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零参 欄干擬宝珠に駆引きの舞
八刀
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陽が日没より早く山に沈んでも空はうすら明るく、温い空気は去らない。山がちな環樹では当たり前のことだし、裁の国ではもっと山が高かった。
まだ悪党の出張る時刻ではないだろう。普通なら。
近くに人気のないのを確かめて、僕は山吹橋の欄干に乗る。やはり目立つ。刃傷沙汰が噂になり、避けられていなければこんな事はできないだろう。もう一歩、擬宝珠に足を掛けて身体を引き上げる。
……町がよく見える。背が低いとはいえ僕よりは高い舎良には、もっと広く見渡せただろう。橋に近づく者が居るかどうか。夜なら灯りさえ見えれば良いのだ。
十分に待って、僕は枯洲川に飛び降りた。
……濡れる気はない。下にはぼろの小舟をつけている。酔っ払いになりすました時にも使ったばかりのものだ。あの時は橋の上を見張るのが目的だから、遠巻きに見張るばかりで下をくぐりはしなかった。
あの時、舟が橋に近づいたのを舎良は見ただろうか。見て焦っただろうか。
舟漕ぎの音がぼんやりと跳ね返る。橋の下、中央まで舟を進めて僕は橋の裏を見上げた。
山吹というくせに茶まで色あせた橋の裏側など、さらに傷んでいるに決まっていた。壊れているようには見えないが、いずれ直す話も出るだろう。
橋裏に張られた木組みの隙間に櫂を差し込んで船を寄せる。
詳しくないが橋の重みを支える造りだ。埃と油気のある汚れの張り付いた中に、明らかに汚れを拭き取られた場所がある。今触れても指が汚れないくらいだ。何か大切なものを布などに包んで、この隙間に置いておくことは出来るだろう。この範囲だと、大きさは例えば。
「刀ひと振り分」
櫂を引き抜いて振り抜く。
硬い音がして、同じように構えられた落ち武者男の櫂とぶつかった。
どれだけ静かに小舟を寄せても僕に気づかれないのは無理だ。最初から僕が振り向く事は織りこんでいただろう。
舎良の櫂は短くしつらえられ、より刀の長さに近い。いや、杖。『女子斬り』の舞台で使われるような長さか。舎良にとっては得手というわけだ。
……違う。櫂を持つ手が利き手ではない!
僕が櫂から手を離すのと寸刻も変わらずに、落ち武者ーー舎良の刀が、櫂を二本まとめて断ち斬った。
夕の空気に白月を描くような鮮やかさに目を奪われる。とっさに腰に納めた造花に手をかければ、悪意の響がいっそう強く、僕を打った。
「舎良殿!」
呼びかけに、舎良はやっと病人の仮面を外し、投げ捨てて僕を見た。そして、大人しい芸街の町人という仮面も。
悪意の響が変わらぬ激しさで僕を斬る。斬ってしまえば全てがうまくいくとでも言いたげに。慣れた感覚。刀士相手ならば、何度も感じてきたものだ。やはり、癖が然牙と似ている。
(そうか)
巴の烏羽はああ言ったが、恐らく、僕が最初に落ち武者とまみえたあの時、まともに刀で向かっても結果はさして変わらなかっただろう。
刀を交えることが目的ではない。その段は、とうに過ぎている。嫌と言うほど響が伝えてくる。
では何だ? 何が舎良の。
「!」
互いに考えがひと巡りしたかのように、かすかに動き、目が合う。次いで、互いに右へ踏み出していた。右が利き手だ。そして僕も舎良も、相手を川に落としてはやりづらくなる。互いに振った刀筋を綺麗に避け合って、自然、互いの舟へと飛び移り、立ち位置を入れ替える形になった。振り返れば振り返る舎良と目が合う。
小舟でなければこうはならなかった。揺れる上に決して平らでない場所というのは舎良の得意ではないようだ。僕だってそうだ。そして、こうなったのは互いが飛び道具を使うせいだ。僕は瓦斯から逃れやすい川面の舟に誘い込み、舎良はまだ明るく、針が光って見える夕方だから誘いに乗った。そういう釣り合いになっている。
ほとんどぶつかり合い、揺れながら、二つの舟は少しずつ下流へ流されている。今僕が向いている方へ、舎良の背の方へ。今は橋の下だが、そのうち通り抜ける。僕と舎良の均衡も一時のものだ。
「殺す気で構いません。話を!」
最後までは言い切れない。突くようで少し傾義ながら繰り出された刃は、避けやすいが型通りの反撃をしにくい。
「話を! 聞いてください!」
斬るためや反撃ではなく、距離を取るために刃を振る。
刀士の教えを受けた舎良は、刃先と刃先をかち合わせて互いの刀を損ねてはいけないと知っている。芝居の技としてする事はあるだろうに、その素振りもない。もし打ち合えば墨染の技術で舎良の刀を折れたのだが。
「このことを然牙様にお伝えするつもりはありません」
こんな言い方をするつもりはなかった。怒りがくっきりと悪意の刀筋となり、狭まった殺意の響は感じ取りやすくなる。それでも、怒らせる気はなかった。
「っ」
甘い牽制の刃を読まれ、逆に押し込まれる。速い。舎良は怒ると刀技が冴える。本物の刀の重さを普段から全力で振ることに慣れていないと、怒りに任せて振るくらいがちょうど良い力加減になることがある……
どこかでそんなものを見かけたような気がしながら、響の隙間に転げこむ。舎良の腕を掴む。
「今が止め時ではありませんか」
