転生少女は欲深い

白波ハクア

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プロローグ

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 幸せ、とは何だろう。

 そう問いかけると、人それぞれの答えが返ってくる。

 それは愛する人がいる生活だ。
 それは好きなことを好きな時に出来ることだ。
 それは何かを食べている時だ。
 それは眠っている時だ。



 だけど、その人達はわかっていない。

 幸せとは『当然のように生きている』ことなんだと。

 生きているだけで幸せ。

 結局、それが一番なんだ。



          ◆◇◆



 首を絞められながら、私、南條なんじょうかがみは他人事のように思う。

 ──ああ、失敗したな。と。

 どこかでこうなるのだろうとわかっていた。
 十八歳と三ヶ月。本格的な社会人になる一歩手前の私の体は、すでに限界を迎えていた。
 紅黒く染まった右腕には幾重もの裂傷の跡が刻まれていた。左腕は奇妙な方向に曲がったまま固まっている。呼吸という行為をする度に血液が口から溢れそうになり、体内では重い痛みが響き続き、私の精神をも汚染させる。

 今まで生きてきたのが奇跡と思える惨状だった。それでも、まだ少しは生きていられると思っていた。
 けど、その時は唐突に来てしまったんだ。



 その日は雨が激しく降る日だった。

 私はぼろ切れのようになった体を引きずり、壁に背を当て、ゴミ溜めのように荒れ果てた部屋で何もせずにただ呆けていた。
 そこは私の家だった。……いや、正確に言えば私と私の父親の、だ。
 薄汚いマンションの一部屋。そこに私は住んでいる。来る日も来る日も父親は帰って来ず、こんな体でアルバイトもできない。なのでいつも私は部屋の隅っこでジッとしていた。
 お腹が空けばほぼ腐りかけの食材をそのまま食べる。調理も何もしない。出来ない。冷蔵庫と呼べるのか怪しい箱の中から、口だけを使って腐臭の漂う物を取り出す。

 今更健康が。とか言うつもりは私にはなかった。
 私の体は、それ以上に壊れている。今更気にしたところで、もう遅い。

 今日も学校には行けず、痛みに耐えながら無駄な時間を過ごし、痛みに耐えながら眠りに着く。そしてまた無駄な時間を過ごすのだろう。──その時の私は、そう思っていた。

 だけど、その日は違った。
 何日も帰ってこなかった父親が、帰って来た。来てしまったんだ。

 父親が私のことなんて最初からいないと言うように、ドカドカとテーブルに歩き、乱暴に座った。

「ああ、くそっ! 今日も負けた! くそっ、あの野郎!」

 これは相当怒っている。話の内容を聞くに、何か賭け事でもして盛大に負けたのだろう。いつもそうだ。この人は盛大に負けた時に帰ってきて、自分でストレスを発散し、満足したら出て行く。
 内心溜め息をつく。その時の対処法は、決まっている。ただ何もせずにジッとしている。それだけだ。

 父親は苛々した様子でテレビのリモコンを手に取り、電源ボタンを押す。

「──くそが!」

 何度押しても付かないリモコンを思い切り壁に叩きつける。バラバラになって壊れるリモコンと同時に、テレビの画面が明るくなる。四角の画面の中から、陽気な音楽が聞こえてきた。それが怒りに触れたのか、更に父親の機嫌は悪くなっていく。

「どいつもこいつも馬鹿にしやがって!」

 すでに寂しくなりかけている頭皮を掻き毟り、手に持っていた紙をぶちまける。私の足元に一枚舞い込み、視線だけ動かして見る。それは競馬の情報が載っている新聞の一部だった。

 ……やはり、賭け事だったか。
 予想のついていた私はすぐに興味を失い、視線を戻した。

 父親はテーブルをダンッ! と思い切り叩く。壊れかけだったテーブルは、その衝撃に耐えられずにメリメリと音を立てて崩れた。
 それが予想外だった父親は拳を振り下ろした状態でバランスを崩し、割れてせり上がったテーブルの端に顔面をぶつけた。

「っでぇ! ……ったく…………ああ? 何見てんだ、テメェ……」

 そのせいで苛々が頂点に達した男は、ちょうどいいところに玩具が落ちていたと、そこで初めて、私を認識した。

 これはダメだ。
 そう思い、逃げようとした。
 でも、壊れた私の体と、大人の男性だ。当然逃げ切れるはずがなく、五秒も経たずに私は捕まってしまった。

「この野郎、また俺から逃げようとはいい度胸じゃねぇか。──ざけんじゃねぇぞクソアマァ!」

「ぶっ──!」

 全力で振りかぶった拳が、私の頬をぶった。
 白い物体が数個飛び散り、床に転がる。口の中から緩い液体が溢れ出して溺れそうになる。我慢できなくなってそれを吐き出すと、床が赤色に染まった。

「テメェさえいなければなぁ! 俺はもっと自由だったんだよ、くそっ!」

 私は母親の面影にそっくりだった。
 母親はとても綺麗な人で、いつも笑顔を向けてくれる自慢の人だった。
 でも、いつの日か母親はお買い物に行くと家を出て、その日以降帰ってくることはなかった。

 それからというもの、父親は私に暴行をするようになった。自分を捨てた母親と、母親に似ている私を重ね合わせて嬲ることで、日々のストレスを発散していたのだ。

「俺を捨てやがって、こんなゴミ以下のガキを置いて行きやがって……! くそが、くそが、クソがっ!」

 殴られ、蹴られ、床に叩きつけられる。
 何度も何度もそれが続き、私の意識は徐々に薄れていく。

 ……ああ、これが続くなら、早く気絶して楽になりたい。
 そう思えるくらいに、痛みは増していく。

「澄ました顔しやがってムカつくなぁ……なんか言えよ、おい!」

 ボサボサになった髪を乱暴に掴まれ、壁にぶん投げられる。肺の中の空気が強制的に出され、何度も咳き込んだ。
 そして、私の二倍はあるであろう腕が、私の首を鷲掴みにする。痩せ細った体は、簡単に宙に浮いた。苦しさに足をジタバタさせても意味はなかった。挙句にはその抵抗が苛々を蓄積させ、首を掴む力が増す。太い指が食い込み、気道が潰される。

 息が、出来ない。
 苦しい。助けて。死にたくない。

 そんな助けに応えるものは、残念ながらこの場には居なかった。

 ──これはもう、ダメ、かな。ああ、失敗したな。

 ふと、私は他人事のようにそう思った。
 父親の目は理性を失ったように血走っている。おそらく、性懲りもなく賭け事に負けた衝動でヤクを決めたのだろう。爪で奴の手を抉っても、痛覚すら忘れてしまっているのか、何の反応もない。これは本格的にダメだ。

 意識が……遠のく。私はもう死ぬのか。……つまらない人生だった。
 すでに私は諦めていた。もう抵抗をする気力も体力もない。

 そんな私の視界に、ふと父親が付けたテレビの画面が入ってきた。
 そこには仲睦まじく遊んでいる家族の映像が流れていた。父親も母親も、子供も全員が笑顔で、とても幸せそうだった。


 誰かが幸せそうな顔。
 心の中で何か強い感情が蠢く。

 おそらく、この感情は悪いものだ。と思った。

 運悪く幸せに生きられなかった自分の、当たり前のように幸せに囲まれている人に対する強い欲望。
 自分が持っていなかったものを持っている者に対しての感情。
 人として醜く、ないものばかりを求める。どうしようもない強い欲求。

 これは嫉妬なのか?
 いや、違う。これはきっと私の欲だ。
 命が終わるこの瞬間になって、私は全てが欲しくなった。
 幸せな家庭。元気な体。お金。食料。力。何もかもが欲しい。
 私は欲深いのだろう。だからこれは嫉妬ではない。これは強欲だ。

【承諾。強欲を取得しました】

 ──だからなんだ。と思う。
 私は本当に欲しかった。あんな幸せな生活が欲しかった。家族が欲しかった、

【エラー。南條武雄、並びに南條静香は対象者ではないため、異界渡りに失敗しました】

 元気な体が欲しかった。

【承諾。異界渡りの際、対象者の体を傷のない状態に復元致します】



 ねぇ、お母さん。何で行っちゃったの? 何で私も連れて行ってくれなかったの? なんで、なんで…………。



【異界渡りを開始します】



 ああ、いいなぁ。羨ましいなぁ。私も、あんな幸せと思える生き方を────



 そこでちょうど、私の首はポッキリとへし折られた。
 実に呆気なく、世界に失望した少女は、その人生を閉ざしたのだった。
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