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氷樹の森の大賢者

1.水の女神の元へ

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一切の光無い世界で、落下とも浮遊とも言えない不思議な感覚に包まれていた。
 暖かくもなければ、寒くもない。
 上と下の区別もつかない、そのわりに左右だけは認識できたが。

 意識があるのはなぜだろうか……。
 それとも、死というのはこういうものなのだろうか?
 ある意味、《らしい》と思えるかもしれない。
 《それ》が永遠の時間のおりに沈んでいくような類のものだとするならば、この世界はまさしくそれだろう。

 最後に記憶にあるのは、焼けるような強烈な痛み。
 刃物で刺される痛みとはこんなものなのかと初めて知った。
 それはもう、目を背けたくなるような滅多刺しだった。
 その男が刃物を振り下ろそうとした先に居たのは、小さな女の子。
 私は思わず間に割って入って、そうしたら狂乱状態になった相手が何度も何度も刃物を振り下ろして──。

 その痛みも今は無い。
 何もない世界を漂流ひょうりゅうするかのような時間。
 不思議と、恐怖は無かった。
 ただ、ひどく退屈だろうなぁという感慨のみがある。

 どれ位の時間を揺蕩たゆたっていただろうか、精神だけでも疲労は感じるものらしい。
 いい加減飽きてきた、そう思えた時、かすかな浮遊感とともに、意識が薄らいで解けていくのを感じた。

   *   *   *

 ──ちゃぷ
 ────ちゃぷ
 これは何の音だったか……液体──水の音?
 ふわふわとした浮遊感は未だに継続していた、ただし先程までの世界──と呼称して良いのならばだが──とは違う確かな重力と感覚──温感がある。
 まぶた越しにかすかな光を感じゆっくりと目を開いてみれば、そこがかなり暗い石造りの建物の中であり、壁に添えつけられた松明によって明かりが確保されている事に気づいた。
 壁に固定されている松明の火が、部屋をゆらゆらと照らしている。

(……何から考えるべきかな)

 とりあえずと記憶をたぐる。
 私の名前は氷室氷冠ひむろ ひょうか、とある家に生まれて女性として育てたれた次男。
 直前の記憶は、永遠に続くのではないかと思えた、黒塗りの世界。
 その前の記憶はめった刺しにされて血まみれで倒れたこと。
 ここまでの記憶の整合性は、自分が確認する限り取れているように思う。

 あの助けた少女はどうなっただろう、泣きながら逃げていったし、周りに人だかりが出来ていたから、多分無事だとは思うけど……。
 まぁ、それはとりあえず、現状考えてもどうしようもないことかとそこで思考を終了する。

 薄暗がりなのでよくわからないが、とりあえず最初に刺された腹部に手を這わせる。
 傷があれば触るだけで傷みそうなものだが痛みはない。
 次に腕、首と触っていくが、やはり傷はないようだ。
 傷は治ったのか、それとも……。

「夢だった……というなら、この知らない部屋に対しての答えがなくなるか」

 夢から目覚めたと言うのなら見慣れた天井が見えるはず、けれどここが私の部屋でないのは確実だ。
 むしろ今が夢である、というほうが答えとしては違和感がない。
 違和感はない……のだが。

「はっきりとした触覚がある、水の冷たさも感じる、というのは……夢としては珍し──ん?」
 
 体を起こしてみれば滴り落ちる水の感触。
 正直少し寒いのだがそれは置いておこう。
 声に違和感、少し高い。
 胸に覚えのない重み……やや厚めの胸布の豊かな膨らみ。
 下を見てみると股の部分が見えづらいが、すっきりしているなぁ。

 しばし見て、胸を触ってみる。
 ふにふにする、とても柔らかくて気持ちがいい。
 思ったより暖かくないのは、脂肪だからなのだろう。
 そっと内ももに手を這わせてみる。
 男性特有の邪魔な部分はなく、一応確認のため布地に手を這わせてみると思わずビクリとからだが反応した。
 ……女性のここは、どうにもかなり敏感らしい。
 間違いなく女性のそれだと納得したところで、私は気にしないことにした。

 特に男に未練があったわけでもない。
 自分でどうにもできないことはとりあえず横に置く、長く特異な家のしきたりに従わされてきた私の処世術だ。
 そもそも周りから女装させられたり、その結果として男に言い寄られたり何だで、自分の中の男としての芯とかどこかに行っていたからね、いまさらだ。
 お見合いにこんな人はどうかと男の写真を持ってこられて動揺するよりも前に、この人可哀想だなぁとか思っちゃうぐらいだったからね、しかたないね。