「お前……」
「何も知らない門外漢だからこそ言います。終わりにしませんか」
ただ幕を下ろせば芝居が終わるわけではない。僕には、舎良が物語の顛末を決められず、演じられずにただ舞台に立っているように思えた。もしかしたら、……誰か斬り殺しでもして、取り返しのつかない男を演じて幕を引こうとしてはいないか。そう思えてしまった。
「……『恨めしや』……」
やっと口を開いた舎良は、夢うつつのような声をこぼした。
「……『ああ、労しや、愛し、憎しや……』……」
「っ!」
船が大きく揺れる。僕が舟板を蹴って離れるのと、舎良が無闇に刀を振り回すのが重なって大きくぐらつく。
「『あたしに百本捧げると、言ったじゃあないかあんた確かに!』」
袖を切り裂かれる。
「『あああ、恨めしいおひと。大嘘つきの人でなし。あああ、この国の果てまで、追って呪って愛し続けても、まだ足りないおとこ! ああ恨めしや、許せぬ、許せぬ、あたしから離れるなんて……ひひひひひひひっ!』」
……『女子斬り』の台詞だ。それも主役の男ではなく、男に取り憑く人斬りの化け物女の。決して舎良が演じる事はなく、しかしずっと舞台で聴き続けてきた声。
「『酷いじゃないかぁ、ご主人様ぁ……あたしを忘れたなんて言うなら、人斬りの技持つ腕なぞ、斬り落として二度と使えなくしてやろうさ。あたしを忘れちゃいないなら、』」
ぐっと言葉に詰まる。舟が傾いで濡れた足元が意識を削いだせいか、憑かれたような気迫と裏腹に技術の鈍る刀を僕に捌かれたせいか。
「……『あたしを、忘れちゃいないなら、ねえあんた、刀を使っておくれよ……人生はいっ時の旅路と言うじゃあないか。産着の隣に小刀抱えて産まれたあんたが、旅のお共にそんなつまらない杖を選ぶなんて、そんな事をさせるもんか。あんたは一生、鉄臭い血みどろの愛しい手のまんまさぁ』……」
人斬りの化け物は、こんな哀しい言い方をしない。こんな切々と、訴えかけるような、苦しい台詞ではなかった。
舞台で妖しく男をあざ笑い誘惑する女はどこにもおらず、ただ、突き出した刀で空を切り、ぐらりと舟から踏み出す男が一人。
「舎良殿!」
刀を握る手を強く柄頭で打つ。舎良の手から、とうとう刀が離れた。川に落ちそうな彼の身体を支えて引き戻す。濡れた舟に尻餅を着かせたせいで、結局、落ち武者姿の服は濡れてしまった。
「あ…………刀……」
「落ちていません」
拾ったのを見せる。丈夫だが見えづらい透明の糸の輪を飛ばして鍔に引っ掛け、引き寄せておいた。実はこの糸は橋の下流にも垂らして細工をしていたのだが、刀を取り上げた今、使うことにはならなさそうだ。
舎良はほっとしたような、悔しいような、曖昧な表情を見せた。
ヰヰヰヰヰヰヰ
「然牙様と出会ったのは、一年前だった」
橋の下、暗くなってゆく空を見ながら、舎良は話しだした。
「その数日前、俺は一本の刀を拾っていた。それが眠瞳の家宝だなんて知らなかったんだ。ただ、良い物だと思った。大事にしまいこんでいたから、俺の家に訪れた然牙様も見る機会は無かったし、俺も、しばらくは然牙様の探し物がそれだなんて思わなかった。でも……」
ある晩、酔った拍子に失せ物の装飾について細かく話をされて思い当たったのだという。
「その時は……俺が隠し持っていたと知られたくなかった。何とも分からない。とにかく、どこかよそで見つかった事にしなければと思った」
「その晩のうちに、ここ、橋の下に隠したのですね」
舎良は頷いた。
「何故、この場所を?」
「子供のころはこの近くに住んでいたから。たまに飴や玩具を隠していた事を思い出して……」
橋のあたりを思い返す。近くには住まいが立ち並び、酒場もある。細路地を抜けてしばらく行けば刀士方のお屋敷通り、眠瞳の家も近い。ここに住んでいたのか。
……何か。また、何かを見落としている気がする。
「……でも、うまく然牙様にお返しする方法が思いつかなかった。それに……俺は……」
「刀を返せば、然牙殿は屋敷にお戻りになり、もう関わることもなくなってしまう」
「はい……そう思って……俺はばかだった……」
舎良は頭を下げたまま息をつき、「そのうちに話が変わった」と続けた。
「橋の近くの酒場に、真珠殿……いえ、刀士がよく訪れるようになった事ですか?」
「恐怖だった。然牙様も橋を通るし、刀士様が連れ立って早足で歩けば音がするかもしれないし、小舟で月見酒をするのが流行りだというし……」
何かの拍子にばれてしまうのでは、と強く思っただろう。
「もう隠し通せそうにないなら、すっぱり刀をお返ししようと思った。でも、俺が持っていたことだけは知られたくなかった。まずもって、刀を持ち出そうにも酒場は夜中ずっと混んでいて、昼は人の目があるから、……舟を出して刀を持ち出す時間を作るために、橋に人が来ないようにしたいと思った」
「それで……」
「それで、芝居にならって亡霊を演じて、遠ざけようとした。然牙様は関係なく、俺が俺のためにやった悪事、です」
舎良は顔を上げて僕をまっすぐに見た。
「……なぜ、刀を使ったのですか」
「確実に刀士を橋から遠ざけるために。……騒ぎが大きくなれば、刀士は、刀を持ってあそこを通ると疑われることになるから、近寄らなくなる」
