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1巻
1-3
人の数が一気に増える大通りに入り、いつものようにすれ違いざまによろけたふりをして壮年の男の懐から財布を抜いたところまでは良かった。ただその瞬間、後ろを歩いていた少年に財布を握った手を捻り上げられてしまったのだ。
「何をしている」
「……ちっ!」
捻り上げられた手首を背に回される直前、白狼は素早く身を翻して腕を振り払った。その拍子に握った財布を落としてしまったけれど、もうこうなったら仕方がない。衆目が集まりきる前に後ろを振り返ることもせず、白狼は即座に人の波に紛れ込んだ。
走って逃げる途中で何人かぶつかってしまった相手もいたが、さすがに今は財布を抜いている余裕はない。息継ぎもままならぬまま大通りを走り抜け、細い裏路地を数本抜ける。
足の速さには自信があったし、あんな大柄な男を撒くことなど容易いことだと「油断」した。見た目など何も当てにならないということを、白狼自身がすっかり忘れていたのである。
ぐるりと路地裏を回り切った白狼は、街外れの空き家の塀に隠れながら膝に手を付いた。土地勘があって助かったと細い息を吐く。
しかし、安心したのは間違いだったとすぐに気づいた。頭上に大きな影が被さったと思った途端に、白狼の体は宙に吊り上げられてしまったのだ。
ぐつっと喉に襟が食い込み、自分が襟首を掴まれ持ち上げられていると知る。無我夢中で手足をばたつかせたが、それらは全て空を切った。
「大人しくしろ。暴れればそれだけ苦しくなるぞ」
芯が入った襟に気道を潰され、息が詰まり朦朧とし始めた白狼の耳に都言葉が響く。凛とした少年の声だった。ちくしょう、と声にならない声で呟いた白狼は、手足から力を抜きだらりと吊られるままになる。
経験上、こういったときは抵抗せずにいたほうが痛い目を見ずに済むからだ。
すると不意に首の締まりが解けて呼吸が楽になった。と思った瞬間、白狼の体は地面に落下した。
したたかに腰と尻を打ち、白狼は悶絶しながらその場に蹲る。あまりの痛さにじわりと目の周りが熱くなったが、相手はそんなことなどお構いなしに白狼の髪を掴んで顔を上げさせた。
「おい小僧。貴様、この財布はどうした」
「っつ……」
「答えよ」
「ってえ、よ……財布って、なんのこと……」
「この財布だ、貴様が持つにはいかにも不相応な代物だぞ」
てめえの財布はスリ損なったよ、と憎まれ口の一つでも叩いてやろうかと思って目を開ければ、突き出されていたのは昨日どこかの男から抜き取った色鮮やかな財布だった。
いつの間に落としたのだろう。暴れていた最中か、ツイてない。白狼は頭皮の痛みに顔を顰めながら自嘲する。
そこへ少年の声が再び割り込んだ。
「周、そう強く掴んでいては思うように話せまい。まだ子どもだ。手加減してやれ」
「しかし」
「よい。おい子ども。お前はどうしてこの財布を持っていた?」
やはり少年は大男の主人であるらしい。片膝をついて白狼の顔を覗き込みながら、昨日の財布を突きつけてくる。
しかしどうやら少年は自分のことを棚に上げ、白狼を随分と幼いと思っているらしかった。
普段なら相手の思い込みを利用するのだが、今日は何故か苛々する。答える気も失せて黙っていると、眼前に少年の顔が迫った。
つるりとした白い肌やうっすらと桃色に染まった唇がよく見える。左目の下にぽつんと置かれた小さな涙黒子が目元の透明感を引き立てているようだった。シミ一つない絹のような艶のある肌に、白狼のなかでざわりとした黒い感情がせり上がる。
「……昨日、拾ったんだよ」
けっ、と向かい合う白い肌に向かって唾を吐き、無駄とは思いつつ言ってみる。予想通り嘘を吐くなと一蹴すると、少年は手に持った財布を開き、その中を検め始めた。
「この財布に使われている生地と糸は遥か遠くにある東国からの献上品だ。おいそれとこのような鄙びた地方の者が拾うことなどあるはずがないものだぞ」
「知らねえよ、拾ったんだ」
「正直に言え。さもなくば……」
