1 / 39
狐の巫女
第1話 稲荷を訪ねてきた人
しおりを挟む横浜の港から、汽笛が遠く響いてきた。
遥香は丘の上でふりかえり、風にはためく着物のすそを押さえる。
海の上で夏空の青に入道雲がくっきりと立ち、その下で蒸気船がいくつも停泊しているのが見えた。
「異国の船、なのかな……」
つぶやいてから遥香は我にかえり頭をふった。長い黒髪がゆれる。髪を結うこともできず無造作にまとめて垂らしているのは、銭がもったいないからだ。
遥香は異国どころか横浜の繁華街すらろくに知らなかった。
だって、さびれた稲荷神社をひっそり守る巫女にすぎないのだから。
「帰らなきゃ」
坂の下の町で買った荷物をかかえ直し、遥香は力なくほほえんだ。汗ばんだ背に風だけはやさしい。
今、近所の畑からは野菜をわけてもらうことすらできなくなっていた。村八分というものかもしれない。
遥香の家族は祖父一人。その祖父も遥香には厳しい顔をするばかりで最近はどこかへ出かけていることが多かった。
明治の世になり二十年あまり。
異国の物があふれる華やかな港町は、丘をおりればすぐ近い。なのに遥香は幼いころに行ったきりだ。横浜と帝都を結ぶ蒸気鉄道というものにも乗ってみたいけれど、そんなのは夢のまた夢だと思う。
遥香は丘に広がる畑のあいだをうつむきながら行く。土ぼこりが草履をつっかけた素足を汚した。
稲荷が近くなったころ、向こうを集落の若者らが歩いていくのが見えた。遥香はおびえて息を殺す。でも見つかってしまい、冷たいまなざしが飛んできた。
「ああら、狐憑きだわ。嫌ぁねえ、女狐が着物を着て歩いてるなんて」
さげすむように言ったのは、ここらの地主である中森家の娘だ。取り巻きの男たちもせせら笑う。
「やめなよ佳乃さん、たたられるぜ」
「まさか。あんな稲荷にそんな霊験なんてないわ」
あざけるように言われる理由は、遥香もよくわかっていた。だから仕方ない。顔を伏せてすれ違い逃げ出したら、後ろから砂を投げられた。
――遥香は、狐の娘だ。
母はとても綺麗なひとだった。いえ、人だと思っていた。遥香も、父も祖父も。
だけど、母の本性は狐だったのだ。
人の姿に化けた妖狐だと人々に知れて逃げ出したのが十年前。遥香は七歳だった。その時に父も、母を追って家を出てしまい帰ってこなかった。
狐の血を継ぐ、狐憑きの娘。親なし子。
遥香はそうさげすまれ、遠巻きにされながら暮らしてきたのだった。
「ただいま」
ガタガタと建てつけの悪い引き戸を開け、遥香は家の中に声をかけた。だが、しんとしている。祖父はいないようだ。
台所に荷物を置くと土間でたらいに水を汲んだ。板の間に腰をかけ、手拭いで足を洗う。粗末な着物のすそはそろそろ擦りきれそうだった。
「今日は、いないの?」
寂しくて、小声で言ってみた。薄暗い家のすみの、さらに濃い闇の中からクスクスと笑う気配があった。聞き覚えのある子どもの笑い声に遥香は頬をほころばせる。
「いるのね。かくれんぼなんて私、していられないのよ。明るいうちに繕い物をしておかなくちゃ」
「――ええ? つまんないの」
そう言ったのは男の子の声だ。遥香の友だちなのだが、まだ暗闇から出てきてくれないのは遊びたがっているからか。
「ぼくハルカのおしごと、まってる!」
「じゃあ早く終わるように頑張るから」
「ハルカ、がんばっちゃダメ! はりでゆび、プチッてするもん」
「……気をつけます」
しっかり者のこの子は、いわゆる妖怪だ。そんなものたちと通じることができるのは母から受け継いだ妖狐の力だろうか。
だけど妖怪の友だちなんて、人に知られたら気味悪がられてしまう。
それに怪しの者だとして友だちが祓われてしまったらどうすればいいの。寂しい暮らしの中、遥香のせめてもの支えなのに。だからこの子のことは祖父にさえ内緒。
早く針仕事を終わらせて遊んであげたい。奥に繕い物を取りに行こうとした遥香は、ふと表に気配を感じ振り向いた。すぐに引き戸がドンドンと鳴る。
「――誰かいるか!」
外から聞こえたのは、威圧的な男の声だった。
「え……」
遥香は小さく息をのんだ。
