煙草屋さんと小説家

男鹿七海

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第十四章

揺れる指先と、不意の再会

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 由紀ちゃんと父親が去り、店先にようやく静けさが戻った。
 外の空気は夕方に近づき、ひやりとした風がゆるく店内へ流れ込む。

「……ふぅ」霧弥は片手で髪をかき上げ、救急箱を棚に戻す。
 胸の奥には、まだ小さなざわめきが残っていた。子どもの泣き声じゃない。
 あの瞬間、龍二が自然に横に立ち、由紀ちゃんに手を差し伸べた姿だ。

「お前、ほんと子ども好きだよな」

 カウンターに寄りかかりながら言うと、龍二は少し照れくさそうに笑った。

「好きってほどじゃないけど……泣いてる子を見ると、放っとけない」

「優しいじゃん」

「霧弥ほどじゃない」

 反射的に口をついて出たらしい。龍二は言った後、ハッと口を押さえ、霧弥の耳は自然と熱くなる。

「……昨日の今日で、そういうこと言うのやめろ」

「や、やめられないかも……」

「やめろ!」

 龍二が笑う。霧弥は思わず目を逸らした。
 距離が近くなったぶん、言葉の一つ一つが胸に真っ直ぐ届く。

 そういう時間が、今日はずっと流れていた。

 ――だが。

 カラン、とドアの鈴が鳴った。

 霧弥が顔を上げた瞬間、空気がぱっと変わる。

「こんにちは」

 柔らかな笑顔とともに、南雲が店に入ってきた。
 肩までの髪を軽く巻き、落ち着いたグレーのコート。
 編集者であることを忘れさせるほど華やかな雰囲気だった。

「こんにちは、赤城さん。茶ケ原先生、少々お時間ありますか?」

 龍二は背筋を伸ばし、「あ、南雲さんこんにちは。…今大丈夫ですよ」そう返した。

 霧弥は無意識に胸の奥がざわつくのを感じる。
 南雲が龍二の腕に軽く触れ、いつものように微笑む。

 ――仕事上の癖かもしれない。
 けれど、昨日想いを伝え合ったばかりの霧弥には、少しだけ刺さった。

「ここじゃ悪いので、近くの喫茶店で話しましょう。打ち合わせもありますので」

 龍二は振り返り、霧弥の方を見た。「霧弥、ちょっと行ってくる。すぐ戻る」

「ああ」

 短く返せたけれど、胸の奥は複雑に揺れている。

 南雲が店を出るとき、霧弥に軽く会釈した。
 その目が、ほんのわずかに霧弥の反応を確かめているように見えた。

 龍二が最後にもう一度振り返る。

「すぐ戻るから」

「……ああ、わかった」

 ドアが閉まると、店内に静けさが戻る。
 湯気の代わりに、胸の奥にもやが残った。

 霧弥は煙草を取り出し、一本に火をつける。
 吸い込む煙の熱さで、落ち着こうとする。

 ――なんで、こんなことで。

 昨日までは、こんな気持ちにはならなかった。
 でも今は違う。

 言葉にしたから。
 手を握ったから。
 もう、ただの幼馴染じゃない。

「……はぁ」

 霧弥は煙を細く吐き、カウンターに肘をつく。
 胸に浮かぶのは、さっきの南雲の手と龍二の腕。
 そして、少し不安そうにこちらを見た龍二の目。

 ――龍二はちゃんと、俺を見てる。
 ――わかってる。わかってるけど……

「……なんだよ、この感じ」

 嫉妬というには幼すぎる。
 でも、確かに胸をぎゅっと締めつけられる。

 そんなとき、階段の上から微かな音がした。
 龍二の部屋の方から――かすかな紙の落ちる音。

 霧弥は顔を上げ、煙草を消す。

「……あいつ、原稿置いてったか?」

 気を紛らわせるように階段を上がると、机の上に原稿が広がっていた。
 その上に、一枚の付箋。

『霧弥が読んだら怒るかな。でも、読んでくれたら嬉しい。
 今日の帰りに、少しだけ話したいことがある。
 ――龍二』

 霧弥は思わず息を呑む。

「なんだよ、これ……」

 胸の奥のざわつきが、少し変わった。
 不安が薄れ、代わりにじんわり温かさが広がる。

 煙草の煙より柔らかく、でも確かに熱を持つ温もり。

 霧弥は小さく笑い、付箋を指でなぞる。

「……帰ってきたら、聞いてやるよ」

 その声に、自分でも少し驚いた。
 優しさが混ざっていた。


 1

 店の下からドアの鈴が鳴った――その直後だった。

 ――帰ってきたのか?

 胸を高鳴らせながら階段を降りると、そこに立っていたのは――

 龍二ではなく、ナイロン袋をさげたさっきの由紀ちゃんの父親だった。

「あ、すみません……! やっぱり忘れ物をしてしまって……!」

 霧弥は思わず力の抜けた息をつく。

「ああ、どうも」

 だが次の瞬間、父親は困ったように、でもどこか申し訳なさそうに言った。

「さっき家に帰ったら……由紀が、『ゆき、おにーちゃんとけっこんするー!』って大泣きしてしまって……」

 霧弥は思わず指で額を押さえた。

「……マジかよ」

「ほんとすみません……! で……あの……赤城さん」

「ん?」

 父親は少し小声になり、息を呑む。

「……さっきのお兄さん、あれ……彼氏さん、なんですか?」

 静かな店内に、心臓の音だけが響く気がした。

 霧弥は息を止め、少しだけ笑って答えた。

「……まあ、そんなもんだよ」

 父親の顔がぱっと明るくなる。

「ですよね!いや、なんか……娘が惚れるのもわかるなって……すみません、変なこと聞いて!」

「いや、別に。……由紀ちゃん、大事にしてやってくれ」

「もちろんです!」

 父親は深々と頭を下げ、忘れ物の手袋を握って帰っていった。

 店のドアが閉まると、霧弥は胸に手を置いた。

「……まあ、そんなもん……か」

 言葉にした自分の声が、まだ耳に残る。



 2

 ドアが再び開いたのは、そのすぐ後だった。

「霧弥、ただい……って、あれ? 今誰かいた?」龍二が少し息を切らしながら戻ってくる。

 霧弥は煙草を消し、龍二に歩み寄りながら答える。

「由紀ちゃんの父親。忘れ物取りに来てただけだ」

 龍二は目を瞬かせた。

「そっか、よかった……」

 霧弥は龍二の前に立ち、一歩だけ距離を詰めて言う。

「おかえり」

 龍二は一瞬きょとんとしたあと、柔らかく笑った。

「ただいま」

 その笑顔に、胸の奥のざわつきがすっとほどけていく。

 夜の帳が少しずつ降りる中、二人の距離はまた――昨日より一歩、近づいていった。


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