「それは……刀士に成りすまして、それこそ月見酒でもするふりをして、刀を手に入れることは考えませんでしたか」
「……無理です。墨染様と違って、芝居役者は舞台の外に衣装を持ち出せない。遠目に見たって刀士様に見える格好などできない」
僕は言葉に迷って舎良を見た。舎良の言葉にも目にも、滲むようなかすかな悪意だけが揺らいでいる。憎むというにはあまりに落ちた感情だった。
だから落ち武者なのだ。綺麗な服は無くとも、刀士のものと見紛うほどに汚すことはできるから。
「他に話は?」
「……二つあります。然牙様へはどのように刀をお返しになりましたか。そしてなぜ、刀を持ちだした後も今日まで亡霊騒ぎを続けたのですか」
興味で聞くのではない。騒ぎを収めるのに必要なはずだ。
「刀は……酒場の目立たないところに掛けてきた」
「え?」
「然牙様が一人で酒場に行く日を狙って、その少し前に……変装をしたし、混んでいる時間にしたから、俺だとは気づかれなかった」
「それは」
「……他に、思いつかなかったんだ。確実に然牙様にお返しできる方法が。他の場所では、誰かの手に渡るかもしれないから……」
「……そうでしたか」
「でも、その晩のうちに、落ち武者の亡霊がいきなり現れた眠瞳の刀に関係があるんじゃないかと噂になって……その噂が消えるまでは、続けなければいけなくなった。然牙様に、気づかれたくなかった……」
それで、続けてしまった。
「止め時は、決めていたのですか」
舎良はうすら笑って首を振った。
「結局、余計なことばかりしてしまった」
「まだ取り返しがつきます」
「どうかな」
「無かった事にはなりませんが、このくらいの刃傷沙汰で死罪になることは、ありません」
舎良は、僕を探るように見た。僕が裁きを出すわけではないから、それ以上のことは言えない。
「……刀の事は……ありかは、どこで気づいた?」
「然牙様との接点があるとお聞きした時です。今も続いている、つまり失せ刀を探すための落ち武者騒ぎでないのなら、貴方にはそもそも初めから刀を探す気がなかったことが分かります。刀は、最も正体が見えにくく威力の強い得物という意味が強いのではないか。……そう思ってみると、この騒動で重みを増すのが橋という場所です。最もありえそうに思ったのが橋の裏への隠し物でした」
「俺ははったりに乗せられたのか……」
その通りだ。
「もし橋の下に何も見つからなければ、諦めて直接貴方と然牙様にお尋ねしていたでしょう」
「……そうならなくて良かった」
震える手で舎良は僕の持つ刀に手を伸ばした。触れる気はないのか、途中で止める。
「俺が刀を持っていたことを、然牙様に、黙っていてくれますか」
「はい」
僕が解くべきは眠瞳の刀の行方ではない。人斬り事件が解決すれば、そこは秘め事のままで構わないはずだ。
「ただ、こちらの事件はおしまいにしなければなりません。舎良殿、どうかご自分で……」
「舎良!」
出頭を薦めようとしたそのとき、声が通った。戦場でも遠くまで届くはっきりした声だ。
「然牙さん……」
「ああん? 橋の下か?」
すぐに然牙の姿が川べりに見えた。
「ったくそんなとこで何してやがんだお前! 生きてんのか?」
「はい……」
「あー……生きてんな。何だぁ、試合か? お前負けちまったのか?」
「は、はい」
刀を二振り手にした僕を見て、然牙は「まあ墨染相手じゃあな」と笑った。やはり墨染を戦い好きか刀狂いと勘違いしている。
「にしちゃ、負けたって顔じゃあねえなあ?」
「……いえ、負けました。間違いなく」
舎良は僕の方を向く。
「ご迷惑をおかけしました。ええと……」
「霜月です」
「……霜月さん」
悪意の抜けた声だった。
話がついたのを待っていたのか、紫煙も然牙の隣に現れた。川岸に降りて、二艘の舟を端に寄せるのを手伝ってくれる。
「……霜月、お前さんは俺に謝ってもらうからな」
「始末書は書く」
「そういう問題じゃあない。なんで戦ってる」
なんで、とは何だ。
「もっと早くこうすべきだった、とは思っている」
「説教を楽しみにしてろよ」
聞き流して舎良と然牙を見る。話は後で、まずは舎良の濡れたぼろ服を替えようということで落ち着いたらしい。然牙はいくらか紫煙から話を聞いているらしく落ち着いていた。
「紫煙さん、それから手前も。迷惑かけたみたいで」
「俺は気にしないさ。そしてこいつは霜月」
「霜月ね」
僕へは目をくれるだけ。舎良を促して、二人肩を並べて歩き出すのを見送る。
つまりは、あまりにも遅かった。
二人が細路地へ向かうのを見ているうちに、僕は次第に、ずっと引っかかっていた事が何かだったのかひらめき、何をしてしまったのかに気づき、隣の男を見……思わず膝をついたが、もう紫煙を問い詰める気にも、ならなかった。
ヰヰヰヰヰヰヰ
隠しようがないほどしおらしくなった霜月を部屋に送り、「紫煙」は外に戻ってきた。あれでは説教しても意味がない。
小さく息をついて、椋実の建物に入り、灯りのついた部屋へと陽気に腕を掲げる。
「元気か? 烏羽」
がばりと紙束から顔を上げた長身の男は、「紫煙」を見るとすぐに表情を和らげる。
「ああ、ご機嫌よう、紫煙殿。今お戻りですか?」
「やっとあの件が片づいたんでな。お前は?」
「私の方はまだまだですよ。どこかのお気楽者が頭から抜けた螺子山で穴を開けたような書き方をした注文書きをあと十は直さないと」
