うら記憶庫の大罪人

山の端さっど

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「わたし、『うらがわ』じゃない場所、つまり『おもてがわ』? ではとーっても有名だったんですよ」
「知るか」
「まあ、国内では、ですけどぅ。対話英語苦手なので」

 亜藤あとう譚子はなしこはほかほかの重たい鍋をテーブルに置いた。(重たいんなぁ)と思いながら。中にはよく分からない脂と野菜と魚っぽいもの。レシピブックと体感では一般的な野菜炒め。「いただきます」と手を合わせて、よく噛んで食べ始める。

「その名誉欲や虚飾が『うらがわ』に透けて写る」

「おもてがわ」と「うらがわ」は、名前に反して完全な鏡写しの世界ではないらしい。「大罪人」いわく、

「質の悪い片面チラシ」
「生活感ある例えなのが気になりますけどぅ、紙の裏側にインクが微妙に届いているって事ですね」

「おもてがわ」の人々や感情や物事が、薄っぺらくぼんやり反映されているらしい世界。それは物理法則とかにも反映されていて、どう見ても重いはずのぶ厚い鍋を軽く感じたりする。

「だから味の濃い調味料もないんですねぇ。お砂糖はちゃんと甘くて良かった」
「……」
「あ、これは『大罪人』さんの好みですか」

 記憶庫の「倉庫」たる機能は主に一階らしい。裏から上る階段上の二階スペースは家のようになっていた。ダイニングキッチンらしい今の場所と作業場らしい場所と二人分の私室らしい場所と物置。以上。色々足りない。

「そういう事なら、『うらがわ』の皆さんは色々が無くても良いんでしょうけど……わたしには必要ですよね?」
「さあな」
「その、ト、お風呂とか」
「ある」
「え、あるんですか?」
「『氷屋』」
「こお……家の中には無いんですね」
「行くなら10分で食え」

 譚子は鍋の残りと「大罪人」を交互に見て、悲しげな顔をした。

「わたし、よく噛まないと飲みこみたくないんですぅ……」




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 意外なことに記憶庫のある小島の裏手には小舟が繋がれていて、二人までなら島と外を行き来できるようになっていた。

「島に完全に閉じ込められてるんじゃないんですねぇ」
「数日で餓死するな。お前が」
「んん、でもこれ使いこまれた舟ですし、わたしが来る前に『大罪人』さんのために用意されたものでしょう」

 小柄なのに体力があるらしい「大罪人」の漕ぐ動力で舟は紫の海を進んでいく。譚子も手伝おうとしたが断られる。

「手袋が要る。今は一組だけだ」
「そのしっかりした革手袋。ここの水ドロッとしてますから力が要るってことですか? 素手でオール使ったらタコができちゃうレベルとか」
「まあな」
「ふぅん……タコができても良ければ、わたし、この舟で好きなところに行けちゃったり?」

 ちゃぷちゃぷと水面が揺れ始める。無言で「大罪人」が指差した遠くに、大きな渦潮ができていた。

「あれを越せるのは『渡し屋』の舟だけだ」
「なるほど……あれを避ける範囲内では、たいした所には行けないんでしょうね」
「ここがお前の行きたがっているだ」
「そういう意味で言ったんじゃないですよぅ」

「記憶庫」よりは大きな島に舟が止まる。
 パッと見える建物は三つ。そのうち一つは船着き場の小屋らしい。「大罪人」は陸に上がり、青いのれんがかかった大きい建物によどみなく入っていく。

「『氷屋』、貸せ」
「えー、あー、さっきー」

 マイペースな自覚がある譚子よりも更にのんびりとした雰囲気の青年を無視して「大罪人」は先に進んでいく。譚子は立ち止まって彼に挨拶した。

「こんにちは、『氷屋』さん」
「きー」
「き?」
「みが、アトさんかー」
「アトウですぅ。亜藤譚子。よろしくお願いします?」
「うんー、うん。あのねー奥には今ー、入らない方がー、いーと思うなー」
「何故です?」
「うんーとねー」

 話しながら譚子は「氷屋」の姿をよく見る。花は生えていない。全身がモノクロな印象を受ける――具体的には、少し明るい灰色ベースに統一されている。結んでなお肩まで届く髪も、たれ目も、清潔そうなツナギ服もそうだ。声色も併せて人形が動いているような非現実感がある。ただ――

