31 / 44
ミヤコ幼少期編
第2話:空っぽの瞳と、温かなスープ
しおりを挟む窓から差し込む朝の光は、あまりにも無慈悲なほどに澄み渡っていた。
雨上がりの柔らかな日差しが、部屋の隅に置かれた古びた棚や、磨き上げられた木の床を淡く照らし出している。
ミヤコがゆっくりと瞼を持ち上げたとき、最初に目に飛び込んできたのは、自分の家とは違う、高く、無機質な石と木造の天井だった。
(……ここは、どこ?)
寝返りを打とうとして、全身に鉛のような重みと鈍痛を感じる。
鼻を突くのは、大好きだった母の石鹸の匂いでも、父の書斎のインクの香りでもない。乾燥した薬草と、古い金属、そして微かな獣の脂が混じり合った、見知らぬ「生活」の匂いだった。
ふと、枕元に視線を向けたミヤコは、その瞬間に息を止めた。
そこには、泥で固まり、どす黒い沈殿物がこびりついた赤い色のリボンが置かれていた。
昨日まで、自分の髪を飾っていたはずの宝物。
それが今は、見るも無惨な「汚物」となって、そこにある。
昨日の記憶が、氷のような冷たさで脳裏を掠めた。
降りしきる雨。折れ曲がった馬車の車輪。泥の中に沈んでいく、両親の動かない体。
「……あ、あ……」
喉の奥から、ひきつったような声が漏れる。
ミヤコは震える手で、自分の服を見た。
(きたない。……わたし、すごく、きたない)
激しい嘔吐感がこみ上げ、ミヤコはふらふらとベッドを抜け出した。
裸足のまま外へ飛び出すと、冷ややかな空気が全身を包み込んだ。
地面は昨日の雨をたっぷりと吸い込み、あちこちに深い水たまりを作っている。
ピチャッ、と足裏に冷たい感触が伝わった瞬間、ミヤコは悲鳴を上げそうになった。
足の指の間に、粘り気のある泥が入り込んでくる。
それが、あの日見た両親の亡骸にこびりついていたものと同じに見えて、ミヤコはその場にへたり込んだ。
「……っ、嫌、嫌ぁ……! とれない、おちない……!」
ミヤコは必死に自分の足を両手で擦った。
けれど、擦れば擦るほど、手までもが泥に汚れ、不潔な茶色に染まっていく。
周囲の家々からは、楽しげな朝食の音や、子供たちの笑い声が聞こえてくる。けれど、今のミヤコにとって、それらの音は自分を拒絶する異音でしかなかった。
「おとうさま……おかあさま……どこなの……?」
小さな背中を丸め、泥だらけの手で顔を覆う。
世界中で自分だけが不浄な闇の中に置き去りにされたような絶望。
そこへ、背後から重厚な足音が近づいてきた。
「……こんなところで、何をやってる」
振り返ると、薪を抱えたジョゼクが、険しい顔で立っていた。
ミヤコは怯えたように後ずさろうとしたが、足元が滑り、再び泥の中へと手をついてしまう。
「こないで……! さわらないで! わたし、きたないの……不潔なのは、だめなの……っ!」
ジョゼクは何も言わず、大きな溜息をつくと、無造作にミヤコを抱き上げた。
「泥なんて、後で洗えば落ちる。……風邪をひくぞ。戻るぞ、お嬢ちゃん」
無骨な腕の温かさ。
けれど、ミヤコの心は、その温かささえも受け入れることが出来なかった。
ジョゼクの家のキッチンは、質素ながらも驚くほど清潔に整えられていた。
テーブルの上には、湯気を立てる野菜スープの入った皿が二つ置かれている。
ジョゼクはミヤコを椅子に座らせると、自身の顔をミヤコに正面から向けた。
彼は嘘をついて子供を慰めるような器用な真似はできない。彼の正直さが、彼に最も残酷な言葉を選ばせた。
「お父様たちは……? いつ、むかえにくるの?」
ミヤコの震える問いに、ジョゼクは視線を逸らさずに答えた。
「……気の毒だが、お前の両親はもう、いない。土に還ったんだ」
一瞬、部屋の中からすべての音が消失した。
土に還った。
その言葉が、ミヤコの頭の中で「あの泥だらけの光景」と結びついた。
大好きだった母の笑顔が、父の優しい手が、あの不潔な泥濘に呑み込まれ、溶けて消えてしまったのだという理解。
「うそ……うそ! 汚い土になんてなってない! お母様は、いつだって綺麗だったわ! 嫌……嫌ぁぁぁぁぁッ!!」
ミヤコが耳を塞ぎ、喉を引き裂くような叫びを上げた、その刹那だった。
ガォォォォォン……ッ!!
