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2章 ポラリス
ポラリス
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湿気を含んだ海風が、目の前から真っ直ぐに吹いてくる。夏になりきらない、中途半端な温度。夜になりきらない、あやふやな空。
目の前の海を眺めながら、公園のベンチに座っている。聞こえる音は、ランニングをする人のリズミカルな足音と散歩する犬の息遣いだけだ。
手の中には、タルト・タタン。想像していたより、地味なケーキだ。全体的に、茶色い。
隣では、天野が手づかみでショートケーキを食べている。というのも、慌てて出てきた彼は、ケーキのみを厨房からかっさらってきたのだという。
「ガツンといっちゃって下さいよ」
と天野は笑った。ケーキにガツンという効果音は如何なものかと思うが、面白がっている自分がいるのも、事実だった。
手がベタベタになるのも、大きな口を開けるのにも構わず、タルト・タタンにかぶりついた。
「おいしい」
やった、と隣で天野が笑う。子どもみたいな笑顔だ。
かぶりついたタルト・タタンには、思っていたよりも大きな歯型がついていて思わず、声を出して笑ってしまった。
「男の子みたい!」
「……おれ、男の子っすよ」
私は首を大きく横に振る。
「違うの。こういう食べ方、初めてで」
「真梨子さんって、ピザとか食わないんっすか?」
「どういうこと?」
「だってほら、形似てるじゃないですか」
天野はピザを食べる真似をする。
「ケーキ屋が、それ言う?」
ぷっと吹き出して、私たちは大きな口を開けて笑った。
「私ね、よく父に『男の子みたいだ』って言われてきたの。可愛らしい雑貨も好きだけれど、本当は石とか工具とか見るの好きなんだ」
「それ、普通じゃないですか? 男っぽいとか女っぽいとか、好きなモノに対してそんな枠組み、いらないっすよ」
残りのケーキをガツンと口に含んで、天野は「それに」とつけ加える。
「おれだって小さい頃は、男のくせにケーキ屋さんって馬鹿にされたことありますよ。男のパティシエのが、多いつーの!」
海に向かって叫んで、それから「あースッキリした」と大きく伸びをした。少しの沈黙の後、天野が口を開く。
「真梨子さん、あの……」
すっと、天野が息を吸う音が聞こえた。私は、目を合わさない。横顔に当たる視線が、ジリジリする。
「今日のケーキ、どうでした?」
やっぱりこの男は苦手だ。心の中で苦笑する。
「実は。まだ、とってあるの」
頬に感じていた視線が、海の方に向けられたのを伏し目がちに確認する。
「ありがとう。あれ、ポラリスでしょう?」
今度は私が、天野の横顔を見る番になった。天野の瞳は、始まったばかりの夜が映し出されている。時折、きらりと光る。
「どうして……。あれは、今年の七夕に……。参ったな」
後頭部をくしゃりと掻いて、天野は俯く。風が、海の匂いがした。1日の終わりを告げるような、哀しい匂い。
「これ、あげる。ケーキのお礼に」
ポラリスの紙袋を、天野の膝の上にのせる。しばらく紙袋を見つめていたが「あざっす」と小さく呟いた天野は、いつもの天野だった。
「『恋を運ぶ鳥』っていう名前よ」
「そうっすか」
手のひらに鳥をのせて、天野は傷ついた顔をする。その表情に気がついても、私は説明をやめない。やめられなかった。
「女の子が、買って行ったの。自分の分と、好きな人の分。好きな人には、別の好きな人がいるんだって」
「そうっすか……」
「効くと思う? 気持ち次第だと思う?」
「真梨子さんは、どう思うんですか?」
そう言った天野の声は、少しかすれていた。真っ直ぐに、私を見てくる。天野の視線に、心が揺らぐ。
片想いとわかっても、前に進まずにはいられなかった女の子。
失敗が成功に変わったケーキ。
何が正しいのだろう。
私は、本当は、どう思っているのか。
「私は」
──もうおれたち、終わってるよね?
