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150 案件No.008_商品輸送及び購入代行(個人取引含む)(その5)
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「たしかに……それはあまりにも、素人の意見だね」
重い腰を上げた敵軍のルークと共に、睦月の提案は即座に否定された。
「個人的には賛同したいところだけど……君の言ったこと、簡単にできると思うかい?」
「まあ……できないでしょうね」
取り残されていたポーンの一つを動かしつつ、睦月はそう返した。
「素人でも思い付くようなことを、『政治家』が誰もやろうとしてないんですよ。実は無能だったり、単にやる気がないだけとも考えられますが……ここまで長引いている以上、何らかの思惑が絡んでいるとみるべきでしょうね」
相手のクイーンの近くにルークが止まっている中、その隣にビショップが動かされてしまう。そこから攻め込まれる可能性を考え、残されたナイトをキングの前に動かす睦月。
しかし戦局は……素人目に見ても、明らかに睦月の方が不利だった。
「とはいえ……引っ掛かっていることがあるのも、事実なんですよね」
「引っ掛かっていること……政治的な問題以外で?」
「政治的な問題以外で、です」
キングをずらし、数手後に来るかもしれない王手に備えた睦月は、机越しの男に告げる。
「そもそもの話…………拉致問題が未だに解決していないのは、何故ですか?」
どんな思惑が絡んでいるのかは分からないが……それでも、数十年もの歳月を経ても解決していないのはおかしい。睦月はずっと、そのことについて考えていた。
「いくら何でも、時間を掛け過ぎですよ。だから親父も、馬鹿な行動に出ているんですから……そのあたりの事情について、何か分かりますか?」
「…………」
相手は長考に入ったが、おそらくはチェスの局面について、ではないだろう。
どこから、そしてどこまで話していいのかを思案してから……ようやく男は、重い口を開いてきた。
「……『我々も、ずっと引っ掛かっていた問題だ』、とだけ言っておこう」
無暗に攻め込まず、あえてキングを逃がしながら、男は重々しく答えてくる。
「世襲制による三代目の指導者。恐怖政治と経済の破綻。おまけに、外交的に綱渡りな状態で、いつ崩壊してもおかしくない国営……にも関わらず、起きているのは精々が亡命くらいだ」
「……国民の中から、革命を起こすに足る扇動者が一人も生まれていない、ってことですか?」
「少なくとも……我々が把握する限りは、ね」
睦月のビショップが、相手のキングを狙おうとしたが、簡単に躱されてしまう。未だに攻めの陣形が崩れない中、次はどうするべきかと頭を悩ませながら、話の続きに耳を傾けた。
「別に、カリスマ性のある人間を求めているわけじゃないんだよ。ただ……今の政治体制に不信感を抱き、どんな手段だろうと行動に移した者の話が亡命だけと言うのは……あまりにも、向こうに都合が良過ぎる」
『人が、誰か何かを信仰するのは、その存在に縋っているからでも、その威光を恐れているからでもない……その生き様に憧れたからだ』
「国を好き放題しているだけの三代目に憧れる者が居ないのは、亡命者の数を見れば分かる。縋ろうにも、すでに国営が破綻の一途を辿っているのは、周知の事実だ。となると、残っているのは……」
「恐怖政治がうまく機能している絡繰りが……誰もが指導者に逆らえない何かがあると?」
「少なくとも……我々は、そう見ている」
睦月がポーンの一つを、三つ並んでいる駒に近付けた。それを合図に、男との乱戦が始まってしまう。
「けれども、それ自体可能なんですか? 側近が一人でも裏切れば、あっさり殺されると思ってたんですけど……」
「少なくとも、同調圧力や環境要因の類ではないだろうね。その程度で革命家が生まれないのは、それこそ歴史が証明している」
とうとう、相手のクイーンを取ることに成功した睦月は、生き残っている駒を総動員して、陣形を立て直し始めた。
「洗脳教育を上回る、もしくは決定付ける恐怖政治の根幹……それが何か分からない以上、誰も手出しができないだろうね」
「逆に言えば……」