「汚れてるからー」
「何かお風呂で作業を?」
「あははー、ここ『氷屋』だからさー。本当はー作業場なんだー」
「ははあ、作業場」

 ――手にだけ妙な現実感、存在感。職人らしさのある固そうなタコができていた。

「氷の彫刻職人さん?」
「せいかーいー」
「何をしている。早く入れ」
「あ、『大罪人』さん」
「お前は沈んでおけ」
「あははー、それはど」

 ゴン。ひどく硬いものを叩く音がした。

「……『大罪人』さん? なんで今、急に人を殴って気絶させたんですぅ?」

 もちろん殴られたのは、元気に喋っている譚子ではない。

「仕事だ」
「仕事? あの、『氷屋』さん大丈夫なんですよね?」

 フードの下の感情はやはり読めない。

「5分で済ませろ」

 そう言うと、「氷屋」のツナギの襟をひっ掴んで引きずっていく。

「えっ、本当に大丈夫ですぅ……?」


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「……ここで結局お風呂に足が向かうわたしって、状況に流されすぎなのか、ちゃんと乙女らしさがあるってことなのか……この二択しか出てこない時点で思考放棄ですぅ……」

 銭湯のような場所は、鉄サビのような臭いがするものの、「汚れて」はいない。その代わり、砕かれた細かな氷の破片が無数に散らかっていた。

「ここ、本当に作業場なんですね」

 足を怪我しないようサンダルを履いて入り、洗い場でちんまりシャワーを浴びる。

「わたしの髪とか体、全然汚れてる感じがしないんですけど……もしかして、ここにいるとわたしも、『存在感』薄くなってお風呂とかト……お花摘みとか、不要になっちゃったりしてます……? でもゆるくお腹は空いたし、いざ『摘みたくなった』時に慌てるのは嫌ですし……」


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「お風呂ありがとうございます。でも5分は無理でしたぁ……」

 とはいえ着替え等々含めて20分ほどのスピードコース。

「あれ、すぐに『大罪人』さんが出てきて遅いとかって言われる気がしてたんですけど、無人? もしかしてお一人で帰っちゃいました?」
「ちがうよー」
「あ、『氷屋』さんお疲れ様です?」
「なんだかー、アトさんってー、応援したくーなるねー」
「はい? ありがとうございます?」
「うんー、だからちょっとー、作ってみようかな」

「氷屋」は近くの引き戸を開く。ふーっと冷気が廊下に広がり、譚子の背の倍ほどのゴツゴツした氷の塊が姿を見せた。作りかけらしい凹凸に足を引っ掛けて直接氷に登った「氷屋」は、ノミを取り出して氷に打ちつけ始める。

「えっと、『氷屋』さん?」
「すぐできるよー」
「そのぅ、『大罪人』さんはどちらです? わたし、あまり待たせるわけには」
「すぐおきるよー」
「はい?」

 殴られたのは「氷屋」ではなく「大罪人」の方だっただろうか? 廊下の奥に横たわっているのは間違いなく「大罪人」だった。ぴくりとも動かない。

「か、返り討ち?」
「うんー?」

 氷の欠片がかき氷のように削られ、雪のように降り落ちる。(どこかの映画でこんなシーンを見たなあ)と思いながら、譚子はそろそろと氷から離れ、「大罪人」の方にゆっくり近づいた。

(息、してる)

 かすかに上下する胸と温度を感じない微風。フードをそっと脱がせると、深い藍色の髪の中から、譚子には思いもかけず――あまりにも無垢な少年の顔が現れた。

「っ……『大罪人』、さん……?」
「できるよー」
「っ!」

 振り返ると、氷のしぶきがぴたり、と止んだ。驚くほどのスピードで仕上げられた乙女の氷像の全体が見える。

「できるー」

 顔が譚子そっくりだ。その頭のてっぺんに、ぽんと「氷屋」は左手を置いた。頭でも撫でるように。優しい笑みを浮かべる。

「今できるよー」

 最後に左の小指をノミで落とした。

「できたー」
「え……」
「どうー? けっこー傑作かなーってー、思うんだけどー」
「『こ』……『おり屋』、さん、指が、とれて、ます」
「とったねー」
「もし、かしたら、『うらがわ』の、人たちの体はそういうの大丈夫かもしれないんですけど『おもて』ではその出血を放置するのは危険で氷の上に置いておいた指は手術しても繋がらなくなってしまう可能性があって、」

 パニックで言葉があふれてくる譚子の頭に「氷屋」は右手を置く。譚子は飛び跳ねるようにして離れた。

「大丈夫だよー。ジョークだしー」
「その大丈夫は信用できません」
「ぼくの体はー、『おもて』のとは違うからー、どこに置いておいたっていいんだー」
「……嘘ない、みたいですね……でも止血はしてください。あなたの体に支障がないとしても」

 上から真っ赤に染まっていく氷像は目を背けるには大きすぎる。譚子は頭に巻いていたタオルをほどくと「氷屋」の手を分厚く包んだ。

「血に触っちゃいけないから、ええとぅ、」
「離れろ」

「大罪人」の声と、氷を砕くような恐ろしい音がして「氷屋」の体は横に吹っ飛んだ。廊下の壁に強く打ち付けられる。
 ……そのまま動かなくなったのを見て、痛むのか拳を押さえて、小さく「大罪人」は吐息をつく。

「今度は足りたか」
「さ、先ほどは昏倒させるほどのパワーに足りていなかったと?」
「不足すれば反射し、同じ力が自分に返る」
「はい?」
「同じ力で殴り返された」
「目には目を、な反撃を受けたって話……で、すぅ?」

