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36 新しいスタート 《倫太郎side》
しおりを挟む昼休み、喫煙室に呼び出された。
灰皿の前で、柿谷が缶コーヒーを片手に落ち着かない様子で立っていた。
何か言い出しにくいことでもあるのかと思った矢先――
「彼女に子どもができて、近々、籍を入れることになったんだ。だから、金が必要になって……」
両手を合わせて「悪い」と謝る柿谷を前にして、俺は動揺を悟られないように頷いた。
「お、おう。わかった、すぐに返すから」
「悪いな」
「……いや、おめでとう」
柿谷には「返済はいつでもいい」と言われていた。
だが、さすがに子どもができたとなれば、後回しにはできない。
急遽、返済のための金が必要になり、俺は別の同僚に借りた。
その同僚に「返せ」と言われると、さらに別の同僚に借り、また別の借金で穴を埋める。
――そうしているうちに、職場での空気が、いつの間にか変わっていた。
ランチに誘われなくなり、電子タバコを吸っているだけで白い目を向けられる。
金はきちんと返しているのに、なぜか疎まれている。
(……なんなんだよ。俺、ちゃんと返してるのに)
仕事でも小さなミスを繰り返し、注意されるたびに周囲の視線が冷たく感じる。
居場所がどんどんなくなっていくようだった。
こんなとき、いつも支えてくれたのは紬だった。
でも――もう彼女はいない。
現実は、もっと面倒くさい。
「今日は仕事で疲れて買い物に行けなかったから、どこか食べに行きたい」
最初こそ文句も言わずに家事をこなしていた舞華だが、最近は明らかに手を抜くようになっていた。
外食ばかりしたがり、しかも会計時は財布すら出さない。
最初にランチを奢ったからか、“男が払うのが当然”という顔をされるのが癪に障った。
極めつけは、ひと月後に出された請求書だった。
夕飯に使った食材のレシートをきっちり取ってあり、一円単位で折半を求めてきたのだ。
――さすがに、引くわ。
紬は、こんな細かいことを言う女じゃなかった。
彼女は俺の好みを覚えて、さりげなく料理を変えたり、文句ひとつ言わず洗濯してくれたのに。
舞華には、そんな気遣いがない。
それどころか、最近は「今どこにいるの?」「夕飯いらないなら、先に言ってよ」と、しつこく連絡してくるようになった。
煩わしさばかりが積もっていく。
「誰が高い金払って、紬よりまずい飯を食うんだよ」
――紬の劣化版のくせにっ。
俺は舞華を切ることにした。
だが、会社で顔を合わせるたびに話しかけられ、無視すれば総務の女子たちに泣きつかれて、悪者にされる。
(だから、社内の女には関わりたくなかったんだよ……)
表面上は機嫌を取ってやり過ごしながら、刺すような同僚の視線に耐える毎日。
紬のいない生活は、想像以上に息苦しかった。
そんな中で、俺はやらかした。
顧客情報を誤送信してしまい、それが思いのほか大ごとになったのだ。
「アイツのせいで会社の評判がガタ落ちだ」
「……いつかやると思ってた」
陰口が、職場中に飛び交う。
針の筵とは、このことだと思った。
そして神崎さんに呼び出され、俺はさらに信じられない話を聞かされた。
「今回の件。単なるミスではないんじゃないかという声が上がっていてね。顧客情報を流出させて、金を得ようとしていたんじゃないかという疑惑が出ている」
「っ……はあ!? 俺、そんなことしてないですよ!」
同僚たちの顔が脳裏に浮かぶ。
誰かが俺を陥れようとしている。
そうとしか思えなかった。
悔しさに拳を握りしめたとき――神崎さんは、静かに言った。
「僕も、その言葉を信じたい」
「……え?」
顔を上げると、彼は真っ直ぐに俺を見ていた。
責めるどころか、俺の言い分を信じようとしている。
(……なんでだよ。あんたは、俺がファミレスで紬に嘘をついてたのを、聞いてたはずなのに……)
誰よりも俺を疑ってもいいはずだ。
それでも神崎さんは、俺のために関係者に頭を下げ、誤送信の件を「単なるミス」として処理した。
ありもしない噂を消すように動いてくれたのだ。
だが、ミスしたことは間違いない。
――俺は、左遷された。
責任を取る形で、地方の支社への異動。
クビにはならなかったが、給料は大幅に減り、立場も地に落ちた。
出世も見込めない。
けれど、正直ホッとしていた。
どうせ、あの職場にいてもロクなことはなかった。
(……まあ、いいか。今の職場は居づらかったし。あの目線の中で仕事するより、よっぽどマシだ)
逃げるように去ったくせに、“新しいスタート”だと自分に言い聞かせる。
そうでもしなければ、負けを認めることになる気がした。
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