地響きのような重低音が、家全体を揺らした。
窓ガラスがガタガタと震え、棚に置かれた食器が音を立てて重なり合う。
ジョゼクの家の裏にある飼育場から、二十頭を超えるユニコリザードたちが、一斉に天を仰いで咆哮を上げたのだ。
それは、これまで数十年幻獣を扱ってきたジョゼクですら聞いたことのない、畏怖に満ちた叫びだった。
まるで、幼い少女の絶望に呼応し、その悲しみを世界に知らしめようとするかのような共鳴。
「なんだ……!? ユニコリザード共が、この子の泣き声に呼応するかのように……」
ジョゼクは、立ち上がったまま硬直した。
(信じられん。……言い伝えにある、幻獣と心を通わす『王の咆哮』のような……こんな小さな子供が……?)
ジョゼクの肌に、ちりちりとした魔力の波が触れる。それは弱々しいはずの五歳の少女から放たれている、底知れない力だった。
幻獣たちの共鳴が止み、部屋にはミヤコの小さなしゃくり上げる音だけが残された。
彼女は、自分の膝の上に置いた手を見つめたまま、動こうとしない。
「……さあ、スープが冷める。食べろ」
ジョゼクがスプーンを差し出したが、ミヤコは頑なに首を振った。
「……てが……きたない。きたないから、のめないの。……不潔なまま食べるなんて、許されません……」
その声は、震えながらも、一種の呪いのような強固な意志を秘めていた。
お母様から教わった「清潔であること」という規律。それが今の彼女にとって、崩壊した世界を辛うじて繋ぎ止める、唯一の糸口なのだ。
「……そうか。なら、綺麗にしてやる」
ジョゼクは立ち上がると、桶に温かいお湯を汲み、真っ白な清潔な布を浸した。
彼はミヤコの前に膝をつくと、彼女の小さな手を、大きな、節くれ立った手のひらで包み込んだ。
「……いいか、お嬢ちゃん。俺は獲卵屋だ。トカゲの卵を傷つけずに運ぶのが仕事だ。……いつも卵をきれいに洗ってるから、汚れを落とすのは得意なんだ」
ジョゼクは、ミヤコの指の一本一本を、驚くほど繊細な動きで拭い始めた。
爪の間に挟まった微かな泥、皮膚を汚していた不純物。
それらを丁寧に、慈しむように取り除いていく。
「……あ」
ミヤコの瞳に、ほんの一筋だけ、生きた者のまたたきが戻る。
ジョゼクの手は荒れていて、固い。けれど、その手によって汚れが落とされ心地よい。
「ほら、これでどうだ。……指の先まで、ピカピカだぞ」
拭い終わったミヤコの手は、朝の光を受けて白く輝いていた。
ミヤコは自分の手を何度も握り、それから初めてジョゼクの顔を真っ直ぐに見上げた。
「……きれい……」
「ああ、大丈夫、綺麗だ。……さあ、飲め」
ミヤコは震える手でスプーンを握り、ゆっくりと野菜スープを口に運んだ。
とろりと溶けた野菜の甘みと、温かな湯気が、凍りついていた彼女の喉を優しく解かしていく。
「……あったかい……」
ポタリ、と。
スープの中に、一粒の雫が落ちた。
「……おかわり、あるからな」
「……はい」
小さな返事。
山あいの静かな家で、ミヤコの新しい生活が始まった瞬間だった。
131
あなたにおすすめの小説
婚約破棄されたので、隠していた聖女の力で聖樹を咲かせてみました
Megumi
恋愛
偽聖女と蔑まれ、婚約破棄されたイザベラ。
「お前は地味で、暗くて、何の取り柄もない」
元婚約者である王子はそう言い放った。
十年間、寡黙な令嬢を演じ続けた彼女。
その沈黙には、理由があった。
その夜、王都を照らす奇跡の光。
枯れた聖樹が満開に咲き誇り、人々は囁いた。
「真の聖女が目覚めた」と——
遺産は一円も渡さない 〜強欲な夫と義実家に捨てられた私、真の相続人と手を組み全てを奪い返す~ (全10話)
スカッと文庫
恋愛
「お前の価値なんて、その遺産くらいしかないんだよ」
唯一の肉親だった祖父を亡くした夜、夫の健一と義母から放たれたのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。
四十九日も待たず、祖父が遺した1億2000万円の遺産をアテに贅沢三昧を目論む夫。だが、彼には隠し通している「裏切り」があった――。
絶望の淵に立たされた由美の前に現れたのは、亡き祖父が差し向けた若き凄腕弁護士・蓮。
「おじい様は、すべてお見通しでしたよ」
明かされる衝撃の遺言内容。そして、強欲な夫たちを地獄へ叩き落とすための「相続条件」とは?
