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35 うまくいかない 《倫太郎side》
しおりを挟む紬と連絡が取れなくなって、どれくらい経っただろう。
最初のうちは気にも留めなかった。
少し時間を置けば、また元通りになる――。
本気でそう思っていた。
紬は感情の起伏が穏やかで、滅多に怒らない。
けれど一度拗ねると、しばらく口を利かなくなる。
今回も、そんなものだと高を括っていた。
紬は浮気を疑っているのかもしれないが、他の女はただの遊び。
結婚するのは紬なんだから、少しくらい大目に見てくれてもいいはずだ。
……そう思っていたのに。
どれだけ待っても、紬からの連絡は来なかった。
メッセージを送っても既読がつかず、電話をかけても留守番電話に切り替わる。
流石におかしいと感じて、俺は紬の家へ向かった。
けれど、すぐに玄関前で立ち尽くすことになる。
――鍵を持っていなかった。
紬が上京したときに、「何かあったときのために、合鍵を持っててくれる?」と言われた。
だが、あのときの俺は、軽く笑って「そんなの必要ないだろ」と答えた。
自分が彼女の家に、わざわざ行くことなんてないと思っていたから――。
今になって、そのことを激しく後悔した。
仕方なく、俺はマンションの近くで待った。
仕事帰りの紬を捕まえて、ちゃんと話をすればいい。
紬の誤解を解いて、また元に戻るだけだ。
夜風が肌寒くなってきた頃、ようやく紬の姿を見つけた。
チャンスだと思った。
心の中で何度も言葉を繰り返す。
――落ち着け。焦るな。上手く話せば大丈夫だ。
「この前のことだけど、あれは仕事の取引先の娘さんなんだ」
そう言えば、きっと納得してくれる。
俺が嘘をついているなんて、紬にはわからないのだから……。
だが、あのとき。
――最悪のタイミングで、神崎さんが現れた。
ファミレスの席に座って紬と話していたところに、あいつが来た。
神崎さんは、会社の跡取り。
いつも冷静で、やたら人当たりがいい男だ。
部下からの人望も厚い。
その恵まれた容姿も相まって、一部、熱狂的なファンもいる。
よりによってその神崎さんに、俺の話を聞かれてしまった。
『取引先の社長に、食事の席を強要されたって聞こえたけど……。どこの会社の人のことかな?』
柔らかい笑みを浮かべながら、あいつの目だけがまったく笑っていなかった。
嫌な汗が背中を伝う。
咄嗟に立ち上がって、その場を逃げ出した。
紬の顔を振り返る余裕もなかった。
けれど――それでも、話はまだ終わっていない。
ちゃんと誤解を解けば、きっとやり直せる。
そう信じて、俺は再び紬の家の近くで待った。
しかし、いくら待っても帰ってこなかった。
その日は仕方なく帰り、翌日も、翌々日も訪ねた。
けれど、インターフォンを押しても、返事はない。
カーテンは閉じたまま、部屋の中は静まり返っている。
「出掛けてるのか?」
せっかく、わざわざ来てやったのに。
無視されているような気がして、苛立ちが募った。
しかも、家事要員の舞華が、ろくに家事ができないことが判明した。
部屋を丸く掃除するし、夕飯もスーパーの惣菜ばかりで、胃もたれがする。
最近、下腹も出てきた気がして、すべてがうまくいかなくなっていた。
(ああー……つむぎに会いてぇ……)
アイロンのかかっていない皺だらけのシャツを着て出勤する羽目になった、最悪な気分の朝。
エントランス前で、神崎さんが待っていた。
「この前のお茶代。払い忘れてたから、代わりに支払っておいたよ」
穏やかな声。
けれど、視線が冷たかった。
「す、すみませんっ!!」
それ以上何も言われなかったのに、背筋がひやりとする。
この男は、ただ笑っているだけで人を追い詰める。
俺は慌てて財布を取り出し、二人分のドリンク代を渡した。
それ以来、神崎さんを見るたびに、無意識に避けるようになった。
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