「……まぁ、柔らかいのは悪くないねぇ」

 女性特有の柔らかな肢体、決して貧相ではない胸の重みを感じなら薄ら笑いを浮かべている自分は、たぶんとてもアレな感じなのだろう。
 のんきにそんなことをしていられる状況ではないと、少しして我に返った。
 まずは周囲の安全を確保して、何かするにしてもそれからだ。
 いや、何をするわけでもないけど。

 周囲を確認してわかるのは、ここは直径にして十メートル四方程度の石造りの部屋で、中心部に泉が存在すること。
 水源は私の正面にある、推定女神像の手のひらだ。
 手を重ねて水を汲むようなポーズの女神像の手のひらから、こんこんと水が湧き出し続けている。
 水面は薄っすらと輝いており、その光が天井を照らしだしていて室内は非常に幻想的。
 女神像の正面に巨大な木製の扉、扉は鉄枠で補強されておりなかなかに頑強そうだ、隙間から明かりが差し込んでいるところからするに扉の向こう側は屋外らしい。

 幸いなことに、扉をなんとかすればここから出ることは難しくないだろう。
 問題は私の見た目なわけで……。

「踊り子の服……っぽいというか、なんか見覚えあるような」

 しばらく考えた末、答えに行き当たる。
 大樹世界ユグドラシルというオンラインゲームのジョブ、その一つとそっくりだ。
 鞭や扇、ナイフと言った武器を扱う職業、露出が多めながら可愛い衣装は人気だったものだ、もちろん私も育てた。
 可愛いのは正義です。
 ま、自分がそんな衣装を着ることなんて一生ないと思っていたけどね。

 舞姫の衣装は言ってしまえばビキニに薄布を纏ったようなもので、流石に自分で着てうろつこうとは思えない、見るのは好きだけど、大好きだけど!
 その点、私がメインにしていた読解者プロフェッサーという職業のスノウであれば、ローブ姿だったから動きづらそうという以外問題は無かったのに。
 ついでにあれの衣装も大好きである、思いっきり凝って作りたいとか真剣に思ったものだ。
 見積もり頼んだら6桁万円になってしまったので泣く泣く諦めたが。

「流石にこの格好で出歩きたくはないなぁ……スノウの服装ならよかったのに……」

 そうつぶやいた途端、目の前に半透明のウィンドウが現れた。
 やや明るくアクティブになっているのはまさに自分が育てていた舞姫リーシア。
 それを最前列にリング上にウィンドウがずらりと並んでいる。
 見覚えのある画面だが、これはもしや……。

「キャラクターセレクト?」

 同じ大樹世界ユグドラシルのキャラであるスノウも選択は可能だけれど、それ以外──別のオンラインゲームのキャラクター達もなぜか勢ぞろいしている。
 グレーアウトで選択不能になっているけど。
 試しに操作してみようと身振り手振りしてみると、意外なほどあっけなくウィンドウは反応してくれた。
 スノウを選択すると一瞬の光に包まれたあと姿が変化した。

 あ、憧れていた衣装が!
 ベルトの巻かれたつば広の三角帽子。
 厚手の生地のローブは袖口が広くなるように作られており魔法使いの服装らしさが出ている。
 特にお気に入りなのは腰回り、二本のベルトに付けられた小物たちはとても冒険者らしさを思わせる。
 革の鞘に収められた短剣、液薬の入った小瓶、薬草の入った小袋、束ねられた薬草、やや大きめの作りの懐中時計、スキレット。
 一番の特徴がブックホルダーに固定された一冊の分厚い本。
 スノウの職業である読解者プロフェッサーを象徴するデザインがこれだった。
 やっぱりいいなぁこのデザイン……じゃなくて。

「着替えの手間が無いのは便利なんだけど……グレーアウトのは選べないのかな?」

 もう一度操作するべくウィンドウを出そうと意識するだけで再度表示された。
 グレーアウトのものを選択してみる。

《該当キャラクターは地域未踏破による制限がかけられています、現在選択できません》

「ふわっ!?」

 突然脳内に響いたメッセージに思わず変な声が出た。
 というか地域未踏破制限ってなんだろう、どこかに旅行でもすれば解除されるんだろうか。
 とりあえず今の自分にはどうこうできなさそうなので置いておこう。

 あと確認しておきたいのはスキルとかアイテム、ステータスぐらいか?
 あ、スキルウィンドウとアイテムウィンドウ開きましたね、便利。

 開かれたアイテムウィンドウには大量の物品が並べられ、スクロールバーがいくらスクロールしても下に付かない。
 中に保管されているアイテムを見る限り、私が手を出した幾つものゲームの所持品がすべて一緒くたに収納されているようだった。
 キャラクターが複数のゲームをまたがって選択可能だった以上、アイテムもそういうことなのかもしれないが、実際にこの中から目的のアイテムを取り出すのは骨が折れそうだ。
 どこかの青狸の腹袋かこれは。
 そして極めつけ、本来インベントリの重量が表示される場所に表示された横たわった8の数字。

