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グリフォンと騎士団長
第4章:証拠品は「小瓶」の中へ
しおりを挟むグレンの喉から、間の抜けた掠れ声が漏れた。
サビ。そのあまりに生活感に満ちた響きが、国家を揺るがす禁忌の呪詛と結びつかない。
「詰まっているなら、中を洗って押し流してしまえばいいのですよ。単純な理屈よね」
彼女はそう言うと、雪のように真っ白で、きめ細やかな粉末と液体を混ぜた。
「強力・呪詛分解用重曹。それに聖水濃度を三百パーセントまで煮詰めた特製です」
ミヤコが瓶の蓋を開けた瞬間。
グレンの鼻腔を、鼻の奥がツンとするような、それでいて清流の源を思わせる神聖な香りが突き抜けた。
続いて彼女が取り出したのは、きらきらと輝く不思議な質感のスポンジ。
ミヤコは重曹の粉を聖水で練り、ペースト状にすると、それをスポンジにたっぷりと染み込ませた。
「グリーちゃん、ちょっと染みるけれど我慢してね」
ミヤコが優しく囁き、スポンジをどす黒い傷口へと押し当てた。
彼女の指先に、淡い桃色の魔力が集まっていく。
「――『生活魔法・重曹ブレンド・一点シミ抜き』!」
その瞬間、洗い場に不思議な光が満ち溢れた。
ジュワジュワ……。
小気味よく力強い音が響いた。
それは、宮廷錬金術師たちが行う仰々しい術式の火花ではない。
もっと根源的で、もっとつつましい。
まるで、換気扇の頑固な汚れが洗剤に溶け出していくような、そんな「洗浄」の音だった。
「グァ……っ、グアァッ!!」
グリーが短い叫びを上げる。
見れば、傷口からタールのような粘着質の黒い汁が、ジュワジュワという泡と共に溢れ出していた。
呪いの術式が、物質となって浮かび上がっている。
(馬鹿な……。術式解析もなしに、ただ……ただ、汚れとして浮かび上がらせているというのか……?)
グレンの全身に、鳥肌が立った。
彼が知る解呪とは、複雑な魔法陣を幾重にも重ね、数時間かけて術式の糸を解いていく繊細な作業だ。
それを彼女は、まるで汚れを落とすように、重曹と魔法の力で力技で……いや、概念そのものを塗り替えて引き剥がしている。
「ほら、出てきた。けど……しつこい汚れねぇ……。根っこからしっかり絡みついているわ。まるで、排水管の奥に溜まった髪の毛みたいで、とっても嫌っ」
ミヤコは眉をひそめながら、一点に集中を研ぎ澄ませた。
彼女の指先から、強靭な魔力のピンセットが伸びていく。
それはグリーの魔力回路を傷つけることなく、そこにしがみついている「不純物」だけを、的確に、冷徹に、捉えていた。
「……見つけた。これが汚れの親玉ね」
ミヤコが指先に力を込める。
ズルリ、という。
およそ生き物から聞こえてはならない、湿った、不気味な音が響いた。
グリーの翼の付け根から、黒い術式を纏った矢の破片が、ズルズルと引きずり出されていく。
それは、怨嗟の声を上げ、のたうち回る蛇のようにも見えた。
(解析も……防御術式の展開もなしに、物理的に引き抜いただと!?)
グレンは、あまりの衝撃に立ち上がることも忘れていた。
常識が砕ける音が聞こえる。
目の前の少女がしていることは、もはや魔法という枠組みすら超えていた。
彼女はただ、「汚れているから、洗って、取り除く」という日常の極限に至った、ある種の実践的な真理を体現している。
「よし。これで芯の部分は取れたわ」
ミヤコが最後の一引きを加えると、傷口から立ち上っていた瘴気が、嘘のように霧散した。
呪いの核が抜けた瞬間。
グリーの傷口から、腐敗したどす黒い血に代わって、鮮やかで温かな鮮血が流れ始めた。
それは、止まっていた命の循環が、再び力強く鼓動を始めた証拠だった。
「キュ、クルル……」
グリーが、安堵したように長く深い溜息をついた。
「はい、完璧! さあ、グリーちゃん。これでもう苦しくないわよ」
ミヤコは晴れやかな笑顔で言うと、指の先に挟まった、どろどろとした呪いの塊を掲げた。
彼女はそのままキッチンの棚へと歩み寄り、空のガラス瓶を手に取った。
それは本来、ジャムが入っていたであろう、ありふれた小さな小瓶だ。
彼女は手際よく、その瓶の中に禍々しい呪いの残滓を詰め込み、金属製の蓋をカチッと閉めた。
「グレン様、これ。違法な呪詛の証拠品になりますよね? そのまま捨てるとお店の周りが環境汚染されてしまいますから、お持ち帰りください」
ミヤコが、その瓶をグレンに差し出した。
瓶の中で、行き場を失った隣国の最高機密――禁忌の呪詛が、カチカチとガラスの壁を叩きながら悲鳴を上げている。
『ギャアアァァ……。ギギ、ギャア……』
それは耳を劈くような不快な音のはずだったが、分厚いガラスの瓶と、ミヤコが施した「密閉魔法」によって、まるで虫籠の中の羽虫の音ほどにまで弱まっていた。
「こ、これを、俺に……? 隣国の最高機密を、ジャム瓶に入れて……」
「ええ。しっかり封印しておきましたから、蓋さえ開けなければ大丈夫です」
ミヤコは穏やかに微笑み、グレンの血の気が失せた手の上に、その瓶をそっと乗せた。
グレンはその冷たい感触に、激しい眩暈を覚えた。
(……この娘は、一体、何者なのだ)
グレンは、瓶の中でのたうつ呪いを見つめ、それからミヤコの横顔を見上げた。
彼女はすでに次の作業へと移っている。
グリーの傷口に仕上げのトリートメントを塗り、黄金の羽を再び美しく整える姿は、慈愛に満ちた聖母のようでもあり、熟練の職人のようでもあった。
夕闇が迫る洗い場に、オレンジとミントの香りが漂う。
グレンの心の中で、これまでに抱いたことのない、熱く、切ないほどの感情が、静かに芽吹き始めていた。
それは、恩人に対する感謝だけではない。
あまりにも理不尽で、あまりにも愛おしい。
この規格外な少女を、もっと近くで見ていたいという、騎士らしからぬ独占欲に似た何かだった。
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