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4章 坂の上のひかるさん

ブラックコーヒー

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 久しぶりに、メイクをした。といっても、フルメイクではない。軽く粉をはたいて、アイラインとリップだけ。スキニージーンズに、とろみのあるブラウスを合わせる。
 お酒はいらない。温かい飲み物が飲みたかった。ずっと冷え切っていた体の中を、温めてあげたかった。
 アパートを出て、坂を下りる。木の青くさい匂いでいっぱいの道を通る。吸い込むと、体が軽くなった気がした。
 朝早くからやっている喫茶店を探す。まだひっそりとしている商店街に、珈琲の看板を見つけた。少し重い扉を押すと、低いベルの音が鳴った。
「いらっしゃい」
 ちょび髭の店員と目が合う。
 特に案内がないので、空いている席に座って、メニューを見る。「珈琲ちょび」と店名が書かれているのに気がついた。成る程、ちょび髭からきているのかと、謎解きをした気分になって可笑しくなる。
「すいません、ホットコーヒーください」
 カウンターの中で、ちょび髭店員が頷いた。大丈夫、あっていたみたい。
 店員の後ろの壁には上から下までコーヒーカップが並んでいる。その中の1つを店員はとって、支度を始める。
 コーヒーのいい香りがする。深く吸い込むと、ふつふつとした何かが、体の奥からこみ上げてきた。
 こんな朝早くに起きて、喫茶店に入ったことなんてない。いつもと違う朝、いつもと違う行動。
「潮時なのかな」 
 全て忘れるには、今日みたいな日がいいのかもしれない。
「お待たせしました。ミルクはご利用になりますか?」
 気がつくと隣に、ちょび髭の店員が立っていた。首を横に振って「大丈夫です」と伝えると、店員はお辞儀をして、再びカウンター内に戻っていった。
 カウンターには、若い女性が座っていた。同い年くらいだろうか。渋めの喫茶店に朝早く、若い人が来るのだと不思議に思うと同時に、親近感がわいた。
 視線をコーヒーに戻すと、コーヒーカップとソーサーは鮮やかな青だった。海のような、青色。
「……でね、別れちゃったんだってば~」
 店内のBGMに紛れて、女性の声がした。カウンターに座ってる女性が、店員に話しかけているところだった。
 飲んでいるものがコーヒーではなく、お酒だったら酔っ払っているのかと思うような、軽快な声だった。
「悔しくってさぁ」
 女性は両ひじをついて話し続ける。別れたという割には、元気なんだなと呆れつつも羨ましくもある。
「新しい髪型、似合ってますよ」
 ちょび髭の店員が手を動かしながらも、ひっそりと言う。
「えっ、わかる? わかりますー?」
 女性は嬉しそうに髪を何度も触る。
「わたし、彼氏が出来るとその人に合わせちゃうタイプで。どうしたら、もっと好きになってくれるのかな、喜んでくれるのかなって、がんばっちゃうんだけど……」
 そこで女性は困ったように笑った。ーー笑ったと思う。
 あたしの座ってる場所からだと、後ろ姿しか見えない。けれど、彼女の気持ちが流れ込んでくるように、今のあたしならわかったのだ。
「それが空回りだって、何度恋しても、同じこと繰り返しちゃう。別れてから……気がつくんだけどね」
 あたしは、手元のコーヒーに目線を落とした。茶色がかった黒。青色のカップに縁取られたコーヒーは、綺麗だった。
 恋をする度、自分を着飾ってみたり、体型を気にしてみたり。そうやって、元の色に付け足して、恋をしていく。涼の色を捨てようとしている今、あたしは何色なんだろう。
 コーヒーを飲んで、立ち上がる。お会計をする際、カウンターの女性を盗み見る。丸っこくて白色のカップを口元に運ぶところだった。
 飲んでいたコーヒーは、ブラックだった。


 お店の扉を開けると「わぁー!」と叫び出したい気持ちになった。子どもみたいに、周りを気にしないで。そのまま笑いながら、走り出したい。実際、そんなことしたら変態だけれど。
 開店前の浮ついた商店街を歩く。あたしも、髪を切ろう。あの女性に影響されてないと言ったら、嘘になる。
 失恋したら髪を切るって、ホントだったんだって何だか可笑しくなる。
 でも、その気持ちわからなくない。
 昭和の時代の話かと思っていたけど、失恋する女の心は、いつの時代も関係ないのだ。
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