月鏡の畔にて

ruri

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【ひとやすみinterlude】2

【水神の追想】

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 ◇

「あんた、御影じゃないでしょ?」

 暁が云った。
 感じたのは彼女への恐怖、混乱。そしてわずかな氷解。ひんやりと冷たい手が首筋に触れ、そのまま溶けて混ざり合っていくような、未知の感覚だった。
 冗談は止せと言えたらどれだけ良かったか。受け入れがたい。しかし、ここにはもう彼女を信じる道しかなかった。

「……何故、そう思ったんだ?」

 努めて落ち着き払いながら問い返せば、彼女の双眸に凛と射抜かれた。あかつきの空によく似た、宵宮霞よいみやかすみと同じ美しい色合いだ。濡れてつやめく瞳の中で、薄紫、黄金、朱が混ざり合う様子は、ちらちらと揺れる蝋燭ろうそくの灯にも似ている。心は逃げたがるけど、目を逸らすなと体が脅す。いずれ放たれる声を待てと告げるように。

月夜見つきよみの水を飲んだ者は、記憶喪失になるらしいわ。大切な大切な存在のことを、思い出ごと全部」



「あんたが忘れたのは、あんた自身よ」



 それは、半永久の眠りから覚醒させる冷水の一滴。喉元に突きつける銀製のレイピアの切っ先。
 築き上げた二百年の冰壁かべを貫いて、このからだの奥にある脆いなにかを握り潰した。


 呼び起こされるのは、消し去りたかったが失ってはならなかった記憶。さいごのさいごののソプラノの声が、遠くの夜空から空気を震わせるように、懐かしくじんと響き渡る。



『御影、最期に言い残すことある? 覚えててやるからさ、言ってみて』
『言い残すことか……いや、無いかな。ああ、でもそうか』

霏鷹ひよう

『今までありがとう。そして本当にすまなかった。あと……霞という名のたった一人の弟子がいる。彼女を、
 代わりに護ってほしい…………』



 そうか。
 おれが『約束』したのは、御影。あんただった。

 あんたは殺された。毒殺だった。一瞬ではなく慢性的な病と同じように、じわじわと弱って死に至った。
 おれの護るこの国では、『死』とは終わりではない。みんな、いつまでも大地の下の黄泉よみに――月鏡の記憶の中に生きている。それは紙上の文字や、音と映像を伴う記録と同じだ。極域の氷河や積み重なる地層のように、知も思い出も、すべてそこにある。
 なのに、おれは言い様のない空虚な絶望と怒りに襲われた。急いで御影に月夜見の水を飲ませても、時は待ってくれなかった。

 生前の御影は「死んだら体を君にあげる」と言っていた。その通りになった。見てくれだけが綺麗な空っぽの幼い肉体は、抗う隙もなくおれのものになってしまった。
 おれはおぞましかった。小さな手が動かせる。あの声が出せる。大きく息を吸い込める。胸に手をあてると心臓が動いてる。生きてる、と思った。なんて不自由で重い体なんだろう。病は嘘のように消えているのに御影あの子はいない。それが信じられない。

 ふと気がつくと、御影の友達がそこにいた。

「絶対安静って言ってただろうが! なにしてんだお前!」

 そう声を荒げられた。彼は勝手に家を抜け出した御影を夜通し探していたらしかった。

「ディス。心配かけてすまない。僕はなんともないよ」

 おれは咄嗟に嘘をついた。すらすらと言葉が出た。おれは冷酷で冴えていて、自分が『水神』であることを忘れそうなほどに、御影あの子のふりが巧かった。
 やがて友達の子はこの体を捕まえて、息苦しくなるくらい強く強く抱き締めた。あとで再会した家族も安堵の表情を浮かべて喜んでいた。守るべきあいては「さみしい、ばかやろう」と言って泣き崩れた。

 おれは『まだ死なせてはいけない』と思った。真実を知らせたら、今際いまわ水際みぎわで交わした『約束』を破ることになる。もう抜け出す方法もわからない。なら幼い身体と記憶が示す通りに、不老が尽きるまで騙し通すしかない。



 でも、月齢が一周した頃に限界は来た。肉体に遺された心の残滓は、おれとは相性が悪かったらしい。神とは禍福をもたらし、人をもてあそぶもの。やさしくきよいあの子とは対極にある。

 悪戯とかは嫌いじゃないけど、誰かの想いを背負って騙すのはあまりにも後ろ暗かった。でも『約束』は破れない。なら利用すべきは月夜見の水の副作用だ。そうしておれは、
 多分、いなくなったのは水神のほうだと思い込んだほうが幸せだったからだろう。おれの素顔を知るのは御影だけだったから支障はない。月鏡の神は鏡に映る像か、夜にひそむ影と同じだ。この真相は歴史の闇に葬られる。

 形をもたないおれに示された唯一の道標とは、御影あの子が遺した『約束』だけだ。弟子とかいう簡単な言葉では括れない想い人――霞をはじめとした、あの子の愛した人に寄り添うこと。
 曰く、愛してくれる人を哀しませるな。さみしいと想わせてはいけない。そのためには、必ず来る別れへの怯えや、過去への罪悪感の鎖で自分を縛る方法しかない。そうやって完璧な冰壁かべを築き上げ、生き抜くための呪いをかけた。





 それから二百年が過ぎたとき、さとるが現れた。
 彼女と共にする時間が長くなり、秘密を暴かれ心を絆されるに従って、おれの奥底に眠る箱の無数の鍵は徐々に確実に解かれた。封じたはずの水神の意思が表層へ浮上し、自由に振る舞うことが増えていった。
 水神の行動原理は単純だ。。彼女が友人を助けたいと願うなら叶える。彼女に危険をもたらす者がいるなら制裁を加える。ついには湖すべてを凍てつかせ、氷の力を誇示して愚かな信奉者たちへ警告した。暁に触れさせはしない、触れようものなら身も魂も凍るほどの死を以てその罪を償ってもらう、と。

 暁がひとりで龍のひとみへ向かったことに気がついたのは、御影ではなく水神の無意識のほうだった。水神は暁が不老になることを望まない。だから御影として止めに行ったのに――彼女は簡単に正体を看破し、己を欺く水神相手に『助けたい』とまで云った。それは水神が生まれてこのかた望み続けてきた、本当に欲していたことだった。


『あんた、御影じゃないでしょ?』


 そして、その一言が最後の鍵だった。核心をつかれることで無意識と意識は繋がり、記憶はすべてよみがえった。かつて封じた自責も、おれが生きる本当の意味も、水神の真の力も、なにもかも。
 まさか道標の遥か先にいた暁が呼び起こすとは。こうやって出逢わなきゃ、永遠にこのままだった気がしてならない。おれは今の今まで、自分が一寸先も見えぬ水底に溺れていたとは、夢にも思わなかったんだ。
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