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1章 坂の途中のすみれさん
タルト・タタン
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雑貨屋ポラリスのレジカウンターに座って、ぼうっと外を眺めている。
日傘をさした女性が通り過ぎる。
まだ5月下旬なのに、外はもう夏みたいな気候だ。暑すぎて、通りを歩く人もまばらだった。
ポロロン、ポロロン。
ドアのチャイムが鳴って、店長の真梨子さんが早い昼休憩から帰ってきた。
「休憩ありがとう」
言うなり溜息をついて、真梨子さんは両手を突き出す。手にはケーキ箱がぶら下がっている。
「今、ダイエット中?」
ケーキ箱を2箱、レジカウンターの上へ置くと、真梨子さんは気怠げに前髪をかき上げた。
「天野が持っていけって、うるさくて」
天野さんとは、ポラリスの3軒隣にあるケーキ屋さんで、働く男性店員のことだ。真梨子さんに好意を持っている。
「試作品みたいよ、天野の」
真梨子さんはケーキ箱を開ける。途端、あざやかで甘い香りがわきあがってくる。
試作品だなんて、本当かな。
深く考えては、天野さんにもケーキにも申し訳ない。頭の隅に、天野さんの困ったような笑顔が浮かんだ。
私は、誘われるがままケーキ箱を覗き込んだ。ケーキは6個あった。ショートケーキやチョコレートクリーム、ベリーが沢山のったタルトなど、どれを見てもうっとりしてしまう。
「好きなだけ、持って帰って」
「いいんですか?」
と言ってみたものの、天野さんに申し訳ないような気がする。悩んでいると、
「すみれさんにも、って言ってたから、好きなだけ持って行って」
真梨子さんは見透かしたように、付け加えた。
「では、3個いただきます」
たぶん、と私は思う。
たぶん、真梨子さんは天野さんの好意に気がついている。だからと言って、媚びるわけでもなく、避けているわけでもない、丁度いい距離を保っている。
「それだけでいいの?」
「はい。1人なので3個でも多いですよ」
私は笑う。
けれど、その丁度いい距離こそが、つらいのだ。恋する者にとっては。
真梨子さんと入れ替わりで、昼休憩をとる。今日はポラリスの事務所で食べる。お弁当を持ってきたのだ。
デザートに、天野さんのケーキを食べることにした。林檎のタルト。ショートケーキとチョコレートケーキは、家に持って帰ることにする。
林檎のタルトは、大人の味がした。
ほろ苦いキャラメルと林檎の爽やかな味。一緒に濃いミルクティーが飲みたくなる。
甘いものを摂取して、まぶたにやさしい重みを感じる。少しの間だけ、目を閉じる。
次に会う時は、言わないと。
変わるんだ、今度こそ。
ブー。
まるでクイズ番組で流れるような、不正解の音が鳴り響いた。
ぎょっとして、目を開く。
机に置いたスマートフォンが震えたところだった。取り上げて、画面に映し出された名前に心が躍る。まどろみの中で誓った言葉も、その名前の前ではゆるゆるとしぼんでいってしまう。
夕刻。ポラリスから帰宅しようとしたところを、天野さんに呼び止められた。
「ケーキ、どうだった?」
「おいしかったです」
そうか、と笑った天野さんは私の目をじっと見た。正確には、目の奥を。その奥にある、私の記憶の中の、真梨子さんを探しているかのように。
「店長もおやつに、チーズケーキを食べていましたよ。ベリーがのったタルトを可愛いと言っていました」
「マジで!? やった!」
天野さんは小躍りしそうなくらい、喜びに溢れていた。
「ベリーのタルトを選ぶと思ってたんだよ」
嬉しそうに話すのを、横でうんうんと頷いて聞いた。
「林檎のタルトもおいしかったですよ」
こっそり感想を付け加えると、
「ああ、タルト・タタン」と幾分か冷静になった天野さんが答えた。
「タルト・タタン?」
あの林檎のタルトは、タルト・タタンというのか。
「そう。知らない? 失敗から生まれたお菓子なんだよ。フランスのタタンっていう名前の姉妹が……っと、いけね。親父がにらんでるわ」
ありがとね、と天野さんは言ってお店に戻って行った。
タルト・タタン。
綺麗な目をした、タタン姉妹を想像する。手には真っ赤な林檎を持っている。絵本の中の1ページのようなシーンだ。
タルトタタン
ほろ苦い味と酸味がまざったあのタルトを、舌の上で思い出してみる。
タタン、タタン
失敗から生まれたのに、あんなに美味しいタルトになるなんて。
タタン タタン タタン
タタン姉妹も、恋をしていたのだろうか。
間違えてしまうくらいの、夢中な恋を。
ターコイズブルーのお皿に、ショートケーキをのせる。
窓際に座り、夜になろうとしている海を眺めながら、ケーキを食べる。窓際に机はないから、手でお皿を持つ。
真っ青なお皿の上にのった、三角のケーキは、船みたいだ。
視線を横にずらすと、壁にノートの切れ端が貼ってある。
「坂の上の住人より」