カン、と強く叩きつけるようにナイトを置き、ゲーム終了の一手だと相手に知らしめる。
「それが分かれば……拉致問題の解決に、一歩近付く」
睦月は、確認作業を終えた男の部下に再度、現金の入ったアタッシュケースを開けさせた。
開錠した状態で閉じたままのケースの持ち手を掴むと、男に背を向けて歩き出す。
「それで……君は、拉致問題に関わる気はあるのかい?」
「今のところはないですよ。まあ……状況次第、ですかね」
その言葉を残して、睦月は係船所を後にした。
「たしかに……詳しくはなさそうだね」
睦月が去った後の係船所の中で、男はチェスボードの局面を一瞥してから、席を立った。
「しかし、引き分けですか……」
睦月が持ち込んだ荷物を検分していた者とは別の部下が、これまで行われていたチェスの結果を見て、微妙に嘲るような視線を向けてきている。
「……そういえば君、出世願望があったよね?」
「そりゃ、出世欲位はありますよ。それがどうかしましたか?」
「じゃあ……ちょっと、練習問題を出してあげよう」
男はチェスボートを指差し、嘲るような態度を取ってくる部下に告げた。
「今のゲーム……私にとっては、王手を指されたも同然なんだよ」
その言葉を聞き、部下は態度を一変させた。
「私がそう思った理由が分からないと、出世してもやっていけないよ? 答えを教えてもいいけど……どうする?」
その問い掛けに、返事はなかった。
何をもって王手だと思ったのかを探ろうと、チェスの局面や棋譜を思い浮かべてウンウン唸り出しているのを放置し、男は受け取った商品を検分していた方の部下と共に、係留されている高速艇の傍に移動して並び立った。
「日本では『馬鹿と言う奴が馬鹿』という、子供の誹謗中傷を諫める言葉があるらしいけど……私には、『視野狭窄だと吹聴する者程、視野が狭くなっている』と思うんだよね。君はどう思う?」
「それには同意しますよ……ところで、」
それぞれの眼は、高速艇の方を向いている。その状態のまま、部下は男に問い掛けてきた。
「……あなたのチェスの腕前って、どれ程なんですか?」
「個人的な友人に、アマチュア大会上位の常連がいてね。休日はよく、練習に付き合っているよ」
つまり……そのアマチュア大会上位の人間と同程度には、棋力があるということだ。
「そんなあなたに…………あの『運び屋』は、引き分けたんですか?」
信じられないのも、無理はないだろう。
本人も『詳しくない』と言っていた上に、定石を知っている様子がないのは、棋譜を振り返ればすぐに分かる。にも関わらず、彼は格上の相手に引き分けてみせた。
たとえ、敵軍の駒を自軍に加える将棋とは違い、千日手に成りやすくても……引き分けさせられたという事実だけで、十分驚愕に値した。
それがたとえ、暗黙の了解である御法度……『最初から最後まで勝利を目指さず、引き分け狙い』だったとしても。
「できれば、勝っておきたかったんだけどね……作ったままの借りがどんな形に化けるか、読めなくなってきたからさ」
「……その思惑も、読まれていたんですか?」
「それもあるだろうけど……あれは結局、単純な負けず嫌いだよ」
少なくとも、何手か打つ内に棋力が違い過ぎることには、すぐに気付いたはずだ。それでも彼は、最初から勝利を捨ててでも、敗北を選ぶことはなかった。
おまけであるチェスの勝利には興味を持たず……ただ愚直に、本命である依頼達成のみを見据えて。
「理性では本来の目的を見失わず、感情を納得させる為の手段を模索した……それが、あのチェスの結末だよ」
未だにチェスボードの前で唸っている部下を一瞥してから、男は独り言のように呟いた。
「厄介だよね……『目的次第では勝つ気のないくせに、勝負事には絶対に屈しない人間』、っていうのはさ」
世の中には、勝利よりも目的を優先させる人間が存在する。
周囲の意見に屈さず、己の為となるならば時に敗北し、時に引き分け……時には、勝負すら放棄する者がいる。
それが理解できない限り……チェスボードの前で悩んでいる彼が出世したとしても、成功が約束されることはないだろう。
同じ経験をした男だからこそ、それがよく分かってしまった。
「そういえば……あの『運び屋』の彼に、どんな借りがあるんですか?」