焦れた大男が凄んだ。視界の端にちらっと金属の気配が掠める。太刀だ。刃物で脅されたらさすがの白狼も観念するしかなかった。
ちっと舌打ちをし、白狼は思い切って顔を上げた。もはや開き直って隙を見計らうしか逃げる手はない。
「昨日、ちょっと拝借したんだよ。朝市に来てた金持ち風のおっさんから」
「拝借?」
わざとらしく首を傾げた少年を白狼は睨みつけた。
「抜き取ったってことだよ、分かってんだろ」
「なるほど、盗人か。で、中身はどうした。銅銭しかないが」
「ほとんど手を付けてねえよ。もともとその銅銭十五枚しか入ってなかったんだ。金持ち風だからと思ったのに騙されたぜ」
「本当に銅銭しか入ってなかったのか?」
「あ?」
問いかけの意図を掴みかねた白狼の目の前に、少年が薄紙の包みをつまんで見せた。ゆっくりと白い指先が薄い紙をめくると、そこに入っていたのはあの棘のついた草の実である。
ただの香辛料、五個で銅銭十枚程度という特段高価なものではないはず。そう思って白狼が見上げていた少年の目は、草の実を見た途端にすうっと細められた。
「これは……八角、いやシキミ……?」
呟くような少年の声に、大男がぎょっとしたように身じろぎをした。二人は一瞬目を見合わせ、そして少年の手の上にある草の実に視線を落とす。
「お待ちください、そんなはずは」
「待て。普通に考えれば可能性は低い。しかし逆にこれを……」
眉を顰めていた少年はすぐさま草の実から白狼へと顔を向けた。その目に宿っていたのは殺気だ。それまでとは異なる強い迫力に白狼は射竦められる。つい先程、子どもだからと大男を宥めていた時とは様子が異なっていた。
殺される、と白狼の背に冷たいものが走る。
「この財布に銅銭しか入っていなかったということは、中に入っていたこれはお前の持ち物か。街で売り歩いてでもいたのか?」
底冷えするような少年の声に、白狼は激しく首をふった。
「ち、違う! 最初からその財布に入ってたんだ!」
「お前、先ほどこの財布には銅銭十五枚しか入っていなかったといったではないか」
「本当だよ! いや、草の実だから銭に数えてなかっただけで!」
「それはまことか? 本当にこの財布に最初から入っていたものか?」
「本当だってば! ご、塵かと思って捨てようとしたんだけど、八角とかいう香辛料で生薬だって昨日聞いて! で、売り払うかどうしようかって考えてたんだ! 中に入ってんの忘れてただけだって!」
じいっと白狼を見つめる少年の目は深い沼のように黒く、すべてを見透かされるような気さえした。
普段であれば必死な弁明は恰好が悪くて大嫌いだったが、命の危険を感じた今、そんなことは言っていられない。思いつくまま言い訳をした白狼に、少年は大きくため息を吐いて分かったと答えた。
「まあ、もの知らずな子どもの言うことだ。信じよう。ただな、これは生薬の八角ではない。毒の実だ」
「……え?」
「八角によく似ている形をしているが、東方の島でよく採れる実でシキミという」
「し、きみ……?」
「種や皮を食したり、煎じ汁を飲んだりすれば一刻もしないうちに吐いたり、失神したりするうえ、量を摂れば胸が詰まって息が止まる。以前、八角と間違って使われ大勢死に、国内での取り扱いは禁止されている品だ。売買に関わっていれば即逮捕となる」
大真面目な顔でそう説明され、白狼は息を飲んだ。
「俺、昨日定食屋に売っちまった……」
なんだと、と白狼を取り囲んだ二人は目を剥いた。その瞬間、少年から発せられていた殺気が霧散する。しかし白狼にとってはそれどころではない事態だ。心臓が早鐘のように激しく打ち鳴らされた。
「どういうことだ?」
「あ……いや、そんなこと知らなくて……八角だから買い取るっていうから、昨日の昼に売っちまって……」
少年に詰め寄られてしどろもどろになる白狼の脳裏に、昨夜の若店主の鬼のような形相が浮かんだ。
昨夜、若店主は白狼を見つけて言いかけた。それはあいつの持ってた八角を使ったんだ、という言葉だったのだろう。自分の料理に自信があった若店主が、客が倒れた原因を考えたとき思いつくのは「いつもと違うものを使った」ことに違いない。だからあんなに恐ろしい形相をしていたのだ。