「アイテム所持の個数と重量制限はなしと考えていいってことかな……助かるけどさ」

 これだけのアイテム数、所持数制限か重量制限があったら身動きが取れなくなるのは確定なのだが、なんというか……とてもチート臭い。
 アイテムの方はとりあえず後で時間があるときにでも確認するとして、アイテムの取り出しができるのか確認するべく剣を一本、私にとって最も思い入れのある剣である"スペル・キャスト"を取り出そうとしてみると手の中に一瞬にして剣が現れた、用心のために腰に下げておく。
 一応主要な裝備はインベントリにちゃんとあったので一安心してスキルの確認に移る。

 結論から言うと、スキルの8割はグレーアウトされていた。

 具体的には、魔法系スキルがすべてグレーアウト。
 スキルのランクは★6まで存在するのだが、物理系のスキルも★2までしか明るく表示されておらず、制限がかかっているのだと判断できる。
 他には特定武器を裝備している時に攻撃力が上がるという、所謂習熟系スキルと僅かにある補助スキルしかアクティブになっていない。

 アイテムは無制限の無法地帯なのにスキルは制限かけまくりとは、よくわからないねぇ。

 最後にステータスを開いてみたら、見覚えのあるものとは少し変わっていた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
名前:スノウ・フロステシア
職業:読解者プロフェッサー
称号:魔剣の賢者マイティメイガス
年齢:23
性別:女性
キャラクターレベル:126
クラスレベル:91

固有スキル
統一言語オムニスルーン
魔力持続回復マナリジェネレート
老化無効ロストエンド
魔術適正マジックシンク
魔法適正マナシンク
剣術適正ソードシンク
万物の叡智ルータスノーツ
幻惑の舞姫ファンタズマゴリア
刻印開放リミテッド・ルーン
神性:マギカ
神性:エウリュアレ


アクティブスキル


刻印
【刻印開放】により全使用制限が解除されています。


ステータス
ヒットポイント:14850/14850
マナ収束力:35600
体内マナ:17200/17200

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 年齢の設定はゲームにはなかったし、何よりもパッシブスキルが見たことがないものばかり。
 現実の言語でやり取りしていたのだから当然言語の概念も無かったし、魔力が時間経過で回復するのも当たり前、もちろん老化の概念だってありはしない。
 刻印、マナ収束力という項目についても覚えのないものだった。

 もしもこのステータス画面を信用して良いと仮定するならば、この世界には複数の言語が存在し、魔力の自然回復が行われないかそれに等しいレベルであり、老化の概念があるということになる。
 ある程度オンラインゲームのシステムがベースに使われているということも考えられるだろうが、ゲームとは異なると考えるべきだろう。

 この時点で、私は一つの可能性を念頭に置いて行動することを決めた。
 もしもこの可能性が杞憂きゆうであったとしても何ら問題はなく、しかしその可能性が現実ものであったならば迂闊うかつな行動は確実に自分の立場を危うくさせるからだ。

 せっかくこんなことになったのに、迂闊なことをして千載一遇せんざいいちぐうの機会を台無しにしたらもったいない。

 異世界転生、冗談みたいな話だけれど、今の私の状況を説明できる言葉はそれぐらいしかないだろう。
 さもなくば、私が死ぬまでの一瞬の間に見ている夢なのかもしれないが、それならせめて楽しい夢にしたい。

 とりあえず私は部屋から出てみるべく、扉の前へと足を進める。
 私の身長を二倍にしたぐらいの高さに、鉄で補強されたその扉の存在感は抜群だ。
 うんともすんとも言わなかったらどうしよう、という不安とともに私が扉に手をかける──その一瞬前に扉は開き、私は綺麗な少女と鉢合わせすることになった。
 開け放たれた扉は勢いがついたのかある程度まで自然と開いて止まる。

 差し込んでくる光の前に立つ少女。
 深い青色の髪に、見えているのか不安になるような薄く青みがかった水晶のような色の瞳。
 その視線があっけにとられた表情で私を見つめている。
 不意に風が吹いて彼女の長い髪をふわりと舞わせる、その一瞬の光景は差し込んでくる陽の光と相まって見とれてしまうぐらいに美しかった。
 しばらくしてようやく正気を取り戻したのか、彼女は急に慌ててその場にひざまずいて、驚いた私が何かいうよりも前に口を開く。

「お、おめざめとは知らずお出迎えが遅れたことをお詫び致します、水姫様みずひめさま!」

かしこまる少女を前に私はこれから始まる厄介ごとの予感を感じずにはいられなかった。
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