「……あまり、聞かないでくれないかな」
そろそろ答えを告げて、早く戻ろうと踵を返しながら、男は言葉を放った。
「何せ、彼が居なければ…………今頃出世どころか、あの世逝きだったかもしれない程の失敗をしてしまったんだからね」
「……ようやく帰ってきたか」
停車したスポーツカーに逸早く駆け付ける姫香に続いて、起き上がった英治は睦月の傍へと歩み寄ってきた。
「特に問題はなかったか?」
「退屈と睡魔と孤独に襲われていたが……どうにか生き残ったよ」
その痕跡として、係船所に向かう前に購入していたガムの残骸が、全てレジ袋の中に放り込まれていた。しかも、かなり辛口の銘柄だったはずである。
「退屈と睡魔はともかく、孤独って……俺が居ない間、お前以外の二人は何してたんだよ?」
「……向こうでずっと、銃とスマホ弄ってたよ」
首を動かし、係船所の中へ睦月が視線を向けると……カリーナは未だに、銃器を弄っている。
「……で、一人寂しく番をしてくれてたと?」
「他にやることもなくてな……ガムと一緒に、漫画でも買っときゃ良かった」
乗ってきたばかりの車の鍵を姫香に預けた睦月は、やれやれとばかりに肩を鳴らしつつ、英治を4Tトラックの搭乗口へと促した。
「後は荷物を届けて回るだけだから、助手席で寝てる間に終わるよ」
「そうかよ……」
作業と片付けを終わらせたカリーナをスポーツカーに放り込んでから、英治は4Tトラックの助手席に腰を降ろした。
「本当に……そうなってくれればいいけど」
運転席に乗り込む睦月の横で……回転式拳銃の回転式弾倉に再度銃弾を装填しながら、英治はそう呟いてきた。
4Tトラックと国産スポーツカーの二台はまっすぐに目的地へと向かわず、適当に人気のない回り道を選んで走行していく。
……不自然に追い駆けてくる、一般家庭用の乗用車の方を気にかけながら。
「心当たりは?」
「……さっき荷物を届けてきた、取引先の別部署かもな」
すでに、朝刊に載るような話題が、ラジオのニュースにも流れてきていた。どうやら戦争を起こした方の……暁連邦共和国が加勢した国の大統領に寄った発言を、大国の代表が口にしているらしい。
「大方、今流れているニュースのせいだろう。情報の真偽や当人の思惑はともかく……お偉いさんに余計な情報を吹き込んだ誰かを探していたら、俺にまで飛び火したってところだな」
「睦月……お前、本当に面倒なところに貸し作ってたんだな」
いつでも発砲できるよう、回転式拳銃の銃把を握ったまま、英治はサイドミラー越しに付かず離れずの尾行車を窺っている。
「……で、どうするんだ?」
「それを今、考えているところだよ……」
相手を殺したりするのは簡単だが、そうすれば疑いの目は必ず、睦月達の方へと向いてしまう。
ニュースの件とは完全に無関係なので、疑惑自体はすぐに晴れる。それこそ、別動隊の腕次第では数時間とかからないだろう。
だが……今は仕事中の為、完全に間が悪かった。
(あの係船所に痕跡は残していないから、探られても痛くはない。問題は……配達先の方だな)
これから商品を届けて回るとすれば、確実に配達先へ調査が入る。そうなれば……大なり小なり、今後の商売に支障が出てしまうだろう。
(貸しを使って、遠回しに追い払ったとしても……逆に疑いが濃くなるだけか。そうなると、一番確実なのは……)
「……自然に撒くしかないな」
「加速して振り切る気か?」
「そんなことしたら、余計に……いや、待てよ」
英治の発言から、睦月の脳裏にある考えが閃いた。
「良いこと思い付いた……英治、今すぐ銃を仕舞え。ケースの中にだ」
「いいけど……一体どうする気だ?」
言われた通りに、英治がまた銃弾を抜いた回転式拳銃をホルスターごとケースに仕舞うのを確認しながら、睦月はイヤホンマイク越しに、姫香にも同様の指示を出す。
「後はタイミング次第だが……まあ、いくつか当たればすぐだろ」
そう言い、睦月はハンドルを切った。後続のスポーツカーや尾行車も、後を追い駆けてきている。
しかし、その先を見て……朧げに結末を悟ったのか、英治は露骨に口を歪めてきた。
「睦月……お前、正気か?」
「正気だよ。まあ、見とけって」
英治にそう返した睦月は、カーナビ操作の要領でホルダーに固定したスマホの画面をスライド操作し、ある番号に電話を掛け始めた。