手を震わせる白狼を見てから、少年はちらりと大男に視線をやった。
「客が大勢倒れて騒ぎになっていたと聞いたが、それはこいつのせいか、なるほど。――それは困ったな、周。ああ、困った事件だ」
「は、はい。ええっと、聞けば死者も出たとか、出なかったとか……。いやぁ、うむ、これは大事件ですな」
「となると、こやつは毒を売って人を殺した罪人となるな」
「そうなりますな。警吏か役人に突き出しますか」
少年と大男の二人は合点がいった風に頷きあう。
「ま、待て、そんなの知らなかったんだ!」
慌てて逃げようとした白狼を、大男の方が再び襟首をつかんで持ち上げた。放せっと手足を振り回すが体格差には勝てない。またもや白狼はぶらりと吊り上げられた形になった。
しかし再び白狼に助け舟を出したのは、少年だった。
「まあ待て、周。私に一つ考えがある」
片手で大男を制した少年は、吊り上げられた白狼の目をじっと見つめた。
「ここでお前を突き出しても、定食屋の事件の犯人として裁かれるだけだ。それではシキミを売りさばいている奴には繋がらない。しかしそれではこちらが困る。なにせ、そいつは離宮の姫に毒を盛ろうとした犯人かもしれないからだ」
「毒を、盛る……? 離宮の姫?」
混乱する白狼に少年は唇を歪めた。
「そうだ。お前、この河西の街にある離宮に皇帝の姫君が避暑に来ている話は知っているか?」
「え……、あ、ああ、噂には……」
そう答えたものの、いきなり何の話だろう。意図がつかめぬまま白狼は語尾を濁すが、それに構わず目の前の少年は続けた。
「我々は姫に随伴し帝都から来た者だ。昨晩、毒見の女官が一人死んだ。症状は嘔吐、失神、呼吸の停止。なんの毒か迷ったが、シキミが出回っているならその可能性が高い。このシキミの実が入っていた財布の持ち主は宮に出入りできる程度の身分と見た。犯人に近しい奴かもしれない」
「銀月様……そのような、いえ、そこまでお話しになっても宜しいのですか」
大男がわずかに狼狽えた。しかし少年はにやりと笑って白狼の顔に財布を突きつける。
「この財布とシキミを持っていた相手を知っているのはお前だけ。私と一緒に来ないか? 万が一そいつを見かけたら教えろ。罪に問われたくなくばな」
交換条件というわけだ。この状況、提案の形を取ってはいるものの白狼に選択の余地がないのは明らかである。断ったら警吏の詰所に突き出される。良くて拘留か苦役、悪ければ女官毒殺の容疑で死刑なんてことになるかもしれない。
だから早く街から出たかったのに、というのは既に後の祭りである。
「いう事を聞けば今回の件は水に流し、礼金も弾んでやる。ここから遠い街へ逃げたいというなら手配してやってもいい」
「……分かったよ、やるよ」
だめ押しのような少年の提案を白狼は受けざるを得なかった。定食屋の件が白狼のせいなのだとすれば、河西からはうんと遠いところに逃げたい。
了承したところで大男は吊り上げた白狼を下ろしたものの、警戒は解いていないのだろう。目の端には抜刀したままの剣先がちらちらと見える。もう逃げない、という意味で白狼は両手を上げてみせた。
少年は大男に軽く頷く。
「雇用の手続きは任せる。適当に理由をつけろ」
「はっ」
壮年の男は白狼に剣を突きつけながら少年に頭を下げた。この二人がどういった立場の人間か知らないが、お姫様についてきたということは高位の貴族なのだろうか。こいつらに目を付けた時点でどうやら自分は相当なへまをやったらしい。
「では行こう。お前の名は?」
「……白狼」
「御大層な名だな。まあいい、ついて来い、白狼」
偉そうに、と思うものの逆らう訳にはいかない。白狼は大きく肩を落としながらため息を吐いて頷くしかなかった。
★
生まれて初めて入った貴族の家はとんでもなく広かった。いや、並の貴族の家であればもっとこぢんまりとしているのかもしれない。半端な貴族より金を持っている大店の主人の家の方が広いことだってよくある話だ。
しかしここ――離宮は、それとは明らかに別格だった。
