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1章 坂の途中のすみれさん
梅雨
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雨が降る鎌倉駅前の喫茶店に、私は冷めた珈琲と共にいる。
待ち人は、来ない。
1時間ほど前に「ごめん」の一言、連絡があっただけだ。
悲しくなんか、ない。悲しむ資格なんて、私にはないのだから。恋人でも何者でもないのだから。
「すみません」
私は店員さんを呼び止め、追加の珈琲とホットケーキを頼んだ。ここは、食べるに限る。
雨の中、1人で鎌倉を散策する程、元気はなかった。かといって、すぐに家に帰ろうと思う程、心が元に戻っていなかった。
喫茶店には中庭があり、日本庭園というよりは、鬱蒼と茂る木々の庭であった。
正方形に近いその中庭を、客席がぐるりと取り囲んでいる。それにも関わらず、他の客の視線が気にならないくらい、丁度いい塩梅に木々が配置されている。
その中庭に、雨がしとしとと降り注ぐ。
次の珈琲がくるまで、スマートフォンは触らないことにした。何かと手持ち無沙汰になると、スマートフォンを触る癖がついてしまっている。
雨はまるで、ミストのようだ。濡れた木々の葉に、露が流れていく。
「もう梅雨入りかねえ」
そんな声が近くの席から聞こえてきた。
梅雨。梅の雨と書いて、梅雨。どうして、梅なのだろう。それに「ばいう」ならまだしも「つゆ」とは流石に読めない。
キラキラネームとよく言うけれど、梅雨だってキラキラネームじゃないかと、私は心の中で思った。
大きく膨らんだホットケーキは、甘すぎず、ふわふわしすぎていないところが、良かった。
「すみれちゃんって、ふわふわしてるよね」
そう言ったのは、中学の同級生だったか、高校の同級生だったか。褒め言葉ではないのは、同級生の雰囲気でなんとなくわかった。
「ふわふわ」している人間って、どういうことだろう。私はホットケーキにフォークを突き刺す。
何も考えていない、という事だろうか。
そうならば、強ち間違いではないだろう。深く物事を考えることを、放棄している自分がいる事を、私は知っている。
人間関係も仕事も、どこか「私には関係のないことだから」と俯瞰している自分がいる。
その事に気がついていてもなお、自分自身を変えようとしない私が、嫌いだった。
最後のひと口に、残りのメープルシロップをどかりとかける。黒い液体が、ホットケーキのスポンジに染み込んでいく。ふわふわだったホットケーキが、重たく沈んでいく。
ひと口で食べたそれは、お気に入りのリップを汚して、唇から甘い液を垂らした。
甘い食べ物は、蠱惑的だ。
私を捉えて、離れなくする。
こんな思いをしても、私は許してしまうのだから。
真っ赤な傘が、揺れている。
淡いパープルのワンピースは、裾が雨をふくんで重たそうだ。
小港荘へ向かう坂道で、私はふと足を止めた。
道の端に、梅が落ちていた。落ちた葉に紛れて、雨に濡れている。
視界の隅で、緑の玉が映る。
ころころ、ころ。
まだ青い梅が、坂道を転がっていく。この辺りに梅の木があるのだろうか、と視線をあげて気がついた。
青色の傘の女性に。
雨粒が、頬を優しく叩く。
掲示板を見つめていた顔が、こちらへゆっくり向く。
露が、落ちる。
視線が合った。
雨音が遠のいていく中、私は直感的に理解した。
ああ彼女が、坂の上の住人なのだと。
待ち人は、来ない。
1時間ほど前に「ごめん」の一言、連絡があっただけだ。
悲しくなんか、ない。悲しむ資格なんて、私にはないのだから。恋人でも何者でもないのだから。
「すみません」
私は店員さんを呼び止め、追加の珈琲とホットケーキを頼んだ。ここは、食べるに限る。
雨の中、1人で鎌倉を散策する程、元気はなかった。かといって、すぐに家に帰ろうと思う程、心が元に戻っていなかった。
喫茶店には中庭があり、日本庭園というよりは、鬱蒼と茂る木々の庭であった。
正方形に近いその中庭を、客席がぐるりと取り囲んでいる。それにも関わらず、他の客の視線が気にならないくらい、丁度いい塩梅に木々が配置されている。
その中庭に、雨がしとしとと降り注ぐ。
次の珈琲がくるまで、スマートフォンは触らないことにした。何かと手持ち無沙汰になると、スマートフォンを触る癖がついてしまっている。
雨はまるで、ミストのようだ。濡れた木々の葉に、露が流れていく。
「もう梅雨入りかねえ」
そんな声が近くの席から聞こえてきた。
梅雨。梅の雨と書いて、梅雨。どうして、梅なのだろう。それに「ばいう」ならまだしも「つゆ」とは流石に読めない。
キラキラネームとよく言うけれど、梅雨だってキラキラネームじゃないかと、私は心の中で思った。
大きく膨らんだホットケーキは、甘すぎず、ふわふわしすぎていないところが、良かった。
「すみれちゃんって、ふわふわしてるよね」
そう言ったのは、中学の同級生だったか、高校の同級生だったか。褒め言葉ではないのは、同級生の雰囲気でなんとなくわかった。
「ふわふわ」している人間って、どういうことだろう。私はホットケーキにフォークを突き刺す。
何も考えていない、という事だろうか。
そうならば、強ち間違いではないだろう。深く物事を考えることを、放棄している自分がいる事を、私は知っている。
人間関係も仕事も、どこか「私には関係のないことだから」と俯瞰している自分がいる。
その事に気がついていてもなお、自分自身を変えようとしない私が、嫌いだった。
最後のひと口に、残りのメープルシロップをどかりとかける。黒い液体が、ホットケーキのスポンジに染み込んでいく。ふわふわだったホットケーキが、重たく沈んでいく。
ひと口で食べたそれは、お気に入りのリップを汚して、唇から甘い液を垂らした。
甘い食べ物は、蠱惑的だ。
私を捉えて、離れなくする。
こんな思いをしても、私は許してしまうのだから。
真っ赤な傘が、揺れている。
淡いパープルのワンピースは、裾が雨をふくんで重たそうだ。
小港荘へ向かう坂道で、私はふと足を止めた。
道の端に、梅が落ちていた。落ちた葉に紛れて、雨に濡れている。
視界の隅で、緑の玉が映る。
ころころ、ころ。
まだ青い梅が、坂道を転がっていく。この辺りに梅の木があるのだろうか、と視線をあげて気がついた。
青色の傘の女性に。
雨粒が、頬を優しく叩く。
掲示板を見つめていた顔が、こちらへゆっくり向く。
露が、落ちる。
視線が合った。
雨音が遠のいていく中、私は直感的に理解した。
ああ彼女が、坂の上の住人なのだと。
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