いとも簡単に、切れてしまう気持ち。素直にならず、追いかけなかったあの日。
「本当は」
──男の子みたいだ。
好きなものに蓋をしてきた。声を大にして、好きだと言っていたら、どんな今があるのだろう。
こうあるべきという概念に従いたくないと言いつつも、その言葉に固執していたのは、私自身だ。
「羽を広げてみたい」
風が吹いた。背中をベンチにあずけたら、視界が広がった。小さな船が、波を作ってかけていく。
言葉は人を不必要に縛り付ける。そうして、絡まったままで、解くこともしてこなかった。痛みに、慣れたつもりでいた。
「どっか、旅行にでも行くんっすか?」
間の抜けた質問に、本当にこいつは、とちょっぴり呆れる。でも、そういうところが天野の良いところだ。
風で髪が顔にかかったけれど、気にならないくらい気持ちが良かった。
「アラサーだけど。私もその鳥、買っちゃおうかな」
立ち上がって、天野の方を振り返る。もうすっかり夜空が広がっている。都会の空では、星が見えない。けれど、目印になる星が、一際輝く星が、きっと見つかるはずだ。
「あのケーキ、ちゃんといただくね」
天野のぽかんとした表情が、ゆるんでいく。
「あざっす」
天野の調子の良い声が、波の音に合わせて響いた。
目の前の海を眺めながら、公園のベンチに座っている。聞こえる音は、ランニングをする人のリズミカルな足音と散歩する犬の息遣いだけだ。
手の中には、タルト・タタン。想像していたより、地味なケーキだ。全体的に、茶色い。
隣では、天野が手づかみでショートケーキを食べている。というのも、慌てて出てきた彼は、ケーキのみを厨房からかっさらってきたのだという。
「ガツンといっちゃって下さいよ」
と天野は笑った。ケーキにガツンという効果音は如何なものかと思うが、面白がっている自分がいるのも、事実だった。
手がベタベタになるのも、大きな口を開けるのにも構わず、タルト・タタンにかぶりついた。
「おいしい」
やった、と隣で天野が笑う。子どもみたいな笑顔だ。
かぶりついたタルト・タタンには、思っていたよりも大きな歯型がついていて思わず、声を出して笑ってしまった。
「男の子みたい!」
「……おれ、男の子っすよ」
私は首を大きく横に振る。
「違うの。こういう食べ方、初めてで」
「真梨子さんって、ピザとか食わないんっすか?」
「どういうこと?」
「だってほら、形似てるじゃないですか」
天野はピザを食べる真似をする。
「ケーキ屋が、それ言う?」
ぷっと吹き出して、私たちは大きな口を開けて笑った。
「私ね、よく父に『男の子みたいだ』って言われてきたの。可愛らしい雑貨も好きだけれど、本当は石とか工具とか見るの好きなんだ」
「それ、普通じゃないですか? 男っぽいとか女っぽいとか、好きなモノに対してそんな枠組み、いらないっすよ」
残りのケーキをガツンと口に含んで、天野は「それに」とつけ加える。
「おれだって小さい頃は、男のくせにケーキ屋さんって馬鹿にされたことありますよ。男のパティシエのが、多いつーの!」
海に向かって叫んで、それから「あースッキリした」と大きく伸びをした。少しの沈黙の後、天野が口を開く。
「真梨子さん、あの……」
すっと、天野が息を吸う音が聞こえた。私は、目を合わさない。横顔に当たる視線が、ジリジリする。
「今日のケーキ、どうでした?」
やっぱりこの男は苦手だ。心の中で苦笑する。
「実は。まだ、とってあるの」
頬に感じていた視線が、海の方に向けられたのを伏し目がちに確認する。
「ありがとう。あれ、ポラリスでしょう?」
今度は私が、天野の横顔を見る番になった。天野の瞳は、始まったばかりの夜が映し出されている。時折、きらりと光る。
「どうして……。あれは、今年の七夕に……。参ったな」
後頭部をくしゃりと掻いて、天野は俯く。風が、海の匂いがした。1日の終わりを告げるような、哀しい匂い。
「これ、あげる。ケーキのお礼に」
ポラリスの紙袋を、天野の膝の上にのせる。しばらく紙袋を見つめていたが「あざっす」と小さく呟いた天野は、いつもの天野だった。
「『恋を運ぶ鳥』っていう名前よ」
「そうっすか」
手のひらに鳥をのせて、天野は傷ついた顔をする。その表情に気がついても、私は説明をやめない。やめられなかった。
「女の子が、買って行ったの。自分の分と、好きな人の分。好きな人には、別の好きな人がいるんだって」
「そうっすか……」
「効くと思う? 気持ち次第だと思う?」
「真梨子さんは、どう思うんですか?」
そう言った天野の声は、少しかすれていた。真っ直ぐに、私を見てくる。天野の視線に、心が揺らぐ。
片想いとわかっても、前に進まずにはいられなかった女の子。
失敗が成功に変わったケーキ。
何が正しいのだろう。
私は、本当は、どう思っているのか。
「私は」
──もうおれたち、終わってるよね?
いとも簡単に、切れてしまう気持ち。素直にならず、追いかけなかったあの日。
「本当は」
──男の子みたいだ。
好きなものに蓋をしてきた。声を大にして、好きだと言っていたら、どんな今があるのだろう。
こうあるべきという概念に従いたくないと言いつつも、その言葉に固執していたのは、私自身だ。
「羽を広げてみたい」
風が吹いた。背中をベンチにあずけたら、視界が広がった。小さな船が、波を作ってかけていく。
言葉は人を不必要に縛り付ける。そうして、絡まったままで、解くこともしてこなかった。痛みに、慣れたつもりでいた。
「どっか、旅行にでも行くんっすか?」
間の抜けた質問に、本当にこいつは、とちょっぴり呆れる。でも、そういうところが天野の良いところだ。
風で髪が顔にかかったけれど、気にならないくらい気持ちが良かった。
「アラサーだけど。私もその鳥、買っちゃおうかな」
立ち上がって、天野の方を振り返る。もうすっかり夜空が広がっている。都会の空では、星が見えない。けれど、目印になる星が、一際輝く星が、きっと見つかるはずだ。
「あのケーキ、ちゃんといただくね」
天野のぽかんとした表情が、ゆるんでいく。
「あざっす」
天野の調子の良い声が、波の音に合わせて響いた。
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