口に出してから、少し微笑む。勢いで苺を頬張った。ぷつぷつと胸の中で、嬉しさや期待が弾けていっぱいになる。
海と空の間は、この時間になるとはっきりと境界がわかる。夜に食べた苺は、タルト・タタンの林檎より酸っぱかった。
日傘をさした女性が通り過ぎる。
まだ5月下旬なのに、外はもう夏みたいな気候だ。暑すぎて、通りを歩く人もまばらだった。
ポロロン、ポロロン。
ドアのチャイムが鳴って、店長の真梨子さんが早い昼休憩から帰ってきた。
「休憩ありがとう」
言うなり溜息をついて、真梨子さんは両手を突き出す。手にはケーキ箱がぶら下がっている。
「今、ダイエット中?」
ケーキ箱を2箱、レジカウンターの上へ置くと、真梨子さんは気怠げに前髪をかき上げた。
「天野が持っていけって、うるさくて」
天野さんとは、ポラリスの3軒隣にあるケーキ屋さんで、働く男性店員のことだ。真梨子さんに好意を持っている。
「試作品みたいよ、天野の」
真梨子さんはケーキ箱を開ける。途端、あざやかで甘い香りがわきあがってくる。
試作品だなんて、本当かな。
深く考えては、天野さんにもケーキにも申し訳ない。頭の隅に、天野さんの困ったような笑顔が浮かんだ。
私は、誘われるがままケーキ箱を覗き込んだ。ケーキは6個あった。ショートケーキやチョコレートクリーム、ベリーが沢山のったタルトなど、どれを見てもうっとりしてしまう。
「好きなだけ、持って帰って」
「いいんですか?」
と言ってみたものの、天野さんに申し訳ないような気がする。悩んでいると、
「すみれさんにも、って言ってたから、好きなだけ持って行って」
真梨子さんは見透かしたように、付け加えた。
「では、3個いただきます」
たぶん、と私は思う。
たぶん、真梨子さんは天野さんの好意に気がついている。だからと言って、媚びるわけでもなく、避けているわけでもない、丁度いい距離を保っている。
「それだけでいいの?」
「はい。1人なので3個でも多いですよ」
私は笑う。
けれど、その丁度いい距離こそが、つらいのだ。恋する者にとっては。
真梨子さんと入れ替わりで、昼休憩をとる。今日はポラリスの事務所で食べる。お弁当を持ってきたのだ。
デザートに、天野さんのケーキを食べることにした。林檎のタルト。ショートケーキとチョコレートケーキは、家に持って帰ることにする。
林檎のタルトは、大人の味がした。
ほろ苦いキャラメルと林檎の爽やかな味。一緒に濃いミルクティーが飲みたくなる。
甘いものを摂取して、まぶたにやさしい重みを感じる。少しの間だけ、目を閉じる。
次に会う時は、言わないと。
変わるんだ、今度こそ。
ブー。
まるでクイズ番組で流れるような、不正解の音が鳴り響いた。
ぎょっとして、目を開く。
机に置いたスマートフォンが震えたところだった。取り上げて、画面に映し出された名前に心が躍る。まどろみの中で誓った言葉も、その名前の前ではゆるゆるとしぼんでいってしまう。
夕刻。ポラリスから帰宅しようとしたところを、天野さんに呼び止められた。
「ケーキ、どうだった?」
「おいしかったです」
そうか、と笑った天野さんは私の目をじっと見た。正確には、目の奥を。その奥にある、私の記憶の中の、真梨子さんを探しているかのように。
「店長もおやつに、チーズケーキを食べていましたよ。ベリーがのったタルトを可愛いと言っていました」
「マジで!? やった!」
天野さんは小躍りしそうなくらい、喜びに溢れていた。
「ベリーのタルトを選ぶと思ってたんだよ」
嬉しそうに話すのを、横でうんうんと頷いて聞いた。
「林檎のタルトもおいしかったですよ」
こっそり感想を付け加えると、
「ああ、タルト・タタン」と幾分か冷静になった天野さんが答えた。
「タルト・タタン?」
あの林檎のタルトは、タルト・タタンというのか。
「そう。知らない? 失敗から生まれたお菓子なんだよ。フランスのタタンっていう名前の姉妹が……っと、いけね。親父がにらんでるわ」
ありがとね、と天野さんは言ってお店に戻って行った。
タルト・タタン。
綺麗な目をした、タタン姉妹を想像する。手には真っ赤な林檎を持っている。絵本の中の1ページのようなシーンだ。
タルトタタン
ほろ苦い味と酸味がまざったあのタルトを、舌の上で思い出してみる。
タタン、タタン
失敗から生まれたのに、あんなに美味しいタルトになるなんて。
タタン タタン タタン
タタン姉妹も、恋をしていたのだろうか。
間違えてしまうくらいの、夢中な恋を。
ターコイズブルーのお皿に、ショートケーキをのせる。
窓際に座り、夜になろうとしている海を眺めながら、ケーキを食べる。窓際に机はないから、手でお皿を持つ。
真っ青なお皿の上にのった、三角のケーキは、船みたいだ。
視線を横にずらすと、壁にノートの切れ端が貼ってある。
「坂の上の住人より」
口に出してから、少し微笑む。勢いで苺を頬張った。ぷつぷつと胸の中で、嬉しさや期待が弾けていっぱいになる。
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