「よう、この間のレース振り。今大丈夫か? ちょっと聞きたいことがあってさ……」
重い腰を上げた敵軍のルークと共に、睦月の提案は即座に否定された。
「個人的には賛同したいところだけど……君の言ったこと、簡単にできると思うかい?」
「まあ……できないでしょうね」
取り残されていたポーンの一つを動かしつつ、睦月はそう返した。
「素人でも思い付くようなことを、『政治家』が誰もやろうとしてないんですよ。実は無能だったり、単にやる気がないだけとも考えられますが……ここまで長引いている以上、何らかの思惑が絡んでいるとみるべきでしょうね」
相手のクイーンの近くにルークが止まっている中、その隣にビショップが動かされてしまう。そこから攻め込まれる可能性を考え、残されたナイトをキングの前に動かす睦月。
しかし戦局は……素人目に見ても、明らかに睦月の方が不利だった。
「とはいえ……引っ掛かっていることがあるのも、事実なんですよね」
「引っ掛かっていること……政治的な問題以外で?」
「政治的な問題以外で、です」
キングをずらし、数手後に来るかもしれない王手に備えた睦月は、机越しの男に告げる。
「そもそもの話…………拉致問題が未だに解決していないのは、何故ですか?」
どんな思惑が絡んでいるのかは分からないが……それでも、数十年もの歳月を経ても解決していないのはおかしい。睦月はずっと、そのことについて考えていた。
「いくら何でも、時間を掛け過ぎですよ。だから親父も、馬鹿な行動に出ているんですから……そのあたりの事情について、何か分かりますか?」
「…………」
相手は長考に入ったが、おそらくはチェスの局面について、ではないだろう。
どこから、そしてどこまで話していいのかを思案してから……ようやく男は、重い口を開いてきた。
「……『我々も、ずっと引っ掛かっていた問題だ』、とだけ言っておこう」
無暗に攻め込まず、あえてキングを逃がしながら、男は重々しく答えてくる。
「世襲制による三代目の指導者。恐怖政治と経済の破綻。おまけに、外交的に綱渡りな状態で、いつ崩壊してもおかしくない国営……にも関わらず、起きているのは精々が亡命くらいだ」
「……国民の中から、革命を起こすに足る扇動者が一人も生まれていない、ってことですか?」
「少なくとも……我々が把握する限りは、ね」
睦月のビショップが、相手のキングを狙おうとしたが、簡単に躱されてしまう。未だに攻めの陣形が崩れない中、次はどうするべきかと頭を悩ませながら、話の続きに耳を傾けた。
「別に、カリスマ性のある人間を求めているわけじゃないんだよ。ただ……今の政治体制に不信感を抱き、どんな手段だろうと行動に移した者の話が亡命だけと言うのは……あまりにも、向こうに都合が良過ぎる」
『人が、誰か何かを信仰するのは、その存在に縋っているからでも、その威光を恐れているからでもない……その生き様に憧れたからだ』
「国を好き放題しているだけの三代目に憧れる者が居ないのは、亡命者の数を見れば分かる。縋ろうにも、すでに国営が破綻の一途を辿っているのは、周知の事実だ。となると、残っているのは……」
「恐怖政治がうまく機能している絡繰りが……誰もが指導者に逆らえない何かがあると?」
「少なくとも……我々は、そう見ている」
睦月がポーンの一つを、三つ並んでいる駒に近付けた。それを合図に、男との乱戦が始まってしまう。
「けれども、それ自体可能なんですか? 側近が一人でも裏切れば、あっさり殺されると思ってたんですけど……」
「少なくとも、同調圧力や環境要因の類ではないだろうね。その程度で革命家が生まれないのは、それこそ歴史が証明している」
とうとう、相手のクイーンを取ることに成功した睦月は、生き残っている駒を総動員して、陣形を立て直し始めた。
「洗脳教育を上回る、もしくは決定付ける恐怖政治の根幹……それが何か分からない以上、誰も手出しができないだろうね」
「逆に言えば……」
カン、と強く叩きつけるようにナイトを置き、ゲーム終了の一手だと相手に知らしめる。
「それが分かれば……拉致問題の解決に、一歩近付く」
睦月は、確認作業を終えた男の部下に再度、現金の入ったアタッシュケースを開けさせた。