知らない人、だと思う。
すぐに別の声もした。
「――こら彰良、しゃべり方が怖いって。ごめん下さーい!」
たしなめるのは明るい声だが、こちらも男性。二人とも若そうだ。
遥香はうろたえた。他所の人が訪ねてくるなど、あまりないこと。遥香が応対していいのだろうか。
「どう、どうすれば」
おろおろしていたら、また戸が叩かれた。待たせてしまう心苦しさに遥香はつい、こたえた。
「は、はい! ただ今――」
あわてて草履をはき、戸に駆け寄る。ガタガタと開かない引き戸にあせってグッと力をこめたら、戸が外れた。
「きゃ!」
戸板ごと外に転げ――と思ったら、横からぐいと腕をつかまれた。
ぶら下げるように支えてくれた人を見上げると、軍服が目に入る。
軍人さん。
遥香は服だけで少しおびえてしまった。
ととのった顔立ちのその人は二十歳そこそこの若さだが、鋭く遥香をにらむ。
「この稲荷の巫女というのは、おまえか?」
「え、あ、はい……」
「だーかーら! 彰良は話がいきなりすぎるって」
明るい声が戸板の裏からした。
倒れた戸を受けとめてくれた人も、ひょいと出てくればやはり軍服だ。そんな人たちが遥香になんの用だろう。
――もしや、狐の娘ということや、妖怪と友だちなことが通報されたのか。遥香を捕らえに来たのでは。全身から血の気が引く。
「ええっとさ、俺らは見ての通り、帝国陸軍の者なんだ。だけどまあ、怖がらないでくれると嬉しいな」
明るい方の人が笑顔で言った。そのまま戸を直しに行かれて遥香はうろたえる。
「あ、私が」
「いいから喜之助に任せておけ。今、他に誰かいないか」
彰良と呼ばれていた男は面と向かってもぶっきらぼうだった。転ぶところを助けられたのに礼を言う隙もなく、遥香はとにかく問われたことに答えた。
「はい……祖父は他出しておりまして、帰宅もいつになるか」
「親はいないのだったな」
ギクリとし、遥香は小さくふるえた。
そこまで調べがついているということは、やはり連行されるのか――人々を迷わす術を使うとして死罪になるのかもしれない。
声も出なくなった遥香をどう思ったか、戸板をはめた喜之助は遠慮がちに言った。
「ごめんなあ。軍人が二人も来て怖がらせてるのはわかるんだけど、とりあえず話だけさせてもらえる?」
「ここで立ち話でもいいが」
無愛想な彰良までボソリと口添えし、遥香は二人の顔を見つめた。
この人たちは、遥香が十七歳の小娘だからとむげにしたりはしない。何故かそう思えた。
だって、女一人の家に上がり込むのを遠慮してくれているのだもの。外でいいから話を聞いてくれなど、官憲にしてはやさしすぎる。
「――とんでもありません、どうぞお上がり下さい」
どんな話なのかわからないけれど、祖父がいたところでどうなるわけでもないだろう。軍が決めたことに小さな稲荷が逆らうことなどできない。ならば今、一人で聞く。
遥香などどうせ何も持たない身なのだから、これより悪くなることなどないのだ。
遥香は気丈にほほえんで、客人二人を招き入れた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない
朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
【完結】何もできない妻が愛する隻眼騎士のためにできること
大森 樹
恋愛
辺境伯の娘であるナディアは、幼い頃ドラゴンに襲われているところを騎士エドムンドに助けられた。
それから十年が経過し、成長したナディアは国王陛下からあるお願いをされる。その願いとは『エドムンドとの結婚』だった。
幼い頃から憧れていたエドムンドとの結婚は、ナディアにとって願ってもいないことだったが、その結婚は妻というよりは『世話係』のようなものだった。
誰よりも強い騎士団長だったエドムンドは、ある事件で左目を失ってから騎士をやめ、酒を浴びるほど飲み、自堕落な生活を送っているため今はもう英雄とは思えない姿になっていた。
貴族令嬢らしいことは何もできない仮の妻が、愛する隻眼騎士のためにできることはあるのか?