烏羽はふぅと息をついて、肩を回した。人の体からとは思えないような硬い音がごきゅごきゅばきりと鳴る。
「片づいたのですね」
「お前たちのお陰でな。……なあ、あんまり虐めてやるなよ」
「何のことでしょう?」
明らかに心当たりがありそうな顔に、「紫煙」は苦笑する。
「今回はお手数をお掛けしました。しかし、召鼠はいつもの事ですが、霜月には蘭茶も相当調子を狂わされたんです。私共の動きに不良をきたす部品を、私は認められません」
烏羽は嫌そうに眉をひそめた。
「……蘭茶の拳も不意打ちも、一度も受けたことがなかったんですよ、あの男は。出会ってからずっと、どんな幸運があれ全て避け続けていたんです。異常でしょう」
「へーえ。そいつは羨ましいな」
「それであの単純が夢中になったんですよ。止めろと言って聞く奴じゃない。それだけです」
「蘭茶は強いからなあ」
「霜月も頭が回りません。あの馬鹿力なんて一度くらい適当に受け流して殴られておけばいいんです。それを無駄に逃げ回すから、ここまでこじれた。失態ですよ」
「はは、それもそうだ」
「はぁ……私は、あの男に狂いなどしませんよ。紫煙殿もお気をつけて」
「おー、お前からの助言なら、しっかと肝に銘じるさ」
「では、私はこれで」
「後始末、よろしくな」
「……お任せを」
ふらりと外へ出た「紫煙」の香り煙草の流れが、不自然に乱れた。
「僕に仕事を押し付けて楽しそうですね、『紫煙さん』」
いきなり現れた青年にも、「紫煙」は動じない。
「よっ、路考」
「探しましたよ」
と言いながら、青年、路考は「紫煙」の手に紙綴を押しつける。
「紫煙さんが言ったんでしょう、『造花』は真剣にしてくれって。そのせいで注文を書き換えることになって、烏羽さんにどれだけ嫌味を言われたことか」
「はっは、ありがとな」
「紫煙」はひらひらと手を振った。
「……それで、この『霜月さん』が紫煙さんの贔屓ですか?」
「路考」
「隠さなくて良いですよ。僕は案外、紫煙さんの事分かってると思うんです。紫煙さん、男もいける方でしょう?」
「ろーこーう? そのくらいにしとこうな?」
「? はい。紫煙さんがそう言うなら」
卑猥な手つきをした指を潰された青年は、首を傾げてにっこりと笑った。
ヰヰヰヰヰヰヰ
日が明けて、二つの知らせはたちまち街を駆けめぐった。
一つ、山吹橋の人斬り騒ぎの下手人が捕まった。
二つ、故あって刀士の家、眠瞳の血筋を隠し、市井で暮らしていた息子が、素性を明かし戻ってきた。その名は舎良。そう、『女子斬り』の刀技で名を上げた、あの色街の名役者の正体であるーー。
「報告書は昨日しっかり仕上げて出しておいた」
「そうか」
僕は綴り紙を伏せ、文字が目に入らないようにした。気が滅入りそうになる。似た理由で紫煙とも話したくない。
「いやいや、事は片付いたんだ。少し話そうぜ」
「話さずとももう全部分かっている」
「……まあ、大体はな」
明白だ。華々しく歓迎される刀士の御子息様が、同時に捕まるわけにはいかない。辻斬り事件は、別の者が下手人に仕立て上げられた。ちょうど都合よく暴れん坊で、刀を振り回しているところを町人に見られたこともある者に。
蘭茶だ。
今朝、面会を申し出たが認められなかった。おそらく僕に刀を渡したあの時には、蘭茶は己がこんな都合で捕まることになると知っていた。
……僕が、然牙と舎良の関係を見誤っていたせいだ。身分違いの衆道の恋人という間柄ではなかったのだ。
舎良は然牙の実の兄弟だった。もう一人いた眠瞳の男子との双子だ。縁起が悪いとして養子に出された舎良が健康に育つ一方、双子の兄は幼くして病死したという。
舎良の控えめなさまからすると、一生ただの町人として生きると思っていたのだろう。眠瞳が今さら舎良を欲したいきさつは分からない。然牙が関わっていそうだ。「良いものを見つけた」と酒場で紫煙に言ったのは、舎良のことに思える。
とにかく舎良は、人斬り事件を始めた時に思っていたよりも大事な身分になってしまった。ますます刀のことも言えなくなった。そしてもう一つ。眠瞳に引き取られるとなれば、もう芝居役者の道は閉ざされる。それは、舎良にとってどんな思いだっただろう。……舎良が夜ごと落ち武者を演じたのは、心の表れでもあった。思わず人斬りの化け物の言葉に心を同じくする時も、あったのではないだろうか。
そして、その心を踏みにじったのは僕だった。
昨日までなら、舎良が眠瞳の話を断り、正しく裁かれる道もあっただろう。
しかし、舎良が今も隠したいと思っている秘め事を僕が暴いてしまった。舎良が落ち武者亡霊の正体であるなら、秘め事を暴くことができると証明してしまった。秘め事を守るためには、己の罪が無くなるただ一つの道を選ばなければならなくなった。
「……そう落ちこむなよ」
全部僕の想像だ。そして、その妄想めいた考えの中では、紫煙は眠瞳の家を傷つけないように僕を騙した働き者だ。
舎良の生まれのことも、眠瞳が舎良を求めたことも、紫煙の立場なら知っているはずだ。然牙が刀を取り戻した経緯も全て。それをうまく僕に隠して、下手人が舎良だと気づいた後に情報を与えなかった。
もし僕が本当のことを明らかにしようとすれば、大変な混乱を生む。分かっているが、それでも、少し気の毒そうに僕を見る顔を睨んでしまう。
