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ミヤコ幼少期編
第12話:揺らぐ均衡、正義と正義の狭間で
しおりを挟む翌朝の王都騎士団訓練場は、突き抜けるような群青の空の下、痛いほどの陽光に包まれていた。
白亜の石壁が眩い日光を反射し、視界の端々で白く爆ぜる。そこで繰り広げられているのは、国を護る牙たちの過酷な練錬だ。
ドシン、ドシンという重厚な足音。剣と剣が打ち合う、耳の奥を突き抜けるような高い金属音。
そして、騎士たちが動くたびにチャリン、ガシャンと規則正しく鳴り響く、鎧が重なり合う硬質なリズム。
その熱気が渦巻く広大な空間で、私はエプロンのポケットに忍ばせた「小瓶」の冷たさを、指先で幾度も確かめていた。
(……この透明なガラスの中にある澱みと同じ者が、今この瞬間も、あの子たちの命を内側から食い破ろうとしている)
私は、一段高い場所で部下たちの訓練を厳しく見守っていたグレン様の元へ歩み寄った。
彼は私に気づくと、表情をを一変させた。そこにあったのは、隙のない、凛々しくも峻烈な武人の貌だった。
「おはようございます、ミヤコ殿。……昨日に引き続き、ご足労いただき感謝する……して、例の件、アルドス様とはどのような話を?」
グレン様の声は低く、心地よいバリトンボイスが私の鼓膜を震わせる。
「グレン様。騎士団長としての貴方に、最優先の提言をさせていただきます。……今年配備された五歳のユニコリザード、そのすべての横穴を埋め、即刻、前線から引退させるべきですわ」
一瞬、周囲の鉄のぶつかる響きが遠のいた気がした。
グレン様の瞳から柔和な光が消え、代わりに現れたのは、凍てつくような冷徹さを湛えた鉄の仮面だった。
「…………できない」
地底から響くような、重苦しい拒絶。
彼は休憩用のテーブルに広げられた、ノザリア王国の詳細な国境地図を、節くれ立った指先で強く叩いた。地図の上には、隣国との小競り合いを示す赤い印が、無数に点在している。
「できないんだ、ミヤコ殿。……それは、絶対に。貴女は、ユニコリザードがこの騎士団にとって何を意味するか、理解しているか?」
グレン様が地図をなぞる指先が、押し殺した激情で微かに震えていた。
「ユニコリザードは単なる運搬係ではない。重装騎士を背に乗せて泥濘を駆ける『戦場の騎獣』であり、食料も武器も届かない絶望の最前線を支える唯一の『兵站の運び手』なんだ。……今、今年配備された全個体を引退させれば、軍の物流は、動脈を縛られたように完全に停止する」
彼は私を射抜くような眼差しで見つめた。その瞳の奥には、血を吐くような苦渋と、指揮官としての重責が映っていた。
「物流が止まれば、前線の兵士たちは武器も持てず、空腹を抱えたまま敵の刃に晒されることになる。……ミヤコ殿。貴女は、私に自分の部下を飢えさせ、無抵抗のまま殺させろと言うのか……っ!?」
グレン様の悲痛な叫びが、私の胸を鋭く刺した。
私の提案が、意図せずとも多くの騎士たちの命を奪う引き金になるという、あまりにも残酷な現実。
その重みに目眩がしそうになるけれど、私は、エプロンのポケットにある瓶を、指が白くなるほど強く握りしめた。
(……この人は、守ろうとしている。部下を。国を。けれど、その足元がどれほど不潔な泥濘に沈んでいるか、まだ気づいていない)
「……グレン様。貴方の仰るその正義は、汚れを床の下へ隠しているだけです」
「なにっ!?」
私は一歩、彼の間合いへと踏み込んだ。
騎士が放つ威圧感に気圧されることもなく、ただ真っ直ぐに彼の碧眼を見つめる。