虐げられてきた妻による、一発逆転の遺産争奪&復讐劇がいま幕を開ける!
ヒロインと結婚したメインヒーローの側妃にされてしまいましたが、そんなことより好きに生きます。
下菊みこと
恋愛
主人公も割といい性格してます。
アルファポリス様で10話以上に肉付けしたものを読みたいとのリクエストいただき大変嬉しかったので調子に乗ってやってみました。
小説家になろう様でも投稿しています。
年増令嬢と記憶喪失
くきの助
恋愛
「お前みたいな年増に迫られても気持ち悪いだけなんだよ!」
そう言って思い切りローズを突き飛ばしてきたのは今日夫となったばかりのエリックである。
ちなみにベッドに座っていただけで迫ってはいない。
「吐き気がする!」と言いながら自室の扉を音を立てて開けて出ていった。
年増か……仕方がない……。
なぜなら彼は5才も年下。加えて付き合いの長い年下の恋人がいるのだから。
次の日事故で頭を強く打ち記憶が混濁したのを記憶喪失と間違われた。
なんとか誤解と言おうとするも、今までとは違う彼の態度になかなか言い出せず……
「憎悪しか抱けない『お下がり令嬢』は、侍女の真似事でもやっていろ」と私を嫌う夫に言われましたので、素直に従った結果……
ぽんた
恋愛
「おれがおまえの姉ディアーヌといい仲だということは知っているよな?ディアーヌの離縁の決着がついた。だからやっと、彼女を妻に迎えられる。というわけで、おまえはもう用済みだ。そうだな。どうせだから、異母弟のところに行くといい。もともと、あいつはディアーヌと結婚するはずだったんだ。妹のおまえでもかまわないだろう」
この日、リン・オリヴィエは夫であるバロワン王国の第一王子マリユス・ノディエに告げられた。
選択肢のないリンは、「ひきこもり王子」と名高いクロード・ノディエのいる辺境の地へ向かう。
そこで彼女が会ったのは、噂の「ひきこもり王子」とはまったく違う気性が荒く傲慢な将軍だった。
クロードは、幼少の頃から自分や弟を守る為に「ひきこもり王子」を演じていたのである。その彼は、以前リンの姉ディアーヌに手痛い目にあったことがあった。その為、人間不信、とくに女性を敵視している。彼は、ディアーヌの妹であるリンを憎み、侍女扱いする。
しかし、あることがきっかけで二人の距離が急激に狭まる。が、それも束の間、王都が隣国のスパイの工作により、壊滅状態になっているいう報が入る。しかも、そのスパイの正体は、リンの知る人だった。
※全三十九話。ハッピーエンドっぽく完結します。ゆるゆる設定です。ご容赦ください。
行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる
春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。
夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。
形のない愛は信じない。
でも、出来立ての肉は信じてしまう。
肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。
これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。
後妻の条件を出したら……
しゃーりん
恋愛
妻と離婚した伯爵令息アークライトは、友人に聞かれて自分が後妻に望む条件をいくつか挙げた。
格上の貴族から厄介な女性を押しつけられることを危惧し、友人の勧めで伯爵令嬢マデリーンと結婚することになった。
だがこのマデリーン、アークライトの出した条件にそれほどズレてはいないが、貴族令嬢としての教育を受けていないという驚きの事実が発覚したのだ。
しかし、明るく真面目なマデリーンをアークライトはすぐに好きになるというお話です。
さよなら王子、古い聖女は去るものなのです
唯崎りいち
恋愛
元聖女の私は、自分が無能だと思い、有能な新しい聖女に任せるために王都を去ることを選んだ。しかし幼なじみの王子は、私を追いかけてくる。王子の真剣な想いと、自分の無自覚な力が国や人々に影響を与えていることに気づき、私は王都へ戻る決意をする。こうして二人は互いの気持ちを確かめ合い、結ばれる――自己評価の低い少女が本当の価値と愛に気づく、ハッピーラブファンタジー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる