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第一章 白帯を歩く子どもたち
第1話 白帯、歩き出す
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まだ外は青黒いままで、廊下の常夜灯だけがぼんやり光っている時間だった。
いつもなら、あと1時間は静かなはずの《光の園》に――天井のスピーカーから、少しかすれた女の声が流れた。
『白い避難路(白帯)を通って、後方ハブ(集結地点)へ避難してください。繰り返します――』
白帯。ハブ。
聞き慣れない単語が続いた瞬間、心臓の動きが一瞬だけ変わった。
天井の蛍光灯が、ぱち、と短く明滅する。
それだけで、さっきまで静かだった建物の空気がざわつきだす。遠くの廊下で誰かが椅子を引く音、職員室の戸が開く音。日常の音なのに、全部が少し違って聞こえた。
サキは、指先にじわりと力が入るのを自覚する。
(……来た)
訓練で何度も聞かされた「その時」が、本当に目の前まで来てしまった。
そう心の中で言い切ってから、サキは椅子を押しやり、立ち上がった。
事務室のドアを開け放ち、廊下へ出る。スリッパの音が走っていく。
子ども部屋の前で一度だけ足を止める。
慌てた顔は見せたくない。息を1つ整えてから、ドアノブを回した。
「みんな、起きて。避難するよ」
声をかけた途端、布団の中の気配がいくつも動いた。
毛布から顔だけ出してこちらを見る子。布団を頭までかぶったまま、もぞもぞと手だけ伸ばしてくる子。まだ目をこすりながら、「えっ」と小さく声を漏らす子。
眠そうな目が、一つずつサキのほうを向く。
10人分の視線が集まってくるのを感じて、背筋が自然と伸びた。
「白帯を歩いて、ハブってところまで行くの。昨日も練習したよね?」
できるだけ、いつもの“お散歩”の説明と同じ調子で言う。
怖い言葉を混ぜないように、頭の中で言い回しを一度選び直す。
部屋の電気をつけると、白い光が一斉に子どもたちの顔を照らした。
まぶしそうにしかめた小さな背中を、サキは順番に撫でていく。大丈夫だよ、起きて、行くよ――そう声をかけながら。
「難しい話はいいから。先生の言うとおりに歩けばいいよ」
自分に向けて言い聞かせているみたいだな、と少しだけ苦笑する。
でも今は、それくらいがちょうどいい。
――白帯を歩けば助かる。
子どもたちにも、自分にも、同じ言葉を心の中で繰り返す。
先のことは分からない。それでも、今この瞬間に必要なのはただ一つ。
この子たちに、「大丈夫」と言える大人でいること。
サキはそう決めて、布団から起き上がろうとしている小さな手を、順番に引き上げていった。
*
玄関ロビーには、非常用バッグが山みたいに積まれている。
別の職員たちは、すでに低学年グループや乳児たちをそれぞれの班にまとめていた。
サキは、自分の持ち場である10人分のバッグだけを確認する。
その中からひとつを肩にかけ、カルテの束を脇に抱えた。指先に汗がにじんで紙が滑りそうになり、慌てて握り直す。
「名札、見せて。順番に並んで」
玄関先に10人を並ばせ、名札を指で追いながら1人ずつ数えていく。
1人読むたびに、頭の中で小さく「いる」と刻んでいった。
「よし。全員いるね。行くよ」
制服の袖を、小さな指先がつまむように触れてくる。
その手を、サキは1つずつ確かめるみたいに握り返した。
自動ドアが開き、冷たい風といっしょに灰の匂いが入り込んでくる。
建物の前の道路には、白い帯がまっすぐ引かれていた。
緊急時だけ使われる避難路――白帯だ。
両側では、警備隊《ラインガード》の隊員たちが杭灯を打ち込み、点滅を確かめているところだった。
白い灯りが進行方向を示し、その上を避難民の列がゆっくりと伸びていく。
盾を構えた隊員が、半歩だけ白帯の外に出る。
そこが、「ここから先は守る」と決めた場所なんだとサキは思った。
サキは白帯の手前で一度立ち止まり、子どもたちを振り返る。
「ここからは列ね。先生の後ろ、2人1組で」
先頭にリノ、その手をミナが握る。
その後ろにタクトとミユが続き、ほかの子も順番に列へ入っていった。
「白帯では、子どもは真ん中。大人は外側。走らないで、手を離さない」
言い聞かせながら、サキは白い線の上へ一歩を踏み出す。
*
足もとで、細い光が規則正しく点いては消える。
そのたびに靴の先をかすめるように、白い揺れが走った。
サキはそのリズムを見下ろしながら、息をひとつ飲む。
(この10人を、なんとしてもハブまで連れて行く。誰も落とさない。手を離さない)
列の前後に揺れが出ないように、肩がこわばっている子には目を合わせて小さくうなずく。
足が重そうな子の横へ、自然と歩みを寄せる。
子どもたちの間を行ったり来たりしているうちに、自分の呼吸も少しずつ落ち着いていくのが分かった。
「先生、白帯って、あったかいの?」
袖口がくいっと引かれた。幼い声が、マスク越しにこちらをのぞき込んでくる。
「うん。みんなで助け合って進む道だから、あったかいよ」
マスクごしでも伝わるように口角を上げて、足もとを指さす。
「あの光から外れないで歩こうね」
灰霧が少しずつ濃くなり、前を行く背中の輪郭がぼやけていく。
周りでは、荷物を背負った大人や家族が、同じ方向へ黙ったまま歩いていた。
列の前のほうで、子どもがひとり、足を取られてよろける気配が走る。
「危ない」
サキは反射的に腕を伸ばし、つないでいた子どもの体をぐっと引き寄せた。
その勢いで、すぐそばの見知らぬ子どもが、列の外側へ一歩、押し出されるようによろめいてしまう。
驚いた顔と目が合う。
泣き出しそうな目。片足だけ、白い線から外にはみ出していた。
(今、自分が押してしまった。10人を守るために、ほかの子を1人、外へ出しかけた)
その自覚だけで、胸の奥が冷える。
「ごめんね」と言いたいのに、声がうまく出てこない。
息だけが、形にならないまま漏れる。
ここで足を止めたら、握っている手がばらばらにほどけてしまう気がした。
一度外に出た子は、そのまま戻ってこられないような気がして、サキは列の歩みに合わせて足を前へ運び続ける。
(それでも――今は、この10人の手を離さないほうを選ぶしかない)
握っている手の数を確かめるみたいに指を絡め直し、子どもたちを列の内側へそっと寄せる。
灰に汚れた顔には疲れがにじんでいるが、誰も大きな声は出さなかった。
銃声は、まだここまでは届いていない。
それでも、導く光と人と燃料の匂いに引かれて、灰霧の奥から“何か”が近づいてきている気配だけは、はっきり感じられた。
*
やがて、白帯の外側に、大きな影が立ち上がった。
見慣れたラインガードのRF(人型巨大兵器)とは、どこか輪郭の感じがちがう。
角ばった肩の形。背に抱えた武装。灰で汚れてもはっきり残っている濃いマーキング。
ひと目で、ラインガードとは別の隊の機体なんだと分かった。
「先生、あれ……ほかのロボットとちがうよ?」
袖口をつまむ小さな手に、さっきより強く力がこもった。
サキは、自分がまだ子どもだった頃のことをふっと思い出す。
避難の列の中で立ちすくんで、泣き声も出ないまま動けなくなっていたとき。
白帯の外側にいた誰かの手が、ぐっと腕をつかんで内側へ押し戻してくれた。
よろけた肘の痛みよりも、その瞬間に「中にいろ」と言われた気がして、少しだけ落ち着いたのを覚えている。
あのときも、白帯をかばうみたいに、巨大なRFが何度も前へ出て道を切り開いてくれていた。
すぐ外で、灰を蹴り上げながら前に出て、黒い波を押し返して、進む場所を残してくれた。
誰の顔も覚えていないのに、「進んでいい」「ここを歩いていい」と言われたあの感じだけは、今でも消えずに残っている。
「大丈夫。あれも、みんなを守るロボットだよ」
そう口にしたとたん、さっきまで遠い出来事みたいに思い出していた光景が、急に今と地続きになる。
腕をつかまれたときの強さと、白帯の内側に押し戻された心細さが、ごちゃまぜになる。
「今日はね、外で戦う人たちが助けに来てくれてるの」
目の前の子どもを安心させるために言った言葉なのに、白帯の外に立つ影を見上げる自分の視線には、少しだけ憧れが混じっている――と、サキはそこでようやく気づく。
あのとき、道を開き続けてくれた誰かと、同じ場所に今も誰かが立ってくれている。
風がふとやみ、白帯の上の空気がぴんと張りつめた。
白帯の外側で、前衛のRFがゆっくりと起動する。
巨体の関節が動き出すわずかな震えが、地面越しに足元へ伝わってきた。
それを感じながら、サキは小さく息をのみ、隣の子どもの肩をそっと抱き寄せた。
いつもなら、あと1時間は静かなはずの《光の園》に――天井のスピーカーから、少しかすれた女の声が流れた。
『白い避難路(白帯)を通って、後方ハブ(集結地点)へ避難してください。繰り返します――』
白帯。ハブ。
聞き慣れない単語が続いた瞬間、心臓の動きが一瞬だけ変わった。
天井の蛍光灯が、ぱち、と短く明滅する。
それだけで、さっきまで静かだった建物の空気がざわつきだす。遠くの廊下で誰かが椅子を引く音、職員室の戸が開く音。日常の音なのに、全部が少し違って聞こえた。
サキは、指先にじわりと力が入るのを自覚する。
(……来た)
訓練で何度も聞かされた「その時」が、本当に目の前まで来てしまった。
そう心の中で言い切ってから、サキは椅子を押しやり、立ち上がった。
事務室のドアを開け放ち、廊下へ出る。スリッパの音が走っていく。
子ども部屋の前で一度だけ足を止める。
慌てた顔は見せたくない。息を1つ整えてから、ドアノブを回した。
「みんな、起きて。避難するよ」
声をかけた途端、布団の中の気配がいくつも動いた。
毛布から顔だけ出してこちらを見る子。布団を頭までかぶったまま、もぞもぞと手だけ伸ばしてくる子。まだ目をこすりながら、「えっ」と小さく声を漏らす子。
眠そうな目が、一つずつサキのほうを向く。
10人分の視線が集まってくるのを感じて、背筋が自然と伸びた。
「白帯を歩いて、ハブってところまで行くの。昨日も練習したよね?」
できるだけ、いつもの“お散歩”の説明と同じ調子で言う。
怖い言葉を混ぜないように、頭の中で言い回しを一度選び直す。
部屋の電気をつけると、白い光が一斉に子どもたちの顔を照らした。
まぶしそうにしかめた小さな背中を、サキは順番に撫でていく。大丈夫だよ、起きて、行くよ――そう声をかけながら。
「難しい話はいいから。先生の言うとおりに歩けばいいよ」
自分に向けて言い聞かせているみたいだな、と少しだけ苦笑する。
でも今は、それくらいがちょうどいい。
――白帯を歩けば助かる。
子どもたちにも、自分にも、同じ言葉を心の中で繰り返す。
先のことは分からない。それでも、今この瞬間に必要なのはただ一つ。
この子たちに、「大丈夫」と言える大人でいること。
サキはそう決めて、布団から起き上がろうとしている小さな手を、順番に引き上げていった。
*
玄関ロビーには、非常用バッグが山みたいに積まれている。
別の職員たちは、すでに低学年グループや乳児たちをそれぞれの班にまとめていた。
サキは、自分の持ち場である10人分のバッグだけを確認する。
その中からひとつを肩にかけ、カルテの束を脇に抱えた。指先に汗がにじんで紙が滑りそうになり、慌てて握り直す。
「名札、見せて。順番に並んで」
玄関先に10人を並ばせ、名札を指で追いながら1人ずつ数えていく。
1人読むたびに、頭の中で小さく「いる」と刻んでいった。
「よし。全員いるね。行くよ」
制服の袖を、小さな指先がつまむように触れてくる。
その手を、サキは1つずつ確かめるみたいに握り返した。
自動ドアが開き、冷たい風といっしょに灰の匂いが入り込んでくる。
建物の前の道路には、白い帯がまっすぐ引かれていた。
緊急時だけ使われる避難路――白帯だ。
両側では、警備隊《ラインガード》の隊員たちが杭灯を打ち込み、点滅を確かめているところだった。
白い灯りが進行方向を示し、その上を避難民の列がゆっくりと伸びていく。
盾を構えた隊員が、半歩だけ白帯の外に出る。
そこが、「ここから先は守る」と決めた場所なんだとサキは思った。
サキは白帯の手前で一度立ち止まり、子どもたちを振り返る。
「ここからは列ね。先生の後ろ、2人1組で」
先頭にリノ、その手をミナが握る。
その後ろにタクトとミユが続き、ほかの子も順番に列へ入っていった。
「白帯では、子どもは真ん中。大人は外側。走らないで、手を離さない」
言い聞かせながら、サキは白い線の上へ一歩を踏み出す。
*
足もとで、細い光が規則正しく点いては消える。
そのたびに靴の先をかすめるように、白い揺れが走った。
サキはそのリズムを見下ろしながら、息をひとつ飲む。
(この10人を、なんとしてもハブまで連れて行く。誰も落とさない。手を離さない)
列の前後に揺れが出ないように、肩がこわばっている子には目を合わせて小さくうなずく。
足が重そうな子の横へ、自然と歩みを寄せる。
子どもたちの間を行ったり来たりしているうちに、自分の呼吸も少しずつ落ち着いていくのが分かった。
「先生、白帯って、あったかいの?」
袖口がくいっと引かれた。幼い声が、マスク越しにこちらをのぞき込んでくる。
「うん。みんなで助け合って進む道だから、あったかいよ」
マスクごしでも伝わるように口角を上げて、足もとを指さす。
「あの光から外れないで歩こうね」
灰霧が少しずつ濃くなり、前を行く背中の輪郭がぼやけていく。
周りでは、荷物を背負った大人や家族が、同じ方向へ黙ったまま歩いていた。
列の前のほうで、子どもがひとり、足を取られてよろける気配が走る。
「危ない」
サキは反射的に腕を伸ばし、つないでいた子どもの体をぐっと引き寄せた。
その勢いで、すぐそばの見知らぬ子どもが、列の外側へ一歩、押し出されるようによろめいてしまう。
驚いた顔と目が合う。
泣き出しそうな目。片足だけ、白い線から外にはみ出していた。
(今、自分が押してしまった。10人を守るために、ほかの子を1人、外へ出しかけた)
その自覚だけで、胸の奥が冷える。
「ごめんね」と言いたいのに、声がうまく出てこない。
息だけが、形にならないまま漏れる。
ここで足を止めたら、握っている手がばらばらにほどけてしまう気がした。
一度外に出た子は、そのまま戻ってこられないような気がして、サキは列の歩みに合わせて足を前へ運び続ける。
(それでも――今は、この10人の手を離さないほうを選ぶしかない)
握っている手の数を確かめるみたいに指を絡め直し、子どもたちを列の内側へそっと寄せる。
灰に汚れた顔には疲れがにじんでいるが、誰も大きな声は出さなかった。
銃声は、まだここまでは届いていない。
それでも、導く光と人と燃料の匂いに引かれて、灰霧の奥から“何か”が近づいてきている気配だけは、はっきり感じられた。
*
やがて、白帯の外側に、大きな影が立ち上がった。
見慣れたラインガードのRF(人型巨大兵器)とは、どこか輪郭の感じがちがう。
角ばった肩の形。背に抱えた武装。灰で汚れてもはっきり残っている濃いマーキング。
ひと目で、ラインガードとは別の隊の機体なんだと分かった。
「先生、あれ……ほかのロボットとちがうよ?」
袖口をつまむ小さな手に、さっきより強く力がこもった。
サキは、自分がまだ子どもだった頃のことをふっと思い出す。
避難の列の中で立ちすくんで、泣き声も出ないまま動けなくなっていたとき。
白帯の外側にいた誰かの手が、ぐっと腕をつかんで内側へ押し戻してくれた。
よろけた肘の痛みよりも、その瞬間に「中にいろ」と言われた気がして、少しだけ落ち着いたのを覚えている。
あのときも、白帯をかばうみたいに、巨大なRFが何度も前へ出て道を切り開いてくれていた。
すぐ外で、灰を蹴り上げながら前に出て、黒い波を押し返して、進む場所を残してくれた。
誰の顔も覚えていないのに、「進んでいい」「ここを歩いていい」と言われたあの感じだけは、今でも消えずに残っている。
「大丈夫。あれも、みんなを守るロボットだよ」
そう口にしたとたん、さっきまで遠い出来事みたいに思い出していた光景が、急に今と地続きになる。
腕をつかまれたときの強さと、白帯の内側に押し戻された心細さが、ごちゃまぜになる。
「今日はね、外で戦う人たちが助けに来てくれてるの」
目の前の子どもを安心させるために言った言葉なのに、白帯の外に立つ影を見上げる自分の視線には、少しだけ憧れが混じっている――と、サキはそこでようやく気づく。
あのとき、道を開き続けてくれた誰かと、同じ場所に今も誰かが立ってくれている。
風がふとやみ、白帯の上の空気がぴんと張りつめた。
白帯の外側で、前衛のRFがゆっくりと起動する。
巨体の関節が動き出すわずかな震えが、地面越しに足元へ伝わってきた。
それを感じながら、サキは小さく息をのみ、隣の子どもの肩をそっと抱き寄せた。
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