女たちの宝飾品を抜くことで発散するしかないではないかと開き直る。
こんなところ来なければ良かった、と心の奥底から後悔の念が湧いてくるがもう遅い。もしもその後悔に従って逃げだしたら、重大な秘密を知っている自分が一生お尋ね者にされるのは間違いなかった。捕えられれば間違いなく斬首である。
それだけではない。あいつ――銀月が困る。状況次第ではあるが、悪くすると逃げ出した白狼のせいで銀月も殺される。それはなんとなく後味が悪いし、嫌だった。
目尻に紅を入れられている間、薄目を開けていた白狼は前かがみになっている黒花の帯紐の先についている玉をこっそり抜いた。本日、二個目の戦利品だ。
こんなところにいては換金するあてもないが、女装の憂さ晴らしと将来のちょっとした小遣い代わりだ。これほどの無茶を強いられているのだから、彼女たちの飾り物の一つくらい貰ったってばちは当たらない、はずである。
いつか絶対銭に替えてやる、と固く決意するが、それが一体いつになることか見当もつかないところがつらい。
しかしなんの因果か、性別を偽った皇子が後宮で息を潜めているなんて。この秘密は、宮にいる側近達と後宮の主人でありこの国の主人でもある皇帝しか知らないという。
そんな重大な秘密をうっかり知ってしまった自分が心底恨めしかった。
白狼が激しく後悔に苛まれている最中も、侍女たちの作業は続けられていた。
いつの間にか女物の上等で豪華な絹の着物を重ねられ、長い髪の鬘を頭に括り付けられている。鬘は紐や簪であちこち縛られ突き刺され固定されているため、土台に使われた地毛が尋常ではない力で引っ張られ、頭皮がずきずき、ぎりぎりと痛い。
痛みによって自然と白狼の眉は下がり、伏目がちになった。それを確認した翠明は、よろしいと言って白狼を姫君用の椅子に座らせたのだった。
そして今に至る。
まもなくやってきた侍医の診察を、銀月の格好をさせられた白狼は受けていた。
とはいえこの国において高貴極まりない身分である帝姫の身体においそれと触れることはできないため、ほぼ問診だ。それでも繰り返される同じような問いに辟易しながら、白狼はひたすら頭痛に耐えていた。
鬘を固定したときから続く痛みが徐々に重苦しい鈍痛に変化しているのだ。痛むところも頭から首、肩に変わっている。
「……はぁ」
目の前にいる白衣の年寄りはぼけてるんじゃないだろうか。いつ終わるともしれない繰り返しの問診に、白狼は顔のほとんどを隠した扇の裏で声にならないため息を吐く。すると手元の帳面に何事かを書き入れていた侍医の筆が止まった。
「い、いかがされました姫様。お疲れでしょうか? お加減がよろしくないようでしたら、薬湯を煎じて出直してまいりましょうか」
心配そうな申し出に、白狼は扇の陰から部屋の入口に控えている銀月を見た。
白狼が着ていた宦官の服を着て頭を垂れているが、話は聞こえていたのだろう。こちらに目配せをして、首を小さく横に振っている。
まあそうだよな、と白狼が断るために口を開こうとすると、それを遮るように翠明が「不要です」と侍医に告げた。まるで白狼が直答しそうになったことを察していたかのような素早さだった。ついでに後ろに立つ小葉につんと背中をつつかれ、白狼はあぶないあぶないと肩を竦めた。
いかに私的な宮の中で侍医相手とはいえ、高貴な姫君が男を相手に直接口を利くことなどありえないのである。
それからしばらくの後、ようやく問診を終えると、侍医は頭を下げて退室していった。薬を後程取りに来るようにということなので、おそらく着替えた白狼があとでお使いに行くことになるのだろう。全くひと使いが荒い。
侍医が退室すると、黒花と小葉に立て続けに小突かれた。ため息をつきすぎ、姿勢が悪い、気品が足りない、うっかり口を利きそうになるな、などなど。無理やり身代わりに仕立て上げたくせにひどい言いようである。
しかも結局、皇后の女官なんて来なかった。意に沿わない女装をし、痛みに耐えた自分を褒めてくれる者はいないのか。
