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15と血
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「紙背」
須図さんが後ろから話しかけてくるのは少し予想外だった。
「……やっぱり気づいてたって顔しやがるんだな」
足音も呼吸も体臭もほとんど消さずに背後からやってきてそれはない。先日バス停で会ったときも履いていた靴で、青丹さんの前でも何度か着ていた服で、僕に引き継ぎをしてくれた頃から変わらない腕時計の針の音で。こんな時に、こんな状況で気づかないふりをしてもきっと意味がない。
それに比べて、もう一人には全く覚えがない。音という音をほとんど立てずに歩く。薬草のような特徴的な匂いがする。たぶん全身から。香油でも塗っているんだろうか。
今さっき、人気の少ない道を歩いていたら、その人に背後からいきなり殴られた。
まだ意識があるのが不思議だ。血が片目に流れてきたこともあって視界ははっきりしない。視界に回りこんできた須図さんの表情も分からない。ろくに喋れそうにもない。
いや、正確に人体を理解して、僕の動きを止めても意識は残るように打ったのかもしれない。少なくとも、こんな強い匂いをさせながら、僕が背後を不審がって振り返るよりも速く動ける人だ。医学知識と道具か超能力があれば調節もできるだろう。この後すぐに意識を失う一撃が追加されるだろうか。その前に、何か……
かたん。スマホが震えてファッションエプロンのポケットから落ちた。この振動は青丹さん。すぐに取り上げられて電源を切られる。同時に、須図さんのスマホらしき着信音も鳴る。
「電話してくんな。今急いで……は? 知るか。丹生子はそっちでどうにかしろ。……はあ……」
電話を切って舌打ちした須図さんが顔を蹴った。僕の。
『お前、そのうち血を見ることになるよ』
……そういえば丹生子さんは前にそんなことを言った。
意識がはっきりしてきた。身体感覚に大きな違和感はない。目はすんなり開く。暗い。ずっと瞑っていたのだから、慣れていないのではなく元からだ。確実に見知らぬ閉じた場所。
手元に、近くにポットが、いやバッグがない。持ち物が。上着は脱がされているし、ファッションエプロンのポケットも空だ。ナプキンの一枚も無い。靴も片方脱げている。
「少し……少し、時間を頂戴します」
まだ寝ぼけていた。
「動くな」
「そういう、わけには……」
急に頭が回って黙る。青丹さんがもう一度、「動くな」と僕に言った。
「血」
血?
……薄暗くともはっきりと見える。良かった。青丹さんからは流れていない。幸い。ただ、機嫌が悪そうだ。家以外で会うのがだいぶ久しぶりだからか、こんな姿は新鮮に見える。
頭に触れられる。瞳に映る僕を眺める限り、動き回っても死ぬような出血じゃない。青丹さんは大げさだ。目にも流れたはずの血は青丹さんが拭いてくれたんだろうか。
「ご無事ですか」
「うん」
「……僕のせいで、おびき出されたんですか」
沈黙が答え。この人は時々分かりやすすぎる。
青丹さんがここにいて、出血を気にしているのに超能力で抵抗もせずただ座っている。その意味するところは想像できる。僕を超能力の通用しない不動領域の空間に閉じこめて、僕を人質に青丹さんをおびき出す。命知らずだと思うけど……やってのけたのだろう。須図さんが。なぜか。
なぜ?
「ここは、倉庫でしょうか」
首を振られる。
トイレ風呂が分かれた都心の単身者アパートほどの床面積だ。もちろんトイレも風呂も部屋もない。鉄とコンクリートを主にした構造。壊して脱出経路を確保した形跡がない、つまり、この建物は青丹さんが超能力で干渉できない不動領域の中にある。
重い鉄扉があるけど、どこか二、三点でも溶接されていれば単純な人の力だけでは開けられない。窓もない。かすかに空気の流れを感じるから、完全な密閉はされていない。息はできるしガスでもない。すぐには死なない。
猶予がある。余裕と言い換えるほどの隙ではない。
「……おれは、こうなると思ってた」
「それは……」
青丹さんは無表情だ。エスパーの遠隔視聴で何かを察せたのだろうか。襲撃を予期していたのなら慧眼だといえる。
「違う」
「はい?」
青丹さんにはテレパスがない。話をしなければ伝わらない。
「無くても分かる。違う。おれでも分かってた。ハネだけが分かってない」
「あの」
「こんなことになった。ハネは恨まれる……」
血まみれの頭をしっかりと抱えられてしまった。
「青丹……あの……」
「だめ」
離してくれない。これは……まずい。
「……分かりました。2時間です」
「……」
「2時間の間に脱出しましょう、青丹」
「おれの話を聞いてない」
「聞いています。早く出れば早く怪我を治療できます」
思考が落ち着いてきた。エプロンの端をちぎって頭に巻く。力の入れ方一つで意外と簡単に切れる素材だ。
「?」
エプロンが少し湿っている。色のついた液体という感じはしない。涙や汗の臭いもない。部屋内を見渡しても漏水の気配はない。少し湿度が高い気はする。後で調べよう。
「……青丹はこれを、『アドベント』だと思いますか」
カウントすれば15個目。
「分からない」
「言い換えます。青丹と僕を人質に、今、丹生子さんに何か仕掛けられていると思いますか?」
「……分からない」
僕が今殺されていないのは、利用価値があるからだ。何かの交渉に使われている可能性は十分にある。
青丹さんを一緒に閉じこめる手間をかけたのは、青丹さんが僕を常に遠隔視聴で視ていることを知っているからだ。
僕の誘拐は難しくない。不動領域に閉じこめれば、後で僕の失踪に気づいても超能力では探せない。でも、青丹さんは常に僕の位置を把握している。誘拐も移動も実行した瞬間に筒抜けになる。悠長に隠そうとしている間に念動力で無力化されるだろう。となると、気絶させた僕を即座に人質にして、青丹さんのことも封じるしかない。最初から知っていなければできないことだ。
結果論だけど、丹生子さんでも警察でもなく青丹さんがここに囚われているのは、相談を封じられて、犯人の指示通り青丹さんが自ら家を出たからだ。あの家と青丹さん周辺のセキュリティーを破る方法はそれしかない。
……これは超能力者が明らかに絡んだ犯行だ。そして、青丹さんの誘拐こそが犯人の真の狙いだったように思える。付き人なのに弱点として使われて、情けなくても反省は後。今は別のことを考えないといけない。
青丹さんが僕をいつも視ている。これは須図さんが知らないことだ。丹生子さんを追跡監視しているくらいは思いつくだろうけど、僕はただの、少し長く続いているだけの付き人。青丹さんだけでなく、事情を知る人の中でもごく一部しか知らない。……僕も最近まで気づいていなかった。
丹生子さんが近くにいないときは、極力会話しないで、スマホを耳に当てるなど誤魔化すようにもしていた。「アドベント」側が青丹さんと僕の繋がりに気づくチャンスは、これまであっただろうか? 例えば、
・犯人に僕らの私的な会話を聴く超能力か盗聴技術がある。
……これは納得しがたい。それができるならもっと周到に個々の犯行を行えただろう。予知能力者のモノリスさんが気安く動き回っているのに狙われない風なのも納得できない。でもゼロではない。
・青丹さんと僕のやり取りから見破った。
……青丹さんの合図を見るか、僕の声からおかしいと気づくか。どちらにせよ、たまたまではなく青丹さんがいつも僕を追跡していると想像するには材料がいる。やり取りを何度も目撃した人が犯人にいるなら、容疑者はかなり絞れそうだ。
・犯人はもともと事情を知る僕らの関係者。
……少なくとも僕は信頼できる場所で信頼できる人にしか話していない。鐘さん、サラさん、蜂庫さん。無理だ。誰もこんなことに関わらない。口も固い。青丹さんを溺愛する丹生子さんが情報の漏れることをするとも思わない。でも、誰かから情報が漏れていないとは証明できない。
……思いつくどの線からも決めつけがたい。物語の探偵や丹生子さん曰く、情報は集めただけでは意味がないのだろう。意外とロジカルな丹生子さんなら、この時点で不要な可能性を切り捨てて特定できるだろうか。一人に絞るのは無理でも読心で容疑者の心を読めば一発だ。僕にはその鍵がない。
ではこの場の残留物は? 何もないように見える倉庫内に何か手がかりがあるだろうか。そういえば、先ほど液体に触れた。粘度はほぼ水だ。臭いも。つまりごく薄い水溶液。味を確かめそうになって、青丹さんがいるのを思い出してやめる。さすがに怒られそうだ。もう一つ、先ほどから、何か覚えのある臭いがする気がする。僕からでも青丹さんからではない。倉庫の構造に由来する臭気でもない。まして倉庫の外からする臭いでもない。
耳を澄ます。かすかな音が弾けた。
「! 青丹さん」
脱げていた僕の靴を探す。青丹さんが戸惑ったように靴を拾って渡してくれた。そこだ。靴を受け取って、靴の落ちていた場所ににじり寄る。
「オキシドール」
「?」
「が、反応しています。床に」
靴の踵を折るように開ける。非常用の小さなスペースに入れていた小瓶の蓋がゆるみ、中身がいくらか漏れていた。少し流れ出た液体……ハウスキーパーの七つ道具が一つ、オキシドールが床に落ちて何かと化学反応している。
額を押さえて、僕は床に身を倒した。濡れた指を乾いた床にあちこち当ててみる。同じように、白い泡がわずかに出た。このまま反応が続けば、液体の多くは水になって反応は止まる。これがエプロンを濡らした液体だ。でも床の素材は、オキシドールと激しく反応するものではない。「汚れ」があるようには見えないし、変色や塗装の様子もない……ように感じる。一見。
「……青丹。少し歩き回ります」
「ハネ」
「許してください。重要なことです」
怖い想像が頭を駆け巡っている。
青丹さんの腕をなるべく静かに避けて立ち上がる。少しだけ立ちくらみがある。膝立ちに切り替えて動きながら、床や壁にオキシドールを少しずつ塗る。どこでも泡が立つ。指につけて、天井や塗装された鉄扉へ飛沫を飛ばしてみる。両開きの扉の、ごくわずかな隙間にも泡が出た。錆びた鉄の臭いがかすかに鼻を突く。……違和感があるけど分からない。いつもより感覚が鈍い気がする。
エプロンの布地の糸を解して、髪の毛と重ねる。ねじるように回しながら、固く閉じた扉の召合わせに慎重に差し入れてみる。思いのほかうまく奥まで入った。糸を伝わせてオキシドールを染みこませ、隙間に垂らしてみる。……間違いない。たまたま塗装が剥げた部分の鉄やかすかな付着物と反応したのではない。扉の隙間に至るまで、とにかく倉庫の内側全てに、オキシドールと反応する何かの物質が塗られている。
「青丹……」
妙な発見と感染リスクについて告げようと振り返ると、青丹さんは僕のすぐ後ろに来ていた。もう少し離れていると思っていた僕は転げそうになる。大したことはないけど怪我のせいで動きが鈍ってはいた。青丹さんの近づいてくる音が聞こえていなかったのも信じられない。
背中を打ちつけずに済んだのは、ぶつかる前に念動力で持ち上げてもらえたからだ。代わりに前のめりになって、青丹さんと正面同士でぶつかる。僕がうつぶせに寄りかかる形になってしまう。
「すみません」
「……いい」
「あの、この場所ですが、妙な仕掛けがあります」
「いい……失敗したのは、分かった」
「失敗?」
青丹さんは身を起こした僕に仕返しのようにもたれかかった。受け止める。気を遣われているのが分かる優しい体重のかけ方だった。
「あの……」
「このまま」
両耳を押さえられる。
背後、つまり扉の方で、鋭い風が通り抜けた。
細い隙間を無理に風が通り、力尽くで扉を震わせる。甲高い音が笛のように轟く。倉庫全体が軋んだ。加減されているのに、圧力で身体まで引かれる。耳が痛い。頭に巻いていたエプロンの切れ端が解けて、血とともに背後に流れていく。
青丹さんの念動力の衝撃が、倉庫の外まで、届いた……?
「青丹さん……」
「青丹」
青丹さんの声は聞こえなかった。口の動きが読めただけ。「そんなことを訂正している場合ではありません」とは、とても言えない嵐だった。すぐに青丹さんにしがみついていられなくなる。全身から力が勝手に抜けていく。目を閉じてしまう。青丹さんが何かを言ったのは喉と胸腔の振動で分かるのに、聞きとることもできない。
「早く、なるべくはやく……」
また気を失う前に、そこまで喋ることはできた。
__________
Next 11/17 15:00
須図さんが後ろから話しかけてくるのは少し予想外だった。
「……やっぱり気づいてたって顔しやがるんだな」
足音も呼吸も体臭もほとんど消さずに背後からやってきてそれはない。先日バス停で会ったときも履いていた靴で、青丹さんの前でも何度か着ていた服で、僕に引き継ぎをしてくれた頃から変わらない腕時計の針の音で。こんな時に、こんな状況で気づかないふりをしてもきっと意味がない。
それに比べて、もう一人には全く覚えがない。音という音をほとんど立てずに歩く。薬草のような特徴的な匂いがする。たぶん全身から。香油でも塗っているんだろうか。
今さっき、人気の少ない道を歩いていたら、その人に背後からいきなり殴られた。
まだ意識があるのが不思議だ。血が片目に流れてきたこともあって視界ははっきりしない。視界に回りこんできた須図さんの表情も分からない。ろくに喋れそうにもない。
いや、正確に人体を理解して、僕の動きを止めても意識は残るように打ったのかもしれない。少なくとも、こんな強い匂いをさせながら、僕が背後を不審がって振り返るよりも速く動ける人だ。医学知識と道具か超能力があれば調節もできるだろう。この後すぐに意識を失う一撃が追加されるだろうか。その前に、何か……
かたん。スマホが震えてファッションエプロンのポケットから落ちた。この振動は青丹さん。すぐに取り上げられて電源を切られる。同時に、須図さんのスマホらしき着信音も鳴る。
「電話してくんな。今急いで……は? 知るか。丹生子はそっちでどうにかしろ。……はあ……」
電話を切って舌打ちした須図さんが顔を蹴った。僕の。
『お前、そのうち血を見ることになるよ』
……そういえば丹生子さんは前にそんなことを言った。
意識がはっきりしてきた。身体感覚に大きな違和感はない。目はすんなり開く。暗い。ずっと瞑っていたのだから、慣れていないのではなく元からだ。確実に見知らぬ閉じた場所。
手元に、近くにポットが、いやバッグがない。持ち物が。上着は脱がされているし、ファッションエプロンのポケットも空だ。ナプキンの一枚も無い。靴も片方脱げている。
「少し……少し、時間を頂戴します」
まだ寝ぼけていた。
「動くな」
「そういう、わけには……」
急に頭が回って黙る。青丹さんがもう一度、「動くな」と僕に言った。
「血」
血?
……薄暗くともはっきりと見える。良かった。青丹さんからは流れていない。幸い。ただ、機嫌が悪そうだ。家以外で会うのがだいぶ久しぶりだからか、こんな姿は新鮮に見える。
頭に触れられる。瞳に映る僕を眺める限り、動き回っても死ぬような出血じゃない。青丹さんは大げさだ。目にも流れたはずの血は青丹さんが拭いてくれたんだろうか。
「ご無事ですか」
「うん」
「……僕のせいで、おびき出されたんですか」
沈黙が答え。この人は時々分かりやすすぎる。
青丹さんがここにいて、出血を気にしているのに超能力で抵抗もせずただ座っている。その意味するところは想像できる。僕を超能力の通用しない不動領域の空間に閉じこめて、僕を人質に青丹さんをおびき出す。命知らずだと思うけど……やってのけたのだろう。須図さんが。なぜか。
なぜ?
「ここは、倉庫でしょうか」
首を振られる。
トイレ風呂が分かれた都心の単身者アパートほどの床面積だ。もちろんトイレも風呂も部屋もない。鉄とコンクリートを主にした構造。壊して脱出経路を確保した形跡がない、つまり、この建物は青丹さんが超能力で干渉できない不動領域の中にある。
重い鉄扉があるけど、どこか二、三点でも溶接されていれば単純な人の力だけでは開けられない。窓もない。かすかに空気の流れを感じるから、完全な密閉はされていない。息はできるしガスでもない。すぐには死なない。
猶予がある。余裕と言い換えるほどの隙ではない。
「……おれは、こうなると思ってた」
「それは……」
青丹さんは無表情だ。エスパーの遠隔視聴で何かを察せたのだろうか。襲撃を予期していたのなら慧眼だといえる。
「違う」
「はい?」
青丹さんにはテレパスがない。話をしなければ伝わらない。
「無くても分かる。違う。おれでも分かってた。ハネだけが分かってない」
「あの」
「こんなことになった。ハネは恨まれる……」
血まみれの頭をしっかりと抱えられてしまった。
「青丹……あの……」
「だめ」
離してくれない。これは……まずい。
「……分かりました。2時間です」
「……」
「2時間の間に脱出しましょう、青丹」
「おれの話を聞いてない」
「聞いています。早く出れば早く怪我を治療できます」
思考が落ち着いてきた。エプロンの端をちぎって頭に巻く。力の入れ方一つで意外と簡単に切れる素材だ。
「?」
エプロンが少し湿っている。色のついた液体という感じはしない。涙や汗の臭いもない。部屋内を見渡しても漏水の気配はない。少し湿度が高い気はする。後で調べよう。
「……青丹はこれを、『アドベント』だと思いますか」
カウントすれば15個目。
「分からない」
「言い換えます。青丹と僕を人質に、今、丹生子さんに何か仕掛けられていると思いますか?」
「……分からない」
僕が今殺されていないのは、利用価値があるからだ。何かの交渉に使われている可能性は十分にある。
青丹さんを一緒に閉じこめる手間をかけたのは、青丹さんが僕を常に遠隔視聴で視ていることを知っているからだ。
僕の誘拐は難しくない。不動領域に閉じこめれば、後で僕の失踪に気づいても超能力では探せない。でも、青丹さんは常に僕の位置を把握している。誘拐も移動も実行した瞬間に筒抜けになる。悠長に隠そうとしている間に念動力で無力化されるだろう。となると、気絶させた僕を即座に人質にして、青丹さんのことも封じるしかない。最初から知っていなければできないことだ。
結果論だけど、丹生子さんでも警察でもなく青丹さんがここに囚われているのは、相談を封じられて、犯人の指示通り青丹さんが自ら家を出たからだ。あの家と青丹さん周辺のセキュリティーを破る方法はそれしかない。
……これは超能力者が明らかに絡んだ犯行だ。そして、青丹さんの誘拐こそが犯人の真の狙いだったように思える。付き人なのに弱点として使われて、情けなくても反省は後。今は別のことを考えないといけない。
青丹さんが僕をいつも視ている。これは須図さんが知らないことだ。丹生子さんを追跡監視しているくらいは思いつくだろうけど、僕はただの、少し長く続いているだけの付き人。青丹さんだけでなく、事情を知る人の中でもごく一部しか知らない。……僕も最近まで気づいていなかった。
丹生子さんが近くにいないときは、極力会話しないで、スマホを耳に当てるなど誤魔化すようにもしていた。「アドベント」側が青丹さんと僕の繋がりに気づくチャンスは、これまであっただろうか? 例えば、
・犯人に僕らの私的な会話を聴く超能力か盗聴技術がある。
……これは納得しがたい。それができるならもっと周到に個々の犯行を行えただろう。予知能力者のモノリスさんが気安く動き回っているのに狙われない風なのも納得できない。でもゼロではない。
・青丹さんと僕のやり取りから見破った。
……青丹さんの合図を見るか、僕の声からおかしいと気づくか。どちらにせよ、たまたまではなく青丹さんがいつも僕を追跡していると想像するには材料がいる。やり取りを何度も目撃した人が犯人にいるなら、容疑者はかなり絞れそうだ。
・犯人はもともと事情を知る僕らの関係者。
……少なくとも僕は信頼できる場所で信頼できる人にしか話していない。鐘さん、サラさん、蜂庫さん。無理だ。誰もこんなことに関わらない。口も固い。青丹さんを溺愛する丹生子さんが情報の漏れることをするとも思わない。でも、誰かから情報が漏れていないとは証明できない。
……思いつくどの線からも決めつけがたい。物語の探偵や丹生子さん曰く、情報は集めただけでは意味がないのだろう。意外とロジカルな丹生子さんなら、この時点で不要な可能性を切り捨てて特定できるだろうか。一人に絞るのは無理でも読心で容疑者の心を読めば一発だ。僕にはその鍵がない。
ではこの場の残留物は? 何もないように見える倉庫内に何か手がかりがあるだろうか。そういえば、先ほど液体に触れた。粘度はほぼ水だ。臭いも。つまりごく薄い水溶液。味を確かめそうになって、青丹さんがいるのを思い出してやめる。さすがに怒られそうだ。もう一つ、先ほどから、何か覚えのある臭いがする気がする。僕からでも青丹さんからではない。倉庫の構造に由来する臭気でもない。まして倉庫の外からする臭いでもない。
耳を澄ます。かすかな音が弾けた。
「! 青丹さん」
脱げていた僕の靴を探す。青丹さんが戸惑ったように靴を拾って渡してくれた。そこだ。靴を受け取って、靴の落ちていた場所ににじり寄る。
「オキシドール」
「?」
「が、反応しています。床に」
靴の踵を折るように開ける。非常用の小さなスペースに入れていた小瓶の蓋がゆるみ、中身がいくらか漏れていた。少し流れ出た液体……ハウスキーパーの七つ道具が一つ、オキシドールが床に落ちて何かと化学反応している。
額を押さえて、僕は床に身を倒した。濡れた指を乾いた床にあちこち当ててみる。同じように、白い泡がわずかに出た。このまま反応が続けば、液体の多くは水になって反応は止まる。これがエプロンを濡らした液体だ。でも床の素材は、オキシドールと激しく反応するものではない。「汚れ」があるようには見えないし、変色や塗装の様子もない……ように感じる。一見。
「……青丹。少し歩き回ります」
「ハネ」
「許してください。重要なことです」
怖い想像が頭を駆け巡っている。
青丹さんの腕をなるべく静かに避けて立ち上がる。少しだけ立ちくらみがある。膝立ちに切り替えて動きながら、床や壁にオキシドールを少しずつ塗る。どこでも泡が立つ。指につけて、天井や塗装された鉄扉へ飛沫を飛ばしてみる。両開きの扉の、ごくわずかな隙間にも泡が出た。錆びた鉄の臭いがかすかに鼻を突く。……違和感があるけど分からない。いつもより感覚が鈍い気がする。
エプロンの布地の糸を解して、髪の毛と重ねる。ねじるように回しながら、固く閉じた扉の召合わせに慎重に差し入れてみる。思いのほかうまく奥まで入った。糸を伝わせてオキシドールを染みこませ、隙間に垂らしてみる。……間違いない。たまたま塗装が剥げた部分の鉄やかすかな付着物と反応したのではない。扉の隙間に至るまで、とにかく倉庫の内側全てに、オキシドールと反応する何かの物質が塗られている。
「青丹……」
妙な発見と感染リスクについて告げようと振り返ると、青丹さんは僕のすぐ後ろに来ていた。もう少し離れていると思っていた僕は転げそうになる。大したことはないけど怪我のせいで動きが鈍ってはいた。青丹さんの近づいてくる音が聞こえていなかったのも信じられない。
背中を打ちつけずに済んだのは、ぶつかる前に念動力で持ち上げてもらえたからだ。代わりに前のめりになって、青丹さんと正面同士でぶつかる。僕がうつぶせに寄りかかる形になってしまう。
「すみません」
「……いい」
「あの、この場所ですが、妙な仕掛けがあります」
「いい……失敗したのは、分かった」
「失敗?」
青丹さんは身を起こした僕に仕返しのようにもたれかかった。受け止める。気を遣われているのが分かる優しい体重のかけ方だった。
「あの……」
「このまま」
両耳を押さえられる。
背後、つまり扉の方で、鋭い風が通り抜けた。
細い隙間を無理に風が通り、力尽くで扉を震わせる。甲高い音が笛のように轟く。倉庫全体が軋んだ。加減されているのに、圧力で身体まで引かれる。耳が痛い。頭に巻いていたエプロンの切れ端が解けて、血とともに背後に流れていく。
青丹さんの念動力の衝撃が、倉庫の外まで、届いた……?
「青丹さん……」
「青丹」
青丹さんの声は聞こえなかった。口の動きが読めただけ。「そんなことを訂正している場合ではありません」とは、とても言えない嵐だった。すぐに青丹さんにしがみついていられなくなる。全身から力が勝手に抜けていく。目を閉じてしまう。青丹さんが何かを言ったのは喉と胸腔の振動で分かるのに、聞きとることもできない。
「早く、なるべくはやく……」
また気を失う前に、そこまで喋ることはできた。
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