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第一章
10 蛇の本性
しおりを挟むロキ様を突き飛ばしてしまい、自己嫌悪で二日間、まったく眠れなかった。
そんな寝不足の金曜の午後。
グロリアーナとのお茶会を早めに切り上げた僕は、グロンダン侯爵家の当主の部屋に招かれていた。
案内された執務室は、想像していたよりもずっと整然としている。
無駄のない調度品と、一分の隙もない書類の山。
その奥で、薄暗い照明に照らされた男――マリシャス・グロンダンは、椅子にもたれ、微笑んでいた。
紫水晶のような艶のある髪が、肩口で波打つ。
その瞳もまた、紫だ。
けれど、美しいというよりは、底知れない。
まるで深淵を覗き込んでいるような、冷たい光を宿していた。
「よく来てくれたね、ベルナ」
表向きは、温厚で知的な侯爵として名を馳せているが、裏の顔は、この国でも指折りの“闇”だと噂されている人物だ。
白磁のような肌と、細い輪郭。
輪郭だけ見れば中性的な美貌だが、どこか歪んだ色気をまとっていた。
衣服は黒と濃紫を基調とした上質な貴族服で、銀の刺繍が絡み合うように浮かぶ。
まるで毒蛇の鱗模様のような文様だった。
その姿は、上品さと妖しさを同時に孕んでおり、見る者の理性をじわじわと侵食してくる。
――まさに、毒を孕んだ蛇。
不快なくらいに優美で、不自然なほどに魅力的。
その男の存在自体が、この屋敷に巣食う“異常さ”の象徴のように思えた。
「また絵画が高値で売れたんだって?」
ワイングラスを揺らしながら、マリシャス・グロンダンは満足げに笑った。
長い睫毛に縁どられたその双眸は、笑っていても決して笑っておらず、逆に無表情でもなぜか嘲るように見える。
けれど、二人きりの席で、マリシャスは終始上機嫌だった。
その視線の熱を受けながら、僕は深く頭を下げた。
「光栄です、閣下。ですが、僕はまだまだ未熟です。閣下のような見識ある方から学べることが多く――」
「はは。貴族の子息で、そんな謙虚なことを言う若者は滅多にいない」
マリシャスの笑みは、まるで獲物を転がす獣のようだ。
けれど僕は表情を崩さず、穏やかに笑って返した。
「実のところ、閣下の財務や労働管理に関する手腕に、強く関心がございます」
「ふむ?」
「特に、借財管理と労働力調整の実務について、学ばせていただけたらと思っております。もし可能であれば、視察など――」
「ほう。それは面白い」
侯爵の目が細められる。
口角が、明らかに満足げに上がった。
――僕は今、嘘をついている。
マリシャスのやり方を学びたいと思ったことはない。
でも今は、彼の懐に入らなくてはならない。
(ロキ様の弟が、どこにいるのか知るために……)
◇ ◇ ◇
翌日から、僕は邸内を頻繁に訪れ、マリシャスの「業務」を学ぶという名目で、各部署を見て回った。
「こちらは、債務処理班。借金の未払い者や奴隷への連絡業務を担っています」
「丁寧な説明をありがとうございます。こうした管理票なども、非常に参考になります」
笑顔で頷きつつも、僕の目は別のものを追っていた。
屋敷の裏手に延びる地下通路は、薄暗く、冷気が肌にまとわりつく。
どこか薬品のような匂いが漂っていて、鼻腔をじわりと刺激する。
そこを、白衣をまとった男たちが、無言で行き交っていた。
視線を交わすことすらなく、足音も不自然なほど整っている。
酷く冷えているはずなのに、背筋に汗がにじんだ。
この場所は、“何か”がおかしい。
それから、倉庫棟の外れにある作業場に案内された時のことだった。
「さっさと動け! 働かない奴は、飯抜きだ!」
怒声と、乾いた打音。
控え室に通される前、僕はほんの一瞬だけ、半開きの扉の奥を見てしまった。
老人のように細く縮こまった背が、容赦なく叩かれていた。
その周囲には、怯えたように目を伏せる奴隷たち。
皆、無言で息をひそめるように、ただ耐えてる。