侍女たちのぞんざいな扱いにふくれていると、周と戻ってきた銀月がするすると白狼に近づいてきた。
こいつだけは褒めてくれるか。
期待する白狼に、銀月はそっけなく言い放った。
「お前、扇を持つ手を袖から出しすぎだ。私はもっと手指を隠して、上品にそれを支えるのだ、この粗忽者め」
「なっ! お前、無事乗り切った、よくやったくらい言えねえのかよ!」
「ギリギリだ。バレたら私もお前も、宮のみんなも、その一族全員の首が飛ぶぞ。もっと精進しろ」
しれっと物騒なことを言った銀月は着替えのために踵を返す。その後姿に白狼はべえっと舌を出した。しかしちょっとした動きで簪がずれ、引っ張られた地毛の部分に鋭い痛みが走る。ぐうっと白狼は奥歯を噛んだ。これだから女装なんて慣れないことをするもんじゃない。
――あのとき、なんでもやるなんて言わなきゃよかった。
男として生きてきた自分には到底納得しきれない状況ではある。しかし実際のところ銀月達の言い分も分かるし、やらなきゃならない事情も理解できる。
そう頭では分かっていても、心の反発は抑えられない。
なんだってこんなことに、と泣きたい気持ちになった白狼は、泣く代わりに大きなため息を吐いたのだった。
第二章 河西の白狼
出会いは唐突だった。
そして出会ったその夜のうちに、二人はお互いの秘め事を共有した。
寝台の上で胸倉を掴みあった二人の手が止まったのはほぼ同時。
離宮とはいえそこらの食堂より広い姫君の寝室。寝台に添えられたたった一つしかない燭台のわずかな灯りの中、はだけた夜着からのぞく胸元をお互いが凝視する。
片や白くなだらかな、うっすらと筋肉が乗った胸。
片や硬い麻の布で巻かれ、わずかな膨らみを押しつぶした胸。
胸元を凝視していた二人の視線が、ゆっくりと交差する。
そして、二人の口が同時に開いた――
★
「おい坊主、今日の芋餡は会心の出来だぜ? 美味えだろ?」
「俺ぁもうちょっと甘くねえほうが好みだな。ちょっと糖蜜入れすぎじゃねえの?」
「小僧が生意気言うんじゃねえよ。帰って母ちゃんの乳でも吸ってやがれ!」
「なんだよ、不味いとは言ってねえだろ」
河西に来た時の馴染みにしている甘味屋の店主にしっしと手で追い払われながら、白狼は行商が集う朝市で芋団子を齧るふりをして行き交う客を物色していた。
大陸の北から南西へ流れる濃河は、海の近くから内陸部を繋ぐ物流の要所であった。その濃河の西側を流れる支流沿いにある河西は、海の物も山の物も扱う行商がよく立ち寄る街だ。
毎朝開かれる朝市には活気があふれ、近隣に住む民や商人が入れ替わり立ち代わり訪れる。
その隅に店を構える甘味屋にもそれなりに人気があるらしい。白狼以外にも若い母親風の女やそれについてくる子どもが、団子をひと串、せんべいをひと袋、などと買っていく。
「そういやおっさん、今朝は娘を見ねえがどうした? 留守番か?」
客が途切れた隙に世間話の一環で白狼が店主に問えば、陽気な笑い声とともに嫁に行ったと聞かされた。
「ついこないだ、いいとこの坊ちゃんが見初めてくれてなぁ」
「いいとこの坊ちゃんのとこって、そりゃ嫁入り道具と持参金の支度がかかっただろ?」
「そこそこな。いっときは痛え出費だが、あの大店と縁続きになりゃ、うちの店も金が借りやすくなるってもんさ。うちの娘狙ってやがったのか? 小僧、十年早えぞ?」
「抜かせ、あばたヅラの女にゃ興味ねえよ!」
「んだとこのガキ! 買わねえならとっととどっか行っちまえ!」
店主が拳を振り上げた瞬間、それをかいくぐって白狼は店先から離れた。
場末の甘味屋だが、その娘がいいとこの坊ちゃんに見初められたとは景気がいい。景気がいい話ではあるが、胸糞悪い。
娘を嫁に出した見返りが楽しみだという内心が明け透けに見えすぎて、白狼は店主を振り返って舌打ちをした。
小柄なせいで坊主や小僧などと呼ばれることが多いが、既に白狼は数えで十九だった。どんぐりのような大きな目をした童顔も、ひとまわり大きな着物のだぶついた袖も、周りに対して年齢を低く見せるのに一役買っている。ただし、もちろん白狼はそんな見た目通りの「子ども」ではない。
鋭い視線であたりを窺う白狼は、帝都などにいれば警邏に声くらいはかけられたかもしれない。その程度には「柄が悪い」のである。
しかしここ、河西は帝都からも離れておりのんびりとした田舎町の風情を残したところだ。白狼の柄の悪さを気にする兵もほとんど配備されていないのは、白狼の生業にとって幸運だった。
「おっと……」
口内に広がる芋餡の甘さに閉口しつつ、人波を避ける。やけに朝市の客が多いなと辺りを見渡せば、街のはずれに建つ大きな赤い瓦屋根の屋敷が目に入った。
――そういやこないだからお姫様が来てるって噂だっけ。
行商達が話していた噂話を思い出して、白狼はまた団子を齧った。
この河西の街には何代か前の皇帝が建てた離宮がある。夏を前に皇帝の娘がその離宮へ避暑に来ているらしい。体の弱いお姫様で毎年夏の暑さで体調を崩すらしく、今年は初夏の足音も聞こえぬうちに療養のため移動してきたという。
確かにこの辺は帝都に比べれば北にあるので夏でも涼しいが、その反面暖かくなるのも遅く、秋になると水辺の街ゆえにすぐ冷え込む。しかも標高の関係か夏でも朝晩の気温差がかなりある。
夏前から秋口まで滞在するとして、ひと月半、あるいはふた月ほどで帝都と河西を往復するとなると、病弱な姫君にはかえって酷ではないだろうか。
まあ、そんなことは白狼の知ったことではないが。
お姫様の一団が来た時は、それはそれは華やかな行列だったと聞いたが、生憎その時白狼は港に近いもうちょっと大きな街へ出稼ぎに行っていたので見ていなかった。
大きな街は人出が多く、街を一巡するだけでかなりの稼ぎになった。芋団子の数串を気兼ねなく買えるくらいに今の白狼の財布は重い。自分ひとりであればしばらく食うには困らない十分な稼ぎだ。
そんな額をどうやって稼いだかといえば答えは簡単。
大きな声では言えないが、白狼の生業は人様の財布をちょいと「拝借」すること――つまりスリ稼業だ。街が大きければそれだけ金を持っている人間も増え、白狼の稼ぎも増えるという話だ。
ちなみに今白狼が着ている故服はその時の稼ぎを使い、港町の市場で買ったものだった。一般的な庶民に偽装することができ、街角に佇んでいても目立ちもしなければ胡散臭がられもしない。
いい買い物をした、と白狼は大満足していた。
さて、お姫様効果かどうかはともかく、のんびりしている河西の街であっても人通りが増えれば増えた分だけ店は繁盛する。市に店を広げる行商達も各々商売に勤しみ、客引きの声が大きく響いていた。
客引きに応じて売り物を手に取る者、目的の店までわき目もふらず歩く者、冷やかしなのか店ごとに足を止めて覗き込む者など、客側も様々だ。いずれにせよ賑わっている市にわざわざ足を運ぶくらいだ。どの客も、行商も、懐は大層温いに違いない。
ということは、と自然に白狼の頬が緩んだ。
今日は白狼にとっても稼ぎ時であるらしい。
であれば、早めに「商売相手」の目星をつけてさっさと仕事に取り掛かろう。
白狼は残りの団子を手早く口に放り込み、冷やかし客のふりをして人混みに紛れ込んだ。
薬草売り、肉売り、野菜売り、布売りなど行商の露店が隙間なく立ち並ぶ大通りは、文字通り人でごった返していた。行商人は仕入れと売却が済めばまた別の街へと移動していくものだが、先月もいた商人がまだ店を畳んでいない。ざっと見ただけでもそんなのが何人かいるようだ。
お姫様効果ってやつかね、と白狼は露店を覗きながら油断なく辺りを観察し続けた。下手な商売相手を掴めば稼ぎは少ないし、かと言ってあまりにも上等な商売相手となれば、警戒も上等で捕まる可能性も跳ね上がる。程良く銭を持っていて、ちょっとトロくさそうで、と客を吟味する。
なるべく人に顔を晒さないように立ち回りながら、念入りに商売相手を探していた白狼の視線がぴたりと止まった。
その視線の先にいたのは、ややみすぼらしい身なりをした二人組の中年男だった。
継ぎをあてられた着物を着ているものの、当人たちの血色は悪くなく腹などはむしろ出っ張っている。いや、でっぷりとだらしなく突き出しているといったほうがいいか。髪に巻かれた布も、薄汚れているように見えるが生地自体は上物のようだ。
市場の活気に誘われて出てきたどこぞの有閑お貴族様やその従者あたりだろう。庶民を装ってはいるが、周囲の人間と比べたら二人の出立ちは浮いて見える。しかし本人たちはお忍びで街の風景に馴染んでいるつもりらしく、見たかぎり、護衛がついている様子もない。
いい商売相手を見つけた、と白狼は舌なめずりをしながら二人をさらに観察した。
二人組は食材を買おうとしているのか、肉売りと野菜売りの店の前で額を寄せ合って何事か相談しながら店主にあれこれ言いつけている。店側は揉み手でそれに応じ、いくつかの野菜の束と干し肉、締めた鶏などを布にくるみ始めた。品物を受け取ると、二人組の一人がそれを持ち、もう一人が銭を払う。
なるほど財布係はそっちか、とアタリをつけた白狼は二人組の背後にそっと近づいた。
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
一夜の過ちで懐妊したら、幼なじみの冷酷皇帝に溺愛されました
由香
恋愛
没落貴族の娘・柳月鈴は、宮廷で医官見習いとして働いていた。
ある夜、皇帝即位の宴で酒に酔い、幼なじみだった皇帝・李景珩と再会する。
遠い存在になったはずの彼。
けれど、その夜をきっかけに月鈴の運命は大きく動き出す。
冷酷と恐れられる皇帝が、なぜか彼女だけには甘すぎて――。
『お前の針仕事など誰でもできる』——なら社交界のドレスの裏地を、めくってごらんなさい
歩人
ファンタジー
「地味な針仕事しかできない令嬢は要らない」——公爵家の嫡男にそう言い渡された伯爵令嬢ティナは、
裁縫道具だけを持って屋敷を出た。その翌週、社交界が凍りつく。王妃の夜会服も、公爵令嬢の舞踏会
ドレスも、第一王女の外交用ローブも——仕立てた職人が消えたのだ。しかもティナが十年かけて縫った
全てのドレスの裏地には、二重縫いで隠された署名が残されていて——。
辺境の小さな仕立て屋で穏やかに暮らすティナの元に、王都から使者がやってくる。
皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜
百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。
「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」
ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!?
ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……?
サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います!
※他サイト様にも掲載
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで
狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。
一度目は信じた。
二度目は耐えた。
三度目は――すべてを失った。
そして私は、屋上から身を投げた。
……はずだった。
目を覚ますと、そこは過去。
すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。
――四度目の人生。
これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、
同じように裏切られ、すべてを失ってきた。
だから今度は、もう決めている。
「もう、陸翔はいらない」
愛していた。
けれど、もう疲れた。
今度こそ――
自分を守るために、家族を守るために、
私は、自分から手を放す。
これは、三度裏切られた女が、
四度目の人生で「選び直す」物語。