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17 合鍵
しおりを挟む翌朝。
会社に出勤した私は、なかなか仕事に集中できなかった。
倫太郎のお父さんから電話があって以来、考えたくないのに、どうしても彼のことが頭をよぎる。
今さら、いったい何の用なのか。
「ねぇ、紬。なにかあったの?」
ぼんやりとパソコン画面を見つめていた私に気づいたのは、凛音だった。
事情を話すと、彼女はすぐに顔をしかめる。
「今さら、何を話すつもりなのよ? まさか、この前の彼女と別れたからやり直したいとか、そんな話じゃないでしょうね」
「……さすがに、それはないと思うけど」
「紬、気をつけてよ。ああいう不誠実な男は、何をしでかすかわからないの。常識が通じると思っちゃダメ」
真剣な口調で言い切る凛音に、私は小さくうなずいた。
彼女の目は、完全に倫太郎を警戒している。
「なにかあったら、すぐに連絡して。駆けつけるから」
「うん、ありがとう」
凛音は私の肩を軽く叩き、自分の席に戻っていった。
彼女の背中を見送りながら、私はふとあることを思い出す。
――倫太郎の家の合鍵。
「あっ……これを返すの、すっかり忘れてた」
鞄の中からキーケースを取り出し、苦笑する。
当初、倫太郎は同棲を希望していたけれど、私の両親が同棲に反対したため、私はひとりで部屋を借りることにした。
そのことが気に入らなかったのか、倫太郎が私の家を訪れたのは、上京して最初の一度きりだった。
だから、彼に私の家の合鍵を渡すことはなかった。
当時は――「何かあったときのために、持っていてくれたらいいのに」と思っていたのに。
いま振り返れば、あのとき渡さなかった自分を褒めたい気分だった。
「もしかして、倫太郎が私に伝えたかったのって……鍵を返してほしいってこと?」
新しい彼女に言われたのかもしれない。
“元カノに合鍵を返してもらえ”――なんて。
私が急に家に来るかもと、ふたりは警戒していたのかもしれない。
(だったら、一刻も早く返そう)
私は昼休みに郵便局へ行き、簡易書留で鍵を送った。
中には、短いメモも添えて。
『返します』――たったそれだけ。
「遅くなってごめんね」とは、書かなかった。
――これで、本当に終わり。
鍵を返したことで、心の中に区切りがついた気がした。
ようやく日常を取り戻した、金曜の夜。
仕事帰りに、近所のスーパーへ立ち寄った。
「今度こそ、私が料理を作りたい」
神崎さんと買い出しに行くと、いつも彼が支払いを済ませてしまう。
そのたびに申し訳なく感じていた私は、今度こそ先に準備をしておこうと思った。
私の手料理が“お返し”になるかはわからないけれど、感謝の気持ちは込められるはずだ。
(神崎さん、どんな顔をするかな……)
おつまみも少し贅沢なシリーズを選び、手提げ袋を抱えて家へ向かう。
マンションの灯りが見え始め、小さな公園の前を通りかかったとき――。
「つむぎ」
「ッ……!!!!」
背後から名前を呼ばれて、全身がびくりと震えた。
心臓が、嫌な音を立てる。
(な、なん、で……)
ゆっくりと振り返る。
暗がりの中に立っていたのは、倫太郎だった。
あれから一度も連絡を取っていなかったのに。
鍵を返したことへの返事もなかったのに――。
「なあ……なんで連絡してこないんだよ」
低く、苛立ちを含んだ声だった。
ふらつく足取りで、倫太郎がこちらへ歩み寄ってくる。
その表情は、懐かしさでも悲しみでもなく――不満に満ちていた。
私を責めるようなその目つきに、胸の奥がひやりと冷える。
仕事がうまくいっていないのか、それとも彼女と何かあったのか。
けれど、私が気にかける必要はない。
私はもう、倫太郎にとって“過去の人間”なのだから……。
「なんでって……私たちはもう、他人じゃない」
「っ、」
倫太郎の顔が一瞬、痛みを帯びた。
――辛かったのは、私の方なのに。
どうして彼が、被害者のような顔をするのだろう。
「そんなこと言うなよ……。あの日のこと、きちんと説明するから――」
「説明? ……今更?」
「っ、」
その言葉だけで、すべてを拒絶した。
けれど倫太郎は、私の気持ちなどお構いなしに言葉を続ける。
「彼女は、会社の取引先のご令嬢なんだ」
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