目を見開き、言葉を飲み込んだ僕に、案内係の使用人が気づいたようだった。
「あれは躾中の者たちです。気にされませぬよう」
「ええ、もちろん」
笑みを浮かべたまま、僕は首を横に振った。
けれど、血が逆流するような怒りが、腹の底からこみ上げていた。
(“人間”を、なんだと思ってる……)
でも、今は牙を剥くわけにはいかない。
怒鳴りつけたくても、感情を押し殺さなければならない。
(……それでも。絶対に、見逃さない)
「ベルナ? 顔色が悪い。何かあったのかい?」
ちょうどそこへ、タイミングよくマリシャス・グロンダンが僕の様子を見にきた。
僕は咄嗟に、彼の腕にそっと縋るように寄りかかった。
「すっ、すみません、閣下。僕、血が苦手で……」
「――ああ、かまわないよ」
うっとりと告げる彼の手が、僕の頬に触れた。
その指先は、まるで壊れやすい磁器を扱うように丁寧だった。
けれど、ぞっとするほど執着めいていた。
「汚いところを見せてしまったね」
僕に向けられた謝罪の声は、やけに甘く、湿った響きを含んでいた。
その双眸は、獣のような光を宿している。
ごくり、と唾を呑む。
僕の怯えを読み取ったかのように、マリシャスの口元がゆっくりと綻ぶ。
――こいつ、やっぱり狂ってる。
僕が暴力や血が苦手だとわかっていて、あえてこの場所に導いたんだ。
僕の怯える姿が見たいという、単なる好奇心のために……。
「おい。ベルナが怯えているだろう」
「ハッ、申し訳ありません」
マリシャスの一言で、使用人は鞭を置いた。
今はなんとか奴隷たちを守れたけど、明日にはまた同じ日々が待っている。
この方法では、根本的な解決にはなっていない。
(いつか、ここにいる全員を、必ず助けるっ)
決意をあらたにする。
その間、マリシャスの視線は、僕の頬骨、喉元、指先、背筋を、まるで品定めをするように、品物の隅々まで目を這わせるように眺めていた。
「……閣下? どうかなさいましたか?」
「失礼、つい……。美しいものを見ると、どうしても目が離せなくてね。私は“芸術”が好きなんだ。特に、儚い若さと美しさを閉じ込めたような……ね」
そう口にするマリシャスからは、“所有欲”と“支配”の香りがした。
「グロリアーナの婚約者である君に、私が干渉することはないさ。……少なくとも、“今は”」
ぞくり、と背筋が凍った。
この男は、本気で言っている。
あらゆる倫理や常識など、とうに踏み越えたところに立っている。
貴族でなければ、とっくに捕まっていただろう。
そして彼の周囲にいた“美しい若者たち”は、今、どこで、なにをしているのか――。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございました。そろそろ失礼いたします」
「もう帰るのかい? ああ、残念だ。君と話すのは、実に心地いいのだが」
「また、折を見て。次回は、絵もお持ちいたします」
「楽しみにしているよ、可愛いベルナ」
マリシャスは、名残惜しそうに僕の頬から手を離した。
指先は異様に長く、細く、蛇の舌のように神経質に動く。
髪をかき上げる仕草ひとつですら、何かを誘っているようだった。
僕は微笑を保ったまま、部屋を後にした。
けれど、ドアが閉まると同時に、全身の筋肉がこわばるように緊張を吐き出す。
――この家は、やはり“安全ではない”。
彼はいつか、僕を襲うつもりだ。
それがグロリアーナに知られようと、家名を汚そうと、彼にとっては、そんなことは些末な問題にすぎない。
“美しいもの”を手に入れるためなら、倫理も理性も、平然と踏みにじるのだ。
(……早く、ロキ様の弟を探し出さなくては)
そして、グロンダン家に囚われた者たちを、必ず解放する。
僕は静かに、拳を握った。
この歪んだ権力の根を、この手で断ち切るために。
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