「不潔なものは、放っておけば必ず膿みます。あの子たちの角に開けられたあの不浄な空洞は、もう限界なのです。……放っておけば、さらに多くの角が折れ、最悪の暴走が起きるはず。そうなれば、被害は前線だけでは済みません」
私は鞄からバランおじ様に預かった「角の破片」を取り出し、グレン様の目の前に、逃れられぬ現実として突きつけた。
「騎士様たちが騎乗中に暴走すれば、あの子たちは敵味方関係なく、本能のままに食い散らかす化け物へと成り果てます。……もし、この王都の真ん中で角が折れたら? 対処する術を持たない市民の方々に、どれだけの危害……目を覆うような被害が出ると思っているのですか!」
グレン様の顔から、すっと血の気が引いていくのがわかった。
私の指差す「汚れ」の先。それは、不潔な均衡がガラガラと音を立てて崩れ、尊い命が泥にまみれて失われていく、救いのない未来だった。
「汚れを見つけたのなら、今すぐ洗うのが私の誇りです。……貴方は、その不浄な未来をすべて背負うおつもりですか? 誇り高き騎士団と民を殺す汚名を被るおつもりですか!?」
私の激しい言葉が、訓練場を包む熱い空気を震わせる。
グレン様は拳を握りしめ、言葉を失って立ち尽くしていた。彼の銀の鎧が、荒い呼吸に合わせて微かな金属音を上げている。
騎士として、指揮官として。彼は今、これまでの人生で最も苦渋の選択肢を突きつけられ、もがいているように見えた。
訓練場の喧騒が、不意に遠のいた。
二人の間に降りたのは、凪いだ空気。けれど、そこには互いの「護りたいもの」と「譲れないもの」が激しく火花を散らすような、熱い緊張が満ちていた。
長い、あまりにも長い沈黙。
やがて、グレン様が肺にあるすべての空気を吐き出すように、深く、長く息を漏らした。
彼の瞳から焦燥の色が消え、代わりに宿ったのは、すべてを受け入れる深い覚悟のまたたきだった。
「……ミヤコ殿。貴女の言う通りだ。……私も、このまま目を逸らし続けることが、騎士道にも、己の心にも反することくらい……分かっていたはずなのだがな」
グレン様は、重い手つきで私の前に右手を差し出した。
その大きな手は、これまでに数多の汚れ……戦場での血や泥を浴びてきたはずなのに、今の私の目には、何よりも清らかに映った。
「だが、ミヤコ殿……まずは、前線の実態をその目で見てからユニコリザードの処遇を決めてほしい。王都の安全な机の上で語る論理ではなく、泥にまみれ、戦場で共に生きる彼らの真実の姿を。……明日、一緒に行ってくれないであろうか?」
その言葉を聞いた瞬間、私の強張っていた肩から、すとんと力が抜けた。
彼が私の意見を、一人の専門家の言葉として、正面から対等に受け止めてくれたことへの、震えるほどの安堵。
「ええ、もちろんです、グレン様。……汚れのあるところなら、世界の果てまでもお供します」
私は彼の差し出した大きな手に、自分の手をそっと重ねた。
鼻を掠めたのは、石鹸の清々しい香りと、使い込まれた剣の重みを感じさせる鉄の匂い。
異なる正義を掲げながらも、根底にある想いが繋がった熱い信頼が、またたきとなって私たちの間に灯った。
訓練場の喧騒が再び戻ってくる。けれど、先ほどまでとは違う、すべてを洗い流すような清々しい風が、私たちの間を吹き抜けていくのを感じた。
「さあ、モップ。明日から大忙しになるわよ。最高のお掃除ができるように、準備を整えなきゃ」
「わふんっ!」
足元でずっと待機していた看板犬が、力強く大地を叩く。
明日、私たちは最前線へと向かう。
この国に根深く溜まった「不潔な過ち」を、根こそぎ洗い流すために。
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