開錠した状態で閉じたままのケースの持ち手を掴むと、男に背を向けて歩き出す。
「それで……君は、拉致問題に関わる気はあるのかい?」
「今のところはないですよ。まあ……状況次第、ですかね」
その言葉を残して、睦月は係船所を後にした。
「たしかに……詳しくはなさそうだね」
睦月が去った後の係船所の中で、男はチェスボードの局面を一瞥してから、席を立った。
「しかし、引き分けですか……」
睦月が持ち込んだ荷物を検分していた者とは別の部下が、これまで行われていたチェスの結果を見て、微妙に嘲るような視線を向けてきている。
「……そういえば君、出世願望があったよね?」
「そりゃ、出世欲位はありますよ。それがどうかしましたか?」
「じゃあ……ちょっと、練習問題を出してあげよう」
男はチェスボートを指差し、嘲るような態度を取ってくる部下に告げた。
「今のゲーム……私にとっては、王手を指されたも同然なんだよ」
その言葉を聞き、部下は態度を一変させた。
「私がそう思った理由が分からないと、出世してもやっていけないよ? 答えを教えてもいいけど……どうする?」
その問い掛けに、返事はなかった。
何をもって王手だと思ったのかを探ろうと、チェスの局面や棋譜を思い浮かべてウンウン唸り出しているのを放置し、男は受け取った商品を検分していた方の部下と共に、係留されている高速艇の傍に移動して並び立った。
「日本では『馬鹿と言う奴が馬鹿』という、子供の誹謗中傷を諫める言葉があるらしいけど……私には、『視野狭窄だと吹聴する者程、視野が狭くなっている』と思うんだよね。君はどう思う?」
「それには同意しますよ……ところで、」
それぞれの眼は、高速艇の方を向いている。その状態のまま、部下は男に問い掛けてきた。
「……あなたのチェスの腕前って、どれ程なんですか?」
「個人的な友人に、アマチュア大会上位の常連がいてね。休日はよく、練習に付き合っているよ」
つまり……そのアマチュア大会上位の人間と同程度には、棋力があるということだ。
「そんなあなたに…………あの『運び屋』は、引き分けたんですか?」
信じられないのも、無理はないだろう。
本人も『詳しくない』と言っていた上に、定石を知っている様子がないのは、棋譜を振り返ればすぐに分かる。にも関わらず、彼は格上の相手に引き分けてみせた。
たとえ、敵軍の駒を自軍に加える将棋とは違い、千日手に成りやすくても……引き分けさせられたという事実だけで、十分驚愕に値した。
それがたとえ、暗黙の了解である御法度……『最初から最後まで勝利を目指さず、引き分け狙い』だったとしても。
「できれば、勝っておきたかったんだけどね……作ったままの借りがどんな形に化けるか、読めなくなってきたからさ」
「……その思惑も、読まれていたんですか?」
「それもあるだろうけど……あれは結局、単純な負けず嫌いだよ」
少なくとも、何手か打つ内に棋力が違い過ぎることには、すぐに気付いたはずだ。それでも彼は、最初から勝利を捨ててでも、敗北を選ぶことはなかった。
おまけであるチェスの勝利には興味を持たず……ただ愚直に、本命である依頼達成のみを見据えて。
「理性では本来の目的を見失わず、感情を納得させる為の手段を模索した……それが、あのチェスの結末だよ」
未だにチェスボードの前で唸っている部下を一瞥してから、男は独り言のように呟いた。
「厄介だよね……『目的次第では勝つ気のないくせに、勝負事には絶対に屈しない人間』、っていうのはさ」
世の中には、勝利よりも目的を優先させる人間が存在する。
周囲の意見に屈さず、己の為となるならば時に敗北し、時に引き分け……時には、勝負すら放棄する者がいる。
それが理解できない限り……チェスボードの前で悩んでいる彼が出世したとしても、成功が約束されることはないだろう。
同じ経験をした男だからこそ、それがよく分かってしまった。
「そういえば……あの『運び屋』の彼に、どんな借りがあるんですか?」
「……あまり、聞かないでくれないかな」
そろそろ答えを告げて、早く戻ろうと踵を返しながら、男は言葉を放った。
「何せ、彼が居なければ…………今頃出世どころか、あの世逝きだったかもしれない程の失敗をしてしまったんだからね」
