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2章 ポラリス
リミット
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「すみれさん。例のアレ、金曜日に入荷されると思う」
私がそう言うと、彼女は少し目を見開いて、
「わかりました」
と言った。
その「わかりました」の中に、商品を陳列すること、女子校生が買いにくること、彼女が買いにくるまでに品切れないよう、1点確保しておくこと、そこまでを含んでの「わかりました」であることを、私は知っている。
すみれさんは、頭が良い。よく気が回る。常に数歩先を考えて行動している子だ。とても信頼できる仕事仲間である。
「申し訳ありません」
そう言った時の、すみれさんの表情が忘れられない。
彼女は、よく気が回るが、優しすぎる。もくもくと作業をしているすみれさんの後ろ姿をちらりと盗み見て、あの日を思い出す。
「真梨子さんは、彼氏いるんですか?」
仕事終わりに『珈琲 ちょび』に2人で行った時のことだった。
「いないよ。もう6年はいない」
私は前髪をかき上げる。その時の声のトーンだとか、表情がいけなかったのかもしれない。
すみれさんはその言葉に、きっと多くの想像をした。そして、自分は失言したと顔を青くした。
「違う、違う。面倒なのよ、恋愛とか。そんなにツラい過去とかないから」
慌てて明るい声で言ってみたものの、それが余計に彼女を落ち込ませてしまった。
それ以来、彼女は恋愛とか恋とかいうワードを避けているように感じる。
けれど私自身、実際そうなのかもしれない。事実、恋愛なんて面倒だと本気で思っている。
『もう俺たち、終わってるよね?』
そうメールが来たのが6年前。丁度、ポラリスを立ち上げようと奔走していた時だった。忙しくて連絡もとっていなかったら、そのメールがきた。
大学時代からずっと、長年付き合ってきた。年月と気持ちは関係ないのだと、思い知った。
いつだって簡単に、他人になれる。
その時も、雨が降っていた。雨が降ると頭が痛くなる。こめかみの辺りが、ドクンドクンと脈をうつ。
「ああ、だるい」
誰かが体に乗っているように重い。
『そうだね』
その一言で、私たちはいとも簡単に、終わってしまった。服のボタンが突然取れて、落ちるように。呆気なく。
目を固く閉じると、雨が地面を激しく叩きつける音が、遠くに聞こえた。
誰かが、泣いているような音だった。
「真梨子さん、大丈夫ですか?」
呼びかけられて、はっと目を開く。ポラリスの事務所だった。眠っていたようだ。
「ごめん、寝ちゃってたみたい」
慌てて立ち上がると、頭が痛んだ。
「雨、降るんですかねえ」
すみれさんが、先回りして冷蔵庫からお茶を出してくれる。
「かもね」
ゆっくりとお茶を飲み干して、呼吸を整える。
「ねえ、例のアレなんだけど。本当に効くと思う? 恋を運ぶってやつ」
すみれさんは、目をぱちぱちさせてから、困ったように微笑んで首を傾げた。
「気持ち次第です」
そうだよね、と笑ってから2人で閉店準備を始める。すみれさんを先に帰してから、1人レジカウンターに腰掛ける。
「結婚、考えといて」
そう言ったあの人の笑顔が、ふとした拍子に現れる。気持ちがゆるむと、記憶の隙間から出てきてしまう。何度も何度も蓋をしても、出てきてしまうのだ。
「……どうすれば、よかったのよ」
頭を抱えたまま、重力に任せてズルズルと滑り落ちる。やがて、鈍い音がして、そのまま机に突っ伏した。
結婚って、何だろう。
何なんだろう。
結婚したら、私という価値が終わってしまう気がする。
結婚したら、子どもを産んで。限られた時間の中で、仕事をこなす。時に、それが女の成功者のように世間では語られている。
「嫌だ」
あらゆることに、女はリミットがある。その決められたリミットに、従いたくなかった。
私がそう言うと、彼女は少し目を見開いて、
「わかりました」
と言った。
その「わかりました」の中に、商品を陳列すること、女子校生が買いにくること、彼女が買いにくるまでに品切れないよう、1点確保しておくこと、そこまでを含んでの「わかりました」であることを、私は知っている。
すみれさんは、頭が良い。よく気が回る。常に数歩先を考えて行動している子だ。とても信頼できる仕事仲間である。
「申し訳ありません」
そう言った時の、すみれさんの表情が忘れられない。
彼女は、よく気が回るが、優しすぎる。もくもくと作業をしているすみれさんの後ろ姿をちらりと盗み見て、あの日を思い出す。
「真梨子さんは、彼氏いるんですか?」
仕事終わりに『珈琲 ちょび』に2人で行った時のことだった。
「いないよ。もう6年はいない」
私は前髪をかき上げる。その時の声のトーンだとか、表情がいけなかったのかもしれない。
すみれさんはその言葉に、きっと多くの想像をした。そして、自分は失言したと顔を青くした。
「違う、違う。面倒なのよ、恋愛とか。そんなにツラい過去とかないから」
慌てて明るい声で言ってみたものの、それが余計に彼女を落ち込ませてしまった。
それ以来、彼女は恋愛とか恋とかいうワードを避けているように感じる。
けれど私自身、実際そうなのかもしれない。事実、恋愛なんて面倒だと本気で思っている。
『もう俺たち、終わってるよね?』
そうメールが来たのが6年前。丁度、ポラリスを立ち上げようと奔走していた時だった。忙しくて連絡もとっていなかったら、そのメールがきた。
大学時代からずっと、長年付き合ってきた。年月と気持ちは関係ないのだと、思い知った。
いつだって簡単に、他人になれる。
その時も、雨が降っていた。雨が降ると頭が痛くなる。こめかみの辺りが、ドクンドクンと脈をうつ。
「ああ、だるい」
誰かが体に乗っているように重い。
『そうだね』
その一言で、私たちはいとも簡単に、終わってしまった。服のボタンが突然取れて、落ちるように。呆気なく。
目を固く閉じると、雨が地面を激しく叩きつける音が、遠くに聞こえた。
誰かが、泣いているような音だった。
「真梨子さん、大丈夫ですか?」
呼びかけられて、はっと目を開く。ポラリスの事務所だった。眠っていたようだ。
「ごめん、寝ちゃってたみたい」
慌てて立ち上がると、頭が痛んだ。
「雨、降るんですかねえ」
すみれさんが、先回りして冷蔵庫からお茶を出してくれる。
「かもね」
ゆっくりとお茶を飲み干して、呼吸を整える。
「ねえ、例のアレなんだけど。本当に効くと思う? 恋を運ぶってやつ」
すみれさんは、目をぱちぱちさせてから、困ったように微笑んで首を傾げた。
「気持ち次第です」
そうだよね、と笑ってから2人で閉店準備を始める。すみれさんを先に帰してから、1人レジカウンターに腰掛ける。
「結婚、考えといて」
そう言ったあの人の笑顔が、ふとした拍子に現れる。気持ちがゆるむと、記憶の隙間から出てきてしまう。何度も何度も蓋をしても、出てきてしまうのだ。
「……どうすれば、よかったのよ」
頭を抱えたまま、重力に任せてズルズルと滑り落ちる。やがて、鈍い音がして、そのまま机に突っ伏した。
結婚って、何だろう。
何なんだろう。
結婚したら、私という価値が終わってしまう気がする。
結婚したら、子どもを産んで。限られた時間の中で、仕事をこなす。時に、それが女の成功者のように世間では語られている。
「嫌だ」
あらゆることに、女はリミットがある。その決められたリミットに、従いたくなかった。
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