「大罪人」は首を振ってフードを被り直した。

「ただの反射だ。自動的に。全てにおいて氷で鏡。こいつはそういう存在だ」
「その言い方だと、『氷屋』さんの意思とは関係なく起きる現象みたいに聞こえますぅ。全てが」
「そう言った。言動全てだ。お前が『興味』を向けた分、こいつがお前に『興味』を持ったように」
「興、味。これが?」

 譚子は氷像を見た。氷の顔を染めた真っ赤なものは、もう凍りついている。

「これが『氷屋』さんの、感情の表現方法? 反射?」

「大罪人」は答えずに、「氷屋」の頭に手をかざす。譚子にやったのと同じように、ふわりふわりと白いもやが出てくる。それを全部瓶に詰めていく。かなりの量だ。

「あの、勝手に記憶取るんですか?」
「仕事と言っただろう。手伝え」
「『記憶庫』の番人としての仕事?」
「リセットして乱反射を防ぐ」
「これを定期的にしないと、『氷屋』さんの、その、『反射』がおかしくなる?」
「平らな鏡なら光の跳ね返る先は分かるが、歪めば予想できない場所に反射し、世界を歪ませる」
「もしかしていつも、こうやって気絶させて、記憶取ってるんですか。本人の了承は無しで」
「だと言ったら?」
「……郷にっては郷に従いますぅ。でも記憶、無くなっちゃうんですよね」
「残るものは残る」
「それは……あ、指!」
「処置は不必要だ」
「……?」

 触れると柔らかい玉を瓶に詰める作業は、二人がかりでも、お風呂に入るより長い時間がかかった。

「帰る」
「血まみれの怪我人を放っておいて?」
「もう止まった」
「確かになぜか止まってますけど……んんんんん……不承不承ふしょうぶしょうですぅ……」




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 船は揺れる。

「『氷屋』さん、わたしと出会ったこと覚えてます?」
「ああ」
「では、わたしに興味を向けられたこと忘れます?」
「ある程度」
「んん……では、わたしに興味をことは?」
「忘れる」
「つまりハウリングを防ぐのが記憶処置なんですね。だから、一応日常生活に支障はなくて……そうじゃなくてですね。そんなことの確認が、一番気になっているわけじゃなくて」

 譚子はうなだれた。

「わたし、ダメな探偵ですぅ……」
「何処が」
「探偵にも二種類ありまして。一つは大事件の芽を未然に摘み取るタイプの、浮気調査とか素性調査とか行方不明者捜索とかをする二級探偵。もう一つは大きな事件解決のために動く一級探偵で、わたしはすらろくに知らない一級なんですよぅ」
「一級の方が上?」
「一級事件二級事件にそれぞれ対応してるだけで、一級が二級の完全上位互換ってわけじゃないんですぅ。一級探偵は、この仕事以外では社会に入れないような人の掃き溜めですよぅ。コミュ障でも心の広さ1cm角でも、酷い事件を面白がるサイコパスでもなれてしまう職です」
「サイコパスか」
「ダメです、わたし、本当にダメで、ああいう人に絶対深入りしちゃダメなんですけど……『氷屋』さんの心情がめちゃくちゃ気になってます。あの、『大罪人』さん」
「……何だ」
「つまり、『氷屋』さんに指一本落とさせるほどの感情を、わたしが『氷屋』さんに向けちゃったってことですよね。わたしが、体を欠損してもいいくらい身を乗り出して『興味』を向けてしまったから、おまけに『失敗』したから、『氷屋』さんは、わたしにその感情を返した。返さなきゃいけなくなったってことですよね」
「……」
「やっと分かりました。この『うらがわ』の人にとって、感情がどれだけ危険なものか。歪んだ世界がとんでもないものになりそうだってことが。わたし、メンタルトレーニングしなきゃですね」
「そうか」
「……」

 渦の近くを抜けて舟が安定した。

「あの、もう一つ質問が。『氷屋』さんって普段は何の血を使ってるんですか?」
「……」
「お風呂でも血の匂いを感じました。古い血で鉄サビみたいになってましたけど、『氷屋』さんの、その、血の臭いとはだいぶ違いました」
「……」
「わたし、嗅覚にも多少の自信はあるんですよぅ。体臭の違いみたいに血の臭いの違いがあって……はい……これ興味の感情大きすぎます? 黙った方が良いですぅ?」
「……ふ」
「えっ今どうして笑うんですか?」
「世界は壊れない」

 いつの間にか到着していたらしい。島の裏手に舟を漕ぎ寄せて「大罪人」はひらりと陸に飛び移った。

「歪ませるものは全て、この記憶庫が呑み込んでやる。……仕事だ。記憶庫に来い」

 ネックレスのように掛けていた鍵を取り出して、「大罪人」は表側から一階の扉を開いた。
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