「……落ちこんでなどいない」
その資格もない。
まだ悪党の出張る時刻ではないだろう。普通なら。
近くに人気のないのを確かめて、僕は山吹橋の欄干に乗る。やはり目立つ。刃傷沙汰が噂になり、避けられていなければこんな事はできないだろう。もう一歩、擬宝珠に足を掛けて身体を引き上げる。
……町がよく見える。背が低いとはいえ僕よりは高い舎良には、もっと広く見渡せただろう。橋に近づく者が居るかどうか。夜なら灯りさえ見えれば良いのだ。
十分に待って、僕は枯洲川に飛び降りた。
……濡れる気はない。下にはぼろの小舟をつけている。酔っ払いになりすました時にも使ったばかりのものだ。あの時は橋の上を見張るのが目的だから、遠巻きに見張るばかりで下をくぐりはしなかった。
あの時、舟が橋に近づいたのを舎良は見ただろうか。見て焦っただろうか。
舟漕ぎの音がぼんやりと跳ね返る。橋の下、中央まで舟を進めて僕は橋の裏を見上げた。
山吹というくせに茶まで色あせた橋の裏側など、さらに傷んでいるに決まっていた。壊れているようには見えないが、いずれ直す話も出るだろう。
橋裏に張られた木組みの隙間に櫂を差し込んで船を寄せる。
詳しくないが橋の重みを支える造りだ。埃と油気のある汚れの張り付いた中に、明らかに汚れを拭き取られた場所がある。今触れても指が汚れないくらいだ。何か大切なものを布などに包んで、この隙間に置いておくことは出来るだろう。この範囲だと、大きさは例えば。
「刀ひと振り分」
櫂を引き抜いて振り抜く。
硬い音がして、同じように構えられた落ち武者男の櫂とぶつかった。
どれだけ静かに小舟を寄せても僕に気づかれないのは無理だ。最初から僕が振り向く事は織りこんでいただろう。
舎良の櫂は短くしつらえられ、より刀の長さに近い。いや、杖。『女子斬り』の舞台で使われるような長さか。舎良にとっては得手というわけだ。
……違う。櫂を持つ手が利き手ではない!
僕が櫂から手を離すのと寸刻も変わらずに、落ち武者ーー舎良の刀が、櫂を二本まとめて断ち斬った。
夕の空気に白月を描くような鮮やかさに目を奪われる。とっさに腰に納めた造花に手をかければ、悪意の響がいっそう強く、僕を打った。
「舎良殿!」
呼びかけに、舎良はやっと病人の仮面を外し、投げ捨てて僕を見た。そして、大人しい芸街の町人という仮面も。
悪意の響が変わらぬ激しさで僕を斬る。斬ってしまえば全てがうまくいくとでも言いたげに。慣れた感覚。刀士相手ならば、何度も感じてきたものだ。やはり、癖が然牙と似ている。
(そうか)
巴の烏羽はああ言ったが、恐らく、僕が最初に落ち武者とまみえたあの時、まともに刀で向かっても結果はさして変わらなかっただろう。
刀を交えることが目的ではない。その段は、とうに過ぎている。嫌と言うほど響が伝えてくる。
では何だ? 何が舎良の。
「!」
互いに考えがひと巡りしたかのように、かすかに動き、目が合う。次いで、互いに右へ踏み出していた。右が利き手だ。そして僕も舎良も、相手を川に落としてはやりづらくなる。互いに振った刀筋を綺麗に避け合って、自然、互いの舟へと飛び移り、立ち位置を入れ替える形になった。振り返れば振り返る舎良と目が合う。
小舟でなければこうはならなかった。揺れる上に決して平らでない場所というのは舎良の得意ではないようだ。僕だってそうだ。そして、こうなったのは互いが飛び道具を使うせいだ。僕は瓦斯から逃れやすい川面の舟に誘い込み、舎良はまだ明るく、針が光って見える夕方だから誘いに乗った。そういう釣り合いになっている。
ほとんどぶつかり合い、揺れながら、二つの舟は少しずつ下流へ流されている。今僕が向いている方へ、舎良の背の方へ。今は橋の下だが、そのうち通り抜ける。僕と舎良の均衡も一時のものだ。
「殺す気で構いません。話を!」
最後までは言い切れない。突くようで少し傾義ながら繰り出された刃は、避けやすいが型通りの反撃をしにくい。
「話を! 聞いてください!」
斬るためや反撃ではなく、距離を取るために刃を振る。
刀士の教えを受けた舎良は、刃先と刃先をかち合わせて互いの刀を損ねてはいけないと知っている。芝居の技としてする事はあるだろうに、その素振りもない。もし打ち合えば墨染の技術で舎良の刀を折れたのだが。
「このことを然牙様にお伝えするつもりはありません」
こんな言い方をするつもりはなかった。怒りがくっきりと悪意の刀筋となり、狭まった殺意の響は感じ取りやすくなる。それでも、怒らせる気はなかった。
「っ」
甘い牽制の刃を読まれ、逆に押し込まれる。速い。舎良は怒ると刀技が冴える。本物の刀の重さを普段から全力で振ることに慣れていないと、怒りに任せて振るくらいがちょうど良い力加減になることがある……
どこかでそんなものを見かけたような気がしながら、響の隙間に転げこむ。舎良の腕を掴む。
「今が止め時ではありませんか」
「お前……」
「何も知らない門外漢だからこそ言います。終わりにしませんか」
ただ幕を下ろせば芝居が終わるわけではない。僕には、舎良が物語の顛末を決められず、演じられずにただ舞台に立っているように思えた。もしかしたら、……誰か斬り殺しでもして、取り返しのつかない男を演じて幕を引こうとしてはいないか。そう思えてしまった。
「……『恨めしや』……」
やっと口を開いた舎良は、夢うつつのような声をこぼした。
「……『ああ、労しや、愛し、憎しや……』……」
「っ!」
船が大きく揺れる。僕が舟板を蹴って離れるのと、舎良が無闇に刀を振り回すのが重なって大きくぐらつく。
「『あたしに百本捧げると、言ったじゃあないかあんた確かに!』」
袖を切り裂かれる。
「『あああ、恨めしいおひと。大嘘つきの人でなし。あああ、この国の果てまで、追って呪って愛し続けても、まだ足りないおとこ! ああ恨めしや、許せぬ、許せぬ、あたしから離れるなんて……ひひひひひひひっ!』」
……『女子斬り』の台詞だ。それも主役の男ではなく、男に取り憑く人斬りの化け物女の。決して舎良が演じる事はなく、しかしずっと舞台で聴き続けてきた声。
「『酷いじゃないかぁ、ご主人様ぁ……あたしを忘れたなんて言うなら、人斬りの技持つ腕なぞ、斬り落として二度と使えなくしてやろうさ。あたしを忘れちゃいないなら、』」
ぐっと言葉に詰まる。舟が傾いで濡れた足元が意識を削いだせいか、憑かれたような気迫と裏腹に技術の鈍る刀を僕に捌かれたせいか。
「……『あたしを、忘れちゃいないなら、ねえあんた、刀を使っておくれよ……人生はいっ時の旅路と言うじゃあないか。産着の隣に小刀抱えて産まれたあんたが、旅のお共にそんなつまらない杖を選ぶなんて、そんな事をさせるもんか。あんたは一生、鉄臭い血みどろの愛しい手のまんまさぁ』……」
人斬りの化け物は、こんな哀しい言い方をしない。こんな切々と、訴えかけるような、苦しい台詞ではなかった。
舞台で妖しく男をあざ笑い誘惑する女はどこにもおらず、ただ、突き出した刀で空を切り、ぐらりと舟から踏み出す男が一人。
「舎良殿!」
刀を握る手を強く柄頭で打つ。舎良の手から、とうとう刀が離れた。川に落ちそうな彼の身体を支えて引き戻す。濡れた舟に尻餅を着かせたせいで、結局、落ち武者姿の服は濡れてしまった。
「あ…………刀……」
「落ちていません」
拾ったのを見せる。丈夫だが見えづらい透明の糸の輪を飛ばして鍔に引っ掛け、引き寄せておいた。実はこの糸は橋の下流にも垂らして細工をしていたのだが、刀を取り上げた今、使うことにはならなさそうだ。
舎良はほっとしたような、悔しいような、曖昧な表情を見せた。
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「然牙様と出会ったのは、一年前だった」
橋の下、暗くなってゆく空を見ながら、舎良は話しだした。
「その数日前、俺は一本の刀を拾っていた。それが眠瞳の家宝だなんて知らなかったんだ。ただ、良い物だと思った。大事にしまいこんでいたから、俺の家に訪れた然牙様も見る機会は無かったし、俺も、しばらくは然牙様の探し物がそれだなんて思わなかった。でも……」
ある晩、酔った拍子に失せ物の装飾について細かく話をされて思い当たったのだという。
「その時は……俺が隠し持っていたと知られたくなかった。何とも分からない。とにかく、どこかよそで見つかった事にしなければと思った」
「その晩のうちに、ここ、橋の下に隠したのですね」
舎良は頷いた。
「何故、この場所を?」
「子供のころはこの近くに住んでいたから。たまに飴や玩具を隠していた事を思い出して……」
橋のあたりを思い返す。近くには住まいが立ち並び、酒場もある。細路地を抜けてしばらく行けば刀士方のお屋敷通り、眠瞳の家も近い。ここに住んでいたのか。
……何か。また、何かを見落としている気がする。
「……でも、うまく然牙様にお返しする方法が思いつかなかった。それに……俺は……」
「刀を返せば、然牙殿は屋敷にお戻りになり、もう関わることもなくなってしまう」
「はい……そう思って……俺はばかだった……」
舎良は頭を下げたまま息をつき、「そのうちに話が変わった」と続けた。
「橋の近くの酒場に、真珠殿……いえ、刀士がよく訪れるようになった事ですか?」
「恐怖だった。然牙様も橋を通るし、刀士様が連れ立って早足で歩けば音がするかもしれないし、小舟で月見酒をするのが流行りだというし……」
何かの拍子にばれてしまうのでは、と強く思っただろう。
「もう隠し通せそうにないなら、すっぱり刀をお返ししようと思った。でも、俺が持っていたことだけは知られたくなかった。まずもって、刀を持ち出そうにも酒場は夜中ずっと混んでいて、昼は人の目があるから、……舟を出して刀を持ち出す時間を作るために、橋に人が来ないようにしたいと思った」
「それで……」
「それで、芝居にならって亡霊を演じて、遠ざけようとした。然牙様は関係なく、俺が俺のためにやった悪事、です」
舎良は顔を上げて僕をまっすぐに見た。
「……なぜ、刀を使ったのですか」
「確実に刀士を橋から遠ざけるために。……騒ぎが大きくなれば、刀士は、刀を持ってあそこを通ると疑われることになるから、近寄らなくなる」
「それは……刀士に成りすまして、それこそ月見酒でもするふりをして、刀を手に入れることは考えませんでしたか」
「……無理です。墨染様と違って、芝居役者は舞台の外に衣装を持ち出せない。遠目に見たって刀士様に見える格好などできない」
僕は言葉に迷って舎良を見た。舎良の言葉にも目にも、滲むようなかすかな悪意だけが揺らいでいる。憎むというにはあまりに落ちた感情だった。
だから落ち武者なのだ。綺麗な服は無くとも、刀士のものと見紛うほどに汚すことはできるから。
「他に話は?」
「……二つあります。然牙様へはどのように刀をお返しになりましたか。そしてなぜ、刀を持ちだした後も今日まで亡霊騒ぎを続けたのですか」
興味で聞くのではない。騒ぎを収めるのに必要なはずだ。
「刀は……酒場の目立たないところに掛けてきた」
「え?」
「然牙様が一人で酒場に行く日を狙って、その少し前に……変装をしたし、混んでいる時間にしたから、俺だとは気づかれなかった」
「それは」
「……他に、思いつかなかったんだ。確実に然牙様にお返しできる方法が。他の場所では、誰かの手に渡るかもしれないから……」
「……そうでしたか」
「でも、その晩のうちに、落ち武者の亡霊がいきなり現れた眠瞳の刀に関係があるんじゃないかと噂になって……その噂が消えるまでは、続けなければいけなくなった。然牙様に、気づかれたくなかった……」
それで、続けてしまった。
「止め時は、決めていたのですか」
舎良はうすら笑って首を振った。
「結局、余計なことばかりしてしまった」
「まだ取り返しがつきます」
「どうかな」
「無かった事にはなりませんが、このくらいの刃傷沙汰で死罪になることは、ありません」
舎良は、僕を探るように見た。僕が裁きを出すわけではないから、それ以上のことは言えない。
「……刀の事は……ありかは、どこで気づいた?」
「然牙様との接点があるとお聞きした時です。今も続いている、つまり失せ刀を探すための落ち武者騒ぎでないのなら、貴方にはそもそも初めから刀を探す気がなかったことが分かります。刀は、最も正体が見えにくく威力の強い得物という意味が強いのではないか。……そう思ってみると、この騒動で重みを増すのが橋という場所です。最もありえそうに思ったのが橋の裏への隠し物でした」
「俺ははったりに乗せられたのか……」
その通りだ。
「もし橋の下に何も見つからなければ、諦めて直接貴方と然牙様にお尋ねしていたでしょう」
「……そうならなくて良かった」
震える手で舎良は僕の持つ刀に手を伸ばした。触れる気はないのか、途中で止める。
「俺が刀を持っていたことを、然牙様に、黙っていてくれますか」
「はい」
僕が解くべきは眠瞳の刀の行方ではない。人斬り事件が解決すれば、そこは秘め事のままで構わないはずだ。
「ただ、こちらの事件はおしまいにしなければなりません。舎良殿、どうかご自分で……」
「舎良!」
出頭を薦めようとしたそのとき、声が通った。戦場でも遠くまで届くはっきりした声だ。
「然牙さん……」
「ああん? 橋の下か?」
すぐに然牙の姿が川べりに見えた。
「ったくそんなとこで何してやがんだお前! 生きてんのか?」
「はい……」
「あー……生きてんな。何だぁ、試合か? お前負けちまったのか?」
「は、はい」
刀を二振り手にした僕を見て、然牙は「まあ墨染相手じゃあな」と笑った。やはり墨染を戦い好きか刀狂いと勘違いしている。
「にしちゃ、負けたって顔じゃあねえなあ?」
「……いえ、負けました。間違いなく」
舎良は僕の方を向く。
「ご迷惑をおかけしました。ええと……」
「霜月です」
「……霜月さん」
悪意の抜けた声だった。
話がついたのを待っていたのか、紫煙も然牙の隣に現れた。川岸に降りて、二艘の舟を端に寄せるのを手伝ってくれる。
「……霜月、お前さんは俺に謝ってもらうからな」
「始末書は書く」
「そういう問題じゃあない。なんで戦ってる」
なんで、とは何だ。
「もっと早くこうすべきだった、とは思っている」
「説教を楽しみにしてろよ」
聞き流して舎良と然牙を見る。話は後で、まずは舎良の濡れたぼろ服を替えようということで落ち着いたらしい。然牙はいくらか紫煙から話を聞いているらしく落ち着いていた。
「紫煙さん、それから手前も。迷惑かけたみたいで」
「俺は気にしないさ。そしてこいつは霜月」
「霜月ね」
僕へは目をくれるだけ。舎良を促して、二人肩を並べて歩き出すのを見送る。
つまりは、あまりにも遅かった。
二人が細路地へ向かうのを見ているうちに、僕は次第に、ずっと引っかかっていた事が何かだったのかひらめき、何をしてしまったのかに気づき、隣の男を見……思わず膝をついたが、もう紫煙を問い詰める気にも、ならなかった。
ヰヰヰヰヰヰヰ
隠しようがないほどしおらしくなった霜月を部屋に送り、「紫煙」は外に戻ってきた。あれでは説教しても意味がない。
小さく息をついて、椋実の建物に入り、灯りのついた部屋へと陽気に腕を掲げる。
「元気か? 烏羽」
がばりと紙束から顔を上げた長身の男は、「紫煙」を見るとすぐに表情を和らげる。
「ああ、ご機嫌よう、紫煙殿。今お戻りですか?」
「やっとあの件が片づいたんでな。お前は?」
「私の方はまだまだですよ。どこかのお気楽者が頭から抜けた螺子山で穴を開けたような書き方をした注文書きをあと十は直さないと」
烏羽はふぅと息をついて、肩を回した。人の体からとは思えないような硬い音がごきゅごきゅばきりと鳴る。
「片づいたのですね」
「お前たちのお陰でな。……なあ、あんまり虐めてやるなよ」
「何のことでしょう?」
明らかに心当たりがありそうな顔に、「紫煙」は苦笑する。
「今回はお手数をお掛けしました。しかし、召鼠はいつもの事ですが、霜月には蘭茶も相当調子を狂わされたんです。私共の動きに不良をきたす部品を、私は認められません」
烏羽は嫌そうに眉をひそめた。
「……蘭茶の拳も不意打ちも、一度も受けたことがなかったんですよ、あの男は。出会ってからずっと、どんな幸運があれ全て避け続けていたんです。異常でしょう」
「へーえ。そいつは羨ましいな」
「それであの単純が夢中になったんですよ。止めろと言って聞く奴じゃない。それだけです」
「蘭茶は強いからなあ」
「霜月も頭が回りません。あの馬鹿力なんて一度くらい適当に受け流して殴られておけばいいんです。それを無駄に逃げ回すから、ここまでこじれた。失態ですよ」
「はは、それもそうだ」
「はぁ……私は、あの男に狂いなどしませんよ。紫煙殿もお気をつけて」
「おー、お前からの助言なら、しっかと肝に銘じるさ」
「では、私はこれで」
「後始末、よろしくな」
「……お任せを」
ふらりと外へ出た「紫煙」の香り煙草の流れが、不自然に乱れた。
「僕に仕事を押し付けて楽しそうですね、『紫煙さん』」
いきなり現れた青年にも、「紫煙」は動じない。
「よっ、路考」
「探しましたよ」
と言いながら、青年、路考は「紫煙」の手に紙綴を押しつける。
「紫煙さんが言ったんでしょう、『造花』は真剣にしてくれって。そのせいで注文を書き換えることになって、烏羽さんにどれだけ嫌味を言われたことか」
「はっは、ありがとな」
「紫煙」はひらひらと手を振った。
「……それで、この『霜月さん』が紫煙さんの贔屓ですか?」
「路考」
「隠さなくて良いですよ。僕は案外、紫煙さんの事分かってると思うんです。紫煙さん、男もいける方でしょう?」
「ろーこーう? そのくらいにしとこうな?」
「? はい。紫煙さんがそう言うなら」
卑猥な手つきをした指を潰された青年は、首を傾げてにっこりと笑った。
ヰヰヰヰヰヰヰ
日が明けて、二つの知らせはたちまち街を駆けめぐった。
一つ、山吹橋の人斬り騒ぎの下手人が捕まった。
二つ、故あって刀士の家、眠瞳の血筋を隠し、市井で暮らしていた息子が、素性を明かし戻ってきた。その名は舎良。そう、『女子斬り』の刀技で名を上げた、あの色街の名役者の正体であるーー。
「報告書は昨日しっかり仕上げて出しておいた」
「そうか」
僕は綴り紙を伏せ、文字が目に入らないようにした。気が滅入りそうになる。似た理由で紫煙とも話したくない。
「いやいや、事は片付いたんだ。少し話そうぜ」
「話さずとももう全部分かっている」
「……まあ、大体はな」
明白だ。華々しく歓迎される刀士の御子息様が、同時に捕まるわけにはいかない。辻斬り事件は、別の者が下手人に仕立て上げられた。ちょうど都合よく暴れん坊で、刀を振り回しているところを町人に見られたこともある者に。
蘭茶だ。
今朝、面会を申し出たが認められなかった。おそらく僕に刀を渡したあの時には、蘭茶は己がこんな都合で捕まることになると知っていた。
……僕が、然牙と舎良の関係を見誤っていたせいだ。身分違いの衆道の恋人という間柄ではなかったのだ。
舎良は然牙の実の兄弟だった。もう一人いた眠瞳の男子との双子だ。縁起が悪いとして養子に出された舎良が健康に育つ一方、双子の兄は幼くして病死したという。
舎良の控えめなさまからすると、一生ただの町人として生きると思っていたのだろう。眠瞳が今さら舎良を欲したいきさつは分からない。然牙が関わっていそうだ。「良いものを見つけた」と酒場で紫煙に言ったのは、舎良のことに思える。
とにかく舎良は、人斬り事件を始めた時に思っていたよりも大事な身分になってしまった。ますます刀のことも言えなくなった。そしてもう一つ。眠瞳に引き取られるとなれば、もう芝居役者の道は閉ざされる。それは、舎良にとってどんな思いだっただろう。……舎良が夜ごと落ち武者を演じたのは、心の表れでもあった。思わず人斬りの化け物の言葉に心を同じくする時も、あったのではないだろうか。
そして、その心を踏みにじったのは僕だった。
昨日までなら、舎良が眠瞳の話を断り、正しく裁かれる道もあっただろう。
しかし、舎良が今も隠したいと思っている秘め事を僕が暴いてしまった。舎良が落ち武者亡霊の正体であるなら、秘め事を暴くことができると証明してしまった。秘め事を守るためには、己の罪が無くなるただ一つの道を選ばなければならなくなった。
「……そう落ちこむなよ」
全部僕の想像だ。そして、その妄想めいた考えの中では、紫煙は眠瞳の家を傷つけないように僕を騙した働き者だ。
舎良の生まれのことも、眠瞳が舎良を求めたことも、紫煙の立場なら知っているはずだ。然牙が刀を取り戻した経緯も全て。それをうまく僕に隠して、下手人が舎良だと気づいた後に情報を与えなかった。
もし僕が本当のことを明らかにしようとすれば、大変な混乱を生む。分かっているが、それでも、少し気の毒そうに僕を見る顔を睨んでしまう。
「……落ちこんでなどいない」
その資格もない。
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