朝市が開催される河西の大通りの突き当たりに建つ離宮は、見上げるほど高い塀でぐるりと囲まれていた。誇張表現ではなく白狼の背丈の三倍はあったろう。青銅色をした正門には吉祥を表す紋様が刻まれ、警備の兵が五人がかりで開閉していた。
また、さすがこの国の皇帝の別荘というだけあって敷地の中も驚くほど広かった。まるで塀の中にもう一つの町があるようだ。いや、離宮にとっては河西の街が庭のようなものなのかもしれない。
門からまっすぐ伸びた道には、白い煉瓦が敷き詰められており、その両側にはいくつもの建物が並んでいる。屋根は全て赤い瓦葺き、一階建てのものもあるが、窓の様子から背の高い建物は三階建て以上あることは確実だ。
どうやらそれぞれの建物は官舎のようなものらしい。仕事があるのか黒っぽい着物の連中が何人も行き来しているし女官も大勢歩いている。
街と変わらないくらい人々がいれば塵も落ちていそうなものだがそれもない。
見れば竹箒を持った小間使いが何人もいて、そこかしこで道の掃き掃除をしていた。
大きな通りを抜けると中庭に出たが、そこだって「中庭」というには家が何軒も建てられるほど広大だ。大きな池があるかと思えばその周りに植えられた樹木は美しく刈り揃えられ、全体を専門の庭師がきちんと管理しているようだった。
花々の向こうには立派なしつらえの中門があり、そこだけを切り取ればまるで計算されて描かれた絵画のように美しい。
そして豪華さに圧倒されながら連行された白狼は、中門をくぐるとその奥にある宮の一室へ放り込まれた。部屋に入るなり有無を言わさず収まりの悪い黒い着物を被せられる。
「……なんでこんなもん着させられなきゃいけないんだよ」
白狼は頬を膨らませながら抗議した。被せられたこれは官服の一種なのだろう。たっぷりと布を使った袖に、引きずるほど長い裾。そしてその下にはこれまた引きずるほどに長い白袴だ。腰のところで帯をしているとはいえ、足捌きも悪く、重くて動きにくい。ついでに裾も踏んづける。
市井の民が気軽に着られる軽めの胡服や農夫たちが愛用する丈の短い衣類に慣れきっている白狼は、余った袖と裾をひっきりなしにたくし上げなければならなかった。
ここまで白狼を運んできた大男がむっつりと言う。
「口を控えよ。貴様は今から宦官だということにする」
「宦官? って、タマナシってことかよ。なんで?」
「ここは皇帝陛下の離宮で、しかも帝姫様が療養においでだ。貴様の仕事は離宮内でシキミを持っていた男が姫に近いところにいないかどうか確認すること。つまり姫君のお側で働くということだ」
「ああ、で、なんでタマナシってことにされんだよ」
「帝姫様は高貴なお方。しかもまだ御輿入れもされていない大事なお身体である。童とはいえ、そして小間使いであったとしても男をお側に置くことなど許されん」
「ってことは、おっさんもタマナシ?」
「当たり前だ」
真面目腐った顔で大男――周とかいったやつはふんぞり返った。
そういえば少年の方にもこいつのほうにも年齢については何も伝えていないので、周は未だに白狼を子どもだと思っているらしい。
これで十九の「男」だと告げたらどんな顔をするか、と考えてやめた。油断を誘える勘違いはさせたままにしておくに限る。
「なあ、おっさん。さっきまで一緒にいた偉そうな餓鬼は?」
そういえばこの宮殿に到着するなり少年は姿を消していた。白狼が長い袖をどうにかできないかと腕まくりしようとすると、ごつんと頭に拳骨が落ちる。
「餓鬼などと言うな! 銀月様は別件でお忙しいのだ」
「ってえな。知らねえから聞いてんだよ。様付きで呼ぶってことはあいつ偉いのか?」
頭をさすりながら周を見上げると、呆れたように眉を寄せられた。
「この国で相当に高位の職を賜っているお方とだけ言っておく。そろそろ黙ってそこへ座れ」
「座るったって、布が余って動きにくいんだよな、これ。役人はよくこんなの着てられるよな」
「一番小さな宦官服だ。四の五の言わずにいい加減黙って座れ。姫様にお目通りするのだから」
「いいよ、俺の仕事ってあの財布の持ち主の面通しだろ? 姫様とか関係ねえし」