「……ようやく帰ってきたか」
停車したスポーツカーに逸早く駆け付ける姫香に続いて、起き上がった英治は睦月の傍へと歩み寄ってきた。
「特に問題はなかったか?」
「退屈と睡魔と孤独に襲われていたが……どうにか生き残ったよ」
その痕跡として、係船所に向かう前に購入していたガムの残骸が、全てレジ袋の中に放り込まれていた。しかも、かなり辛口の銘柄だったはずである。
「退屈と睡魔はともかく、孤独って……俺が居ない間、お前以外の二人は何してたんだよ?」
「……向こうでずっと、銃とスマホ弄ってたよ」
首を動かし、係船所の中へ睦月が視線を向けると……カリーナは未だに、銃器を弄っている。
「……で、一人寂しく番をしてくれてたと?」
「他にやることもなくてな……ガムと一緒に、漫画でも買っときゃ良かった」
乗ってきたばかりの車の鍵を姫香に預けた睦月は、やれやれとばかりに肩を鳴らしつつ、英治を4Tトラックの搭乗口へと促した。
「後は荷物を届けて回るだけだから、助手席で寝てる間に終わるよ」
「そうかよ……」
作業と片付けを終わらせたカリーナをスポーツカーに放り込んでから、英治は4Tトラックの助手席に腰を降ろした。
「本当に……そうなってくれればいいけど」
運転席に乗り込む睦月の横で……回転式拳銃の回転式弾倉に再度銃弾を装填しながら、英治はそう呟いてきた。
4Tトラックと国産スポーツカーの二台はまっすぐに目的地へと向かわず、適当に人気のない回り道を選んで走行していく。
……不自然に追い駆けてくる、一般家庭用の乗用車の方を気にかけながら。
「心当たりは?」
「……さっき荷物を届けてきた、取引先の別部署かもな」
すでに、朝刊に載るような話題が、ラジオのニュースにも流れてきていた。どうやら戦争を起こした方の……暁連邦共和国が加勢した国の大統領に寄った発言を、大国の代表が口にしているらしい。
「大方、今流れているニュースのせいだろう。情報の真偽や当人の思惑はともかく……お偉いさんに余計な情報を吹き込んだ誰かを探していたら、俺にまで飛び火したってところだな」
「睦月……お前、本当に面倒なところに貸し作ってたんだな」
いつでも発砲できるよう、回転式拳銃の銃把を握ったまま、英治はサイドミラー越しに付かず離れずの尾行車を窺っている。
「……で、どうするんだ?」
「それを今、考えているところだよ……」
相手を殺したりするのは簡単だが、そうすれば疑いの目は必ず、睦月達の方へと向いてしまう。
ニュースの件とは完全に無関係なので、疑惑自体はすぐに晴れる。それこそ、別動隊の腕次第では数時間とかからないだろう。
だが……今は仕事中の為、完全に間が悪かった。
(あの係船所に痕跡は残していないから、探られても痛くはない。問題は……配達先の方だな)
これから商品を届けて回るとすれば、確実に配達先へ調査が入る。そうなれば……大なり小なり、今後の商売に支障が出てしまうだろう。
(貸しを使って、遠回しに追い払ったとしても……逆に疑いが濃くなるだけか。そうなると、一番確実なのは……)
「……自然に撒くしかないな」
「加速して振り切る気か?」
「そんなことしたら、余計に……いや、待てよ」
英治の発言から、睦月の脳裏にある考えが閃いた。
「良いこと思い付いた……英治、今すぐ銃を仕舞え。ケースの中にだ」
「いいけど……一体どうする気だ?」
言われた通りに、英治がまた銃弾を抜いた回転式拳銃をホルスターごとケースに仕舞うのを確認しながら、睦月はイヤホンマイク越しに、姫香にも同様の指示を出す。
「後はタイミング次第だが……まあ、いくつか当たればすぐだろ」
そう言い、睦月はハンドルを切った。後続のスポーツカーや尾行車も、後を追い駆けてきている。
しかし、その先を見て……朧げに結末を悟ったのか、英治は露骨に口を歪めてきた。
「睦月……お前、正気か?」
「正気だよ。まあ、見とけって」
英治にそう返した睦月は、カーナビ操作の要領でホルダーに固定したスマホの画面をスライド操作し、ある番号に電話を掛け始めた。
「よう、この間のレース振り。今大丈夫か? ちょっと聞きたいことがあってさ……」
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