前向き一途な辺境伯令嬢×俺様で不器用な最強騎士の物語です。
※いつもお読みいただきありがとうございます。中途半端なところで長期間投稿止まってしまい申し訳ありません。2025年10月6日〜投稿再開しております。
王宮に薬を届けに行ったなら
佐倉ミズキ
恋愛
王宮で薬師をしているラナは、上司の言いつけに従い王子殿下のカザヤに薬を届けに行った。
カザヤは生まれつき体が弱く、臥せっていることが多い。
この日もいつも通り、カザヤに薬を届けに行ったラナだが仕事終わりに届け忘れがあったことに気が付いた。
慌ててカザヤの部屋へ行くと、そこで目にしたものは……。
弱々しく臥せっているカザヤがベッドから起き上がり、元気に動き回っていたのだ。
「俺の秘密を知ったのだから部屋から出すわけにはいかない」
驚くラナに、カザヤは不敵な笑みを浮かべた。
「今日、国王が崩御する。だからお前を部屋から出すわけにはいかない」
※ベリーズカフェにも掲載中です。そちらではラナの設定が変わっています。(貴族→庶民)それにより、内容も少し変更しておりますのであわせてお楽しみください。
【完結】何故こうなったのでしょう? きれいな姉を押しのけブスな私が王子様の婚約者!!!
りまり
恋愛
きれいなお姉さまが最優先される実家で、ひっそりと別宅で生活していた。
食事も自分で用意しなければならないぐらい私は差別されていたのだ。
だから毎日アルバイトしてお金を稼いだ。
食べるものや着る物を買うために……パン屋さんで働かせてもらった。
パン屋さんは家の事情を知っていて、毎日余ったパンをくれたのでそれは感謝している。
そんな時お姉さまはこの国の第一王子さまに恋をしてしまった。
王子さまに自分を売り込むために、私は王子付きの侍女にされてしまったのだ。
そんなの自分でしろ!!!!!
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
今さらやり直しは出来ません
mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。
落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。
そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……
【完結】わたしが嫌いな幼馴染の執着から逃げたい。
たろ
恋愛
今まで何とかぶち壊してきた婚約話。
だけど今回は無理だった。
突然の婚約。
え?なんで?嫌だよ。
幼馴染のリヴィ・アルゼン。
ずっとずっと友達だと思ってたのに魔法が使えなくて嫌われてしまった。意地悪ばかりされて嫌われているから避けていたのに、それなのになんで婚約しなきゃいけないの?
好き過ぎてリヴィはミルヒーナに意地悪したり冷たくしたり。おかげでミルヒーナはリヴィが苦手になりとにかく逃げてしまう。
なのに気がつけば結婚させられて……
意地悪なのか優しいのかわからないリヴィ。
戸惑いながらも少しずつリヴィと幸せな結婚生活を送ろうと頑張り始めたミルヒーナ。
なのにマルシアというリヴィの元恋人が現れて……
「離縁したい」と思い始めリヴィから逃げようと頑張るミルヒーナ。
リヴィは、ミルヒーナを逃したくないのでなんとか関係を修復しようとするのだけど……
◆ 短編予定でしたがやはり長編になってしまいそうです。
申し訳ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる