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1章 現人神、ヴァルハラに降臨す(勘違い)
7話 神の試練(ただの好き嫌い)
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ゲッコー男爵の執務室は、かつてないほどの緊張に包まれていた。
命からがら逃げ帰ってきた兵士たちの報告は、彼の予想を遥かに超えるものだったからだ。
「予言……神の怒り、だと……?」
ゲッコーは、顎に蓄えた贅肉を揺らしながら、低い声で呟いた。
ただのハッタリか、あるいは本当に得体の知れない力が働いているのか。直接的な武力行使は、危険すぎる。ならば、と彼は思考を切り替えた。
「……力で奪えぬのなら、権威で飲み込むまでよ」
蛇のような目に、より一層狡猾な光が宿る。
彼は、腹心の部下であり、シュタイン領の代官を務める男、ゾルタンを呼びつけた。ゾルタンは、役人然とした、常に無表情な男だ。
「ゾルタンよ。貴様、公式の使者として、かのヴァルハラ領へ赴け」
「はっ。して、目的は?」
「表向きは『新たなる領主への祝辞と、聖水発見の祝い』だ。だが、真の目的は、その現人神とやらの正体を探り、弱みを握ること。そして、可能ならば、我らの支配下に置くための布石を打つことだ」
「……具体的には?」
「揺さぶれ。貴族社会の常識で、礼儀作法で、格式で、あの田舎者どもを揺さぶるのだ。神を名乗るなら、それ相応の威厳と知性があるはず。もし、それがなければ……ただの化けの皮だ。剥がしてやれ」
ゾルタンは、無表情に「御意」とだけ答える と、一礼して部屋を下がった。
彼は、ゲッコーの意を汲むことにかけては天才的だった。貴族社会の複雑なマナーやプロトコルを武器に、相手を精神的に追い詰める、陰湿な交渉術のプロフェッショナルである。
数日後。
シュタイン男爵家の紋章を掲げた、立派な馬車がヴァルハラ領に到着した。
馬車から降りてきたのは、鼻持ちならないエリート然とした空気をまとった代官ゾルタンと、その供回りの者たちだった。
「私がシュタイン男爵様の代理、代官のゾルタンである! こちらの領主、アッシュ・フォン・バルバドス殿にご挨拶に伺った! 取り次ぎを!」
高圧的なゾルタンの態度に、見張りの信者たちは一瞬色めき立ったが、聖女セレスティアが静かに彼らを制した。
「神の予言通り、次なる試練が訪れたのですね。……お通ししなさい。神は、全てをお見通しです」
セレスティアの言葉に、信者たちは道を開けた。
ゾルタンは、内心でほくそ笑む。
(ふん、話の分かる女がいるではないか。だが、神だか何だか知らんが、貴族社会の流儀の前では、赤子同然よ)
彼は、完璧な作法で領主館へと進み、応接室へと通された。
そして、待つことしばし。
奥のドアが開き、我らが神、アッシュ・フォン・バルバドスが、あくびをしながら現れた。
◇◇◇
その日の俺は、機嫌が良かった。
信者たちが開墾した畑で、初めてニンジンが収穫できたからだ。今日の昼飯は、ジャガイモとニンジンの塩茹で。メニューが一つ増えただけで、人生はこんなにも豊かになる。
そんな上機嫌な俺の前に現れたのが、見るからに陰険そうで、いかにも「役人です」という顔をした男、ゾルタンだった。
「お初にお目にかかります、アッシュ・フォン・バルバドス殿。私は、ゲッコー・フォン・シュタイン男爵様が代官、ゾルタンと申します。この度は、貴殿の領主着任と、奇跡の泉の発見、心よりお祝い申し上げます」
ゾルタンは、流れるような動作で、完璧な貴族の礼をしてみせた。
それは、相手の格を見定めるような、試すような、嫌味ったらしい礼だった。
俺にはそんなことどうでもいい。
ただ、目の前の男が、なんだか気に食わなかっただけだ。
「……ああ」
俺は、短い返事だけして、ドカッと椅子に座った。その態度に、ゾルタンの眉がピクリと動いた気がした。
ゾルタンは畳み掛けるように言葉を続けた。
「本日は、ささやかながら、我が主君からの祝いの品をお持ちいたしました。どうぞ、お納めください」
供回りの者が、恭しく木箱を差し出す。
中に入っていたのは、高級そうな装飾が施されたワインと、見るからに脂っこそうな肉の燻製だった。
俺は、それを一瞥して、顔をしかめた。
ワインは苦手だ。苦いし、頭が痛くなる。肉の燻製も、脂っこいのは胃がもたれるから嫌いだ。
俺は、正直な感想を口にした。
「いらん。持って帰れ」
その瞬間、ゾルタンの完璧なポーカーフェイスが、わずかに崩れた。
だが、俺の隣に控えていた聖女セレスティアが、神の御心を代弁する。
「神のお告げです。『見せかけの贅沢や、上辺だけの贈り物に、真の価値はない』と。あなた方の真心が、その品々に込められているのかを、今、試しておられるのです」
「ま、真心、ですと……?」
ゾルタンが戸惑いの声を上げる。
俺は、そんなことなど知らず、ただ自分の好き嫌いを言っただけだ。
「そうだ。俺は、ニンジンの方が好きだ」
畑で採れたばかりの、あの鮮やかなオレンジ色。甘くて、うまい。
俺がそう付け加えると、セレスティアはハッとしたように目を見開き、ゾルタンに向かって厳かに告げた。
「……聞きましたか、代官殿。神は、あなた方に『試練』をお与えです」
「し、試練……?」
「ええ。『この地の民と同じものを食し、同じ労働の汗を流すことで、汝らの真心を示せ』と。神は、あなた方が持ってきた贅沢品よりも、この聖なる大地で、我ら信者が丹精込めて育てた『ニンジン』にこそ価値がある、とそうおっしゃっているのです!」
セレスティアは、どこからか取り出した、泥付きのニンジンを一本、恭しくゾルタンに差し出した。
「さあ、お受け取りください。これこそが、神があなた方に与える、最初の『祝福』です」
ゾルタンは、目の前の泥付きニンジンと、神々しい表情の聖女、そして、全てを分かった上でふんぞり返っているように見える俺を交互に見て、完全に思考が停止したように見える。
「さあ、代官殿! 畑が、あなたを呼んでいます! 神の試練、謹んでお受けなさい!」
信者たちが、ゾルタンと供回りの者たちに、クワとスコップを手渡していく。
彼らは、なすすべもなく、信者たちに引きずられるようにして、新しく作られたニンジン畑へと連行されていった。
「こ、こんな、馬鹿な……。私が、畑仕事など……!」
ゾルタンの悲痛な叫びが、ヴァルハラ領の青い空に虚しく響き渡る。
俺には、そんなことどうでもいい。
「ふう、面倒なのがいなくなったな。さて、昼飯にするか。セバス、ニンジンは多めにな」
上機嫌で食堂へと向かうのであった。
この日、シュタイン男爵の使者たちは、生まれて初めての畑仕事で泥だらけになり、その日の夕食には、生まれて初めて自分たちで収穫したニンジンの入ったスープを、涙ながらにすする羽目になったという。
彼らがゲッコー男爵の元へ持ち帰る報告は、もはや「現人神の調査」などという生易しいものではなくなっていた。それは、理解不能な価値観を持つ、恐るべき新興勢力とのファーストコンタクトの記録となるのだった。
命からがら逃げ帰ってきた兵士たちの報告は、彼の予想を遥かに超えるものだったからだ。
「予言……神の怒り、だと……?」
ゲッコーは、顎に蓄えた贅肉を揺らしながら、低い声で呟いた。
ただのハッタリか、あるいは本当に得体の知れない力が働いているのか。直接的な武力行使は、危険すぎる。ならば、と彼は思考を切り替えた。
「……力で奪えぬのなら、権威で飲み込むまでよ」
蛇のような目に、より一層狡猾な光が宿る。
彼は、腹心の部下であり、シュタイン領の代官を務める男、ゾルタンを呼びつけた。ゾルタンは、役人然とした、常に無表情な男だ。
「ゾルタンよ。貴様、公式の使者として、かのヴァルハラ領へ赴け」
「はっ。して、目的は?」
「表向きは『新たなる領主への祝辞と、聖水発見の祝い』だ。だが、真の目的は、その現人神とやらの正体を探り、弱みを握ること。そして、可能ならば、我らの支配下に置くための布石を打つことだ」
「……具体的には?」
「揺さぶれ。貴族社会の常識で、礼儀作法で、格式で、あの田舎者どもを揺さぶるのだ。神を名乗るなら、それ相応の威厳と知性があるはず。もし、それがなければ……ただの化けの皮だ。剥がしてやれ」
ゾルタンは、無表情に「御意」とだけ答える と、一礼して部屋を下がった。
彼は、ゲッコーの意を汲むことにかけては天才的だった。貴族社会の複雑なマナーやプロトコルを武器に、相手を精神的に追い詰める、陰湿な交渉術のプロフェッショナルである。
数日後。
シュタイン男爵家の紋章を掲げた、立派な馬車がヴァルハラ領に到着した。
馬車から降りてきたのは、鼻持ちならないエリート然とした空気をまとった代官ゾルタンと、その供回りの者たちだった。
「私がシュタイン男爵様の代理、代官のゾルタンである! こちらの領主、アッシュ・フォン・バルバドス殿にご挨拶に伺った! 取り次ぎを!」
高圧的なゾルタンの態度に、見張りの信者たちは一瞬色めき立ったが、聖女セレスティアが静かに彼らを制した。
「神の予言通り、次なる試練が訪れたのですね。……お通ししなさい。神は、全てをお見通しです」
セレスティアの言葉に、信者たちは道を開けた。
ゾルタンは、内心でほくそ笑む。
(ふん、話の分かる女がいるではないか。だが、神だか何だか知らんが、貴族社会の流儀の前では、赤子同然よ)
彼は、完璧な作法で領主館へと進み、応接室へと通された。
そして、待つことしばし。
奥のドアが開き、我らが神、アッシュ・フォン・バルバドスが、あくびをしながら現れた。
◇◇◇
その日の俺は、機嫌が良かった。
信者たちが開墾した畑で、初めてニンジンが収穫できたからだ。今日の昼飯は、ジャガイモとニンジンの塩茹で。メニューが一つ増えただけで、人生はこんなにも豊かになる。
そんな上機嫌な俺の前に現れたのが、見るからに陰険そうで、いかにも「役人です」という顔をした男、ゾルタンだった。
「お初にお目にかかります、アッシュ・フォン・バルバドス殿。私は、ゲッコー・フォン・シュタイン男爵様が代官、ゾルタンと申します。この度は、貴殿の領主着任と、奇跡の泉の発見、心よりお祝い申し上げます」
ゾルタンは、流れるような動作で、完璧な貴族の礼をしてみせた。
それは、相手の格を見定めるような、試すような、嫌味ったらしい礼だった。
俺にはそんなことどうでもいい。
ただ、目の前の男が、なんだか気に食わなかっただけだ。
「……ああ」
俺は、短い返事だけして、ドカッと椅子に座った。その態度に、ゾルタンの眉がピクリと動いた気がした。
ゾルタンは畳み掛けるように言葉を続けた。
「本日は、ささやかながら、我が主君からの祝いの品をお持ちいたしました。どうぞ、お納めください」
供回りの者が、恭しく木箱を差し出す。
中に入っていたのは、高級そうな装飾が施されたワインと、見るからに脂っこそうな肉の燻製だった。
俺は、それを一瞥して、顔をしかめた。
ワインは苦手だ。苦いし、頭が痛くなる。肉の燻製も、脂っこいのは胃がもたれるから嫌いだ。
俺は、正直な感想を口にした。
「いらん。持って帰れ」
その瞬間、ゾルタンの完璧なポーカーフェイスが、わずかに崩れた。
だが、俺の隣に控えていた聖女セレスティアが、神の御心を代弁する。
「神のお告げです。『見せかけの贅沢や、上辺だけの贈り物に、真の価値はない』と。あなた方の真心が、その品々に込められているのかを、今、試しておられるのです」
「ま、真心、ですと……?」
ゾルタンが戸惑いの声を上げる。
俺は、そんなことなど知らず、ただ自分の好き嫌いを言っただけだ。
「そうだ。俺は、ニンジンの方が好きだ」
畑で採れたばかりの、あの鮮やかなオレンジ色。甘くて、うまい。
俺がそう付け加えると、セレスティアはハッとしたように目を見開き、ゾルタンに向かって厳かに告げた。
「……聞きましたか、代官殿。神は、あなた方に『試練』をお与えです」
「し、試練……?」
「ええ。『この地の民と同じものを食し、同じ労働の汗を流すことで、汝らの真心を示せ』と。神は、あなた方が持ってきた贅沢品よりも、この聖なる大地で、我ら信者が丹精込めて育てた『ニンジン』にこそ価値がある、とそうおっしゃっているのです!」
セレスティアは、どこからか取り出した、泥付きのニンジンを一本、恭しくゾルタンに差し出した。
「さあ、お受け取りください。これこそが、神があなた方に与える、最初の『祝福』です」
ゾルタンは、目の前の泥付きニンジンと、神々しい表情の聖女、そして、全てを分かった上でふんぞり返っているように見える俺を交互に見て、完全に思考が停止したように見える。
「さあ、代官殿! 畑が、あなたを呼んでいます! 神の試練、謹んでお受けなさい!」
信者たちが、ゾルタンと供回りの者たちに、クワとスコップを手渡していく。
彼らは、なすすべもなく、信者たちに引きずられるようにして、新しく作られたニンジン畑へと連行されていった。
「こ、こんな、馬鹿な……。私が、畑仕事など……!」
ゾルタンの悲痛な叫びが、ヴァルハラ領の青い空に虚しく響き渡る。
俺には、そんなことどうでもいい。
「ふう、面倒なのがいなくなったな。さて、昼飯にするか。セバス、ニンジンは多めにな」
上機嫌で食堂へと向かうのであった。
この日、シュタイン男爵の使者たちは、生まれて初めての畑仕事で泥だらけになり、その日の夕食には、生まれて初めて自分たちで収穫したニンジンの入ったスープを、涙ながらにすする羽目になったという。
彼らがゲッコー男爵の元へ持ち帰る報告は、もはや「現人神の調査」などという生易しいものではなくなっていた。それは、理解不能な価値観を持つ、恐るべき新興勢力とのファーストコンタクトの記録となるのだった。
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