「お前をお側に置くお許しを頂かねばならん。お優しい姫様はお前の境遇を聞いて、直接顔が見たいと仰せだ。貴様風情の下賤の者にもお慈悲をかけてくださるなど、二度とない栄誉と心得よ」
ええ、と白狼の眉が下がった。それとほとんど同時に帝姫がやってくるという先ぶれの声が届く。
どれどれと部屋の戸口へ目をやろうとした白狼だったが、先ぶれの声が聞こえた途端に周に頭を押さえつけられた。
ごつっと音がして額にじんわりと痛みが広がる。これは絶対こぶができるやつだ。覚えてろよと白狼は横目で周を睨みつけた。
意に沿わない平伏をさせられて、数呼吸分。花のような香が白狼の鼻腔がくすぐる。
微かな衣擦れの音がしたかと思うと、室内に人が増える気配がした。しかし誰が来たのかと頭を上げようとすると、押さえつけてくる周の手に力が込められる。
身動きしたくても力では抵抗ができない。仕方なく白狼は床に額を擦り付けたまま目だけを動かした。視界の端を薄桃色の布が掠め、鼻先にまとわりつく花の香が濃くなった。
「苦しゅうない。面を上げよ」
お姫様のものかと思ったら随分と年嵩な女の声がした。その瞬間、白狼の頭を押さえつけていた周の手が離される。
ややしわがれてはいるものの威圧感のある声におそるおそる顔を上げると、そこには横並びになった三人の女性の姿があった。
左右の女は女官だろう。華美にならない程度にきりりと結い上げた髪は動きやすさと品の良さ重視のようだ。着ているものも上等な絹に見えるが色味がずいぶんと地味である。向かって右にいる女は白狼の母だった女と同じくらいの年齢か。しわがれた声はこいつかとあたりを付ける。
そして二人の女官より一歩後ろにいる真ん中の女。これがお姫様か、と白狼は思わずため息を吐いた。
身分が高い女性らしく広い扇で顔の大半を隠してはいるが、目元にふんわりと紅がのせられているのが分かる。未婚だからか髪は半分以上下ろされているが、緩く波打つそこには花と大ぶりの真珠が散らされており、結い上げずとも十分華やかだった。
また細身の身体に添う着物は薄手の絹を何重にも重ね華やかさを増している。襟から伸びる長い首は透き通るほど白く、生まれてから一度も日の光に当てられたことがないと言われても納得してしまうだろう。
これが、この国で最も高貴な家に生まれた女――。見目の麗しさと顔を覆い尽くさんばかりに漂う芳香は、跪いた白狼から様々な思考を奪い取る。
しかしだ。そんな姫君の姿をぼうっと見とれていた白狼の耳を、ふんっとかすかに鼻を鳴らす音が引っ搔いた。この場にそぐわない音に、白狼の意識が姫君から引き戻される。しかし音の出どころを探るより前に、姫君がゆらりと上体を揺らした。
わずかに扇を傍らの女官側に傾け、ひそひそと何やら耳打ちをする。姫君の扇が離れると女官が小さく頷き、「大儀である」と一言告げた。
それだけだった。
え、と思う間もなく白狼の頭がまた床に押し付けられる。ごつっという音と共にまた額にじんわりとした痛みが広がった。同じ箇所をぶつけたと分かったのは、さっきより痛みがやや鋭いものだったから。
姫君の入室時より幾分短い時間で、白狼の頭を拘束していた周の手が離れた。
がばっと身を起こしあたりを見渡すが、残り香が漂うだけで既に女性たちの姿はない。隣でやれやれと肩を回す周に白狼は食って掛かった。
「今のなんだよ!」
「なんだとはなんだ。姫様にお目通りしてお言葉を賜ったではないか」
「お言葉って、婆が喋っただけじゃねえか!」
「姫様がお前風情の下賤の者に直接お声を聞かせて下さるわけがなかろう」
「っだよ、馬鹿にしやがって!」
「やかましい! 馬鹿にしたのではない。これが作法だ。高貴な方々は下々と直接お話をされることはない。しかしお姿を見せ侍女頭の翠明殿を介してお言葉を賜るだけでお前たち風情は過分なご慈悲をいただいたことになるのだぞ」
覚えておけ、と言った周は、なおも騒ぎ立てる白狼に拳骨を食らわせたのだった。
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