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グリフォンと騎士団長
第3章:落ちない汚れと、違法の「呪い」
しおりを挟む鼻腔をくすぐったのは、目が覚めるほど清々しい、ミントとレモンの香りだった。
戦場の硝煙や、泥と鉄の生臭さに塗りつぶされていたグレンの五感が、その清廉な香りに触れて、ようやく深い呼吸を思い出した。
案内された洗い場は、隅々まで磨き上げられていた。
白く清潔なタイル、手入れの行き届いた木の棚。
そこに置かれた不思議な意匠の瓶には、琥珀色や淡い桃色の液体がゆらゆらと揺れている。
「グレン様。まずは貴方の傷から。怪我人なんですから、おとなしく座っていてくださいね」
小さな椅子を差し出され、グレンは戸惑いながらも腰を下ろした。
王国の騎士団長として、彼は常に「守る側」であり、「世話を焼く側」だった。
それが、自分よりも遥かにか弱い少女に、手のかかる子供でも扱うような手つきで促されている。
「す、済まぬ。……だが、俺よりもグリーを……! あいつは今にも……」
「心配しないでくださいな。同時進行で進めますから」
ミヤコの声には、迷いがなかった。
彼女がグレンの負傷した腕に手を添えると、指先の温かさが、痺れきった皮膚を伝って心臓まで届く。
その瞬間、彼女の手のひらからパチパチと淡い光の粒が弾けた。
(……温かい。いや、熱いほどだ……)
それが、彼女の放つ『生活魔法・殺菌洗浄』だった。
傷口に染み込んだ泥や膿が、光の粒に包まれて消滅していく。
どす黒く変色していた傷口が、みるみるうちに鮮やかな桃色の肉へと蘇り、熱を持っていた腫れが嘘のように引いていく。
グレンは、自分の体で起きている奇跡に、ただ唖然とするしかなかった。
「よし、消毒終わり。あとは清潔な布で包帯を巻いておきましょうね」
手際よく、優しく包帯が巻かれていく。
その間も、ミヤコの視線はすでに横たわるグリーへと向けられていた。
彼女は巨大なシャワーヘッドを手に取ると、溢れ出す魔力の湯を惜しみなくグリーの巨体へと注ぐ。
「生活魔法・洗浄……。いい子ね、グリーちゃん。重たい汚れ、全部流してしまいましょうね。痛いのはすぐ終わるからね」
ジャバジャバという水の音と共に、グリーの体を覆っていた黒い粘液が、滝のように流れ落ちていく。
グレンは、その光景を信じられない思いで見つめていた。
かつて宮廷の錬金術師たちが、何時間もかけて儀式のように行っていた洗浄。
それを彼女は、まるで朝の洗濯でもこなすような気軽さで、完璧に成し遂げていた。
やがて、グリー本来の輝きが戻ってきた。
泥を落とし、血を拭われた羽毛は、夕陽の残光を浴びて神々しい黄金色の輝きを放っている。
濡れた羽が重なり合い、きらきらと光る水滴を弾く様子は、まるで神殿に奉納された至宝のようだった。
「……あ、あ、グリー……」
グレンの瞳に、微かな安堵の色が浮かぶ。
けれど、その安堵は、一瞬にして凍りついた。
黄金の輝きの中に、一点だけ、どす黒いインクを零したような違和感が浮き彫りになっていた。
それは、左翼の付け根。
鋭い鏃が肉を貫いた、その傷跡だ。
「あら……。ここだけ、随分としつこい汚れね」
ミヤコが眉をひそめ、その箇所に集中的にお湯をかける。
けれど、そのお湯は傷口に触れる直前で、パチパチと黒い火花を散らして弾き飛ばされた。
傷口の奥から、粘り気のある黒い瘴気がじわりと溢れ出し、周囲の黄金の羽を再び汚していく。
「ギャッ、ギャウ……ッ」
グリーが苦悶の声を上げ、トリミング台の上で激しく身をよじった。
鼻を突くのは、焦げた肉と硫黄が混ざったような、耐え難い不快な腐敗臭。
洗浄魔法の清らかな魔力に対し、その傷口は、まるで生き物のように敵意を持って抵抗していた。
「私の魔法を弾くなんて、よっぽど根性が曲がった汚れだわ。奥の方で何かが固まっているのかしら……」
ミヤコは冷静に観察を続けているけれど、グレンの心は、その瞬間に奈落の底へと突き落とされた。
グレンは震える足で、グリーの側に駆け寄った。
剥き出しになった傷口の形状。
腐食し、魔力を拒絶し続ける、あのどす黒いモヤ。
(……間違いない。これは、この凶々しさは……)
グレンの全身から、血の気が引いていく。
指先が氷のように冷たくなり、喉の奥がカラカラに乾いた。
「……やはりか。これは、『腐敗の呪詛矢』だ」
グレンの掠れた声に、ミヤコが「ふむ?」と小さく首を傾げる。
「隣国が秘密裏に開発し、国際条約で使用を固く禁じられている禁忌の兵器だ。……傷口から呪いの術式を侵入させ、対象の魔力回路を内側から焼き切り、時間をかけて全身を腐らせて死に至らしめる……最悪の呪具……っ」
隣国の追手に追われていた際、グリーはグレンを庇ってその矢を受けた。
一度でも傷口に呪いが定着すれば、解呪は困難。
それは、死の宣告に等しい。
「王都の宮廷錬金術師たちが総力を挙げても、解呪の儀式には最短でも一週間を要すると聞く……。それも、最高級の浄化魔導具を揃えた設備があっての話だ……」
グレンの目から、一筋の熱い雫がこぼれ落ちた。
誇り高き騎士の顔は、今はただ、愛する家族を救えない無力感に歪んでいる。
「こんな山奥では……もう、手遅れだ。すまぬ、グリー……。俺が不甲斐ないばかりに……っ! 俺がもっと早く、敵の卑怯な手口に気づいていれば……!」
グレンはグリー徐々に腐敗の冷たさに侵食されつつある体に顔を伏せ、男泣きに暮れた。
相棒の命が、指の間から砂のように零れ落ちていく感覚。
一国の騎士団長という肩書きも、磨き抜いた剣技も、この「死の呪い」の前では何の役にも立たない。
けれど、そんな彼の悲壮な叫びを、どこか呆れたような、落ち着いた声が遮った。
「一週間? 王都の先生方は随分とのんびりなのね」
グレンは、涙に濡れた顔を上げた。
ミヤコは腰を落とし、まるでキッチンで焦げ付いた鍋を検分するような、至極冷静な眼差しでグリーの傷口を見つめていた。
「グレン様。……これ、要するに『配管のサビ詰まり』と同じようなものですから」
「は……? サビ……?」
グレンは、自分の耳を疑った。
人類を震撼させる禁忌の呪詛を捕まえて、この少女は何と言ったのか。
「流れが悪くなったところに不純物が絡まって、魔力の『水路』を塞いでいるだけ。……ならば、奥までしっかりブラシを通せばいいの。簡単な作業よ」
ミヤコは平然と言ってのけると、棚から「強力・呪詛分解用重曹」と書かれた白い粉の入った袋を取り出した。
グレン常識は、彼女の放つ、あまりにも生活感に満ちた言葉によって、再び粉々に砕かれようとしていた。
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