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第十六章
夜の煙と、触れたい温度
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夜になり、商店街のざわめきがすっかり消えたころ。
霧弥の煙草屋には、蛍光灯の白い光だけが静かに落ちていた。
龍二は閉店作業を手伝いながら、カウンター横の棚を片付けている。
霧弥はレジ締めを終え、ようやく椅子に腰を下ろした。
ふっと息を吐いた、その直後――
カチッ。
ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
あまりに自然な動作で、それは呼吸の続きのようにも見えた。
しばらくして、
カチッ。
一本吸い終えると、灰皿に押しつけ、そのまま次の一本に火をつける。
煙が、ゆっくりと天井へ昇っていく。
また――
カチッ。
三本、四本、五本。──そして六本目。
手つきは落ち着いているのに、表情はどこか遠い。
心の奥に、小さな波が立っているようだった。
龍二は作業の手を止め、霧弥をそっと見た。
「……霧弥、吸いすぎだよ」
霧弥は、言われて初めて気づいたように、自分の手元を見る。
「あ……悪い、無意識だった」
少しの沈黙。
それから、逃げるように言う。
「とりあえず、晩飯作る」
煙草の火を消し、目を伏せた。
龍二は、その横顔に言葉にならない違和感を覚える。
「いや……それより、何か、あった?」
霧弥はすぐに答えなかった。
平静を装っているが、内側だけがざわついているのがわかる。
やがて、ぽつりと口を開いた。
「……今日、南雲さんが来ただろ」
「うん」
「別に嫌いじゃねぇよ。仕事もできるし、俺にもちゃんと礼儀正しいし……」
一度言葉を切り、軽く舌打ちしてから、正直に吐き出す。
「……でもさ。ちょっと、邪魔された気がした」
店の空気が、わずかに揺れた。
龍二は驚くこともなく、静かに霧弥のそばへ歩み寄る。
「邪魔された、って……俺との時間を?」
「……そうだよ。昨日、あんなこと言い合ったのにさ。今日は普通に一緒に仕事の話してるし……」
みっともない、と自分でもわかっている。
だからこそ、声がわずかに震えた。
龍二は責めることなく、ただ優しく霧弥を見る。
「霧弥」
「……なんだよ」
椅子を引き寄せ、隣に腰を下ろす。
触れるか触れないか、その距離。
けれど、それがいちばん落ち着いた。
「南雲さんは仕事の人だよ。俺にとって大事なのは、霧弥だ」
「……わかってる」
「わかってても、不安になる日くらいあるだろ」
霧弥は息を詰めた。
煙草の匂いがふたりの間に満ち、静かな熱を帯びる。
龍二は、もう一つ言葉を重ねる。
「今日、南雲さんと喫茶店で話しててさ。 “先生、赤城さんのところにいるときの方が表情が柔らかいですね”って言われた」
「……アイツ、そんなこと言ったのか」
「うん。それで思った。俺、本当は早く帰りたかったんだって」
霧弥の胸が、どくりと鳴る。
「……なんでだよ」
「霧弥に、言えてないことがあったから。ここに戻って、隣に座りたかったから」
霧弥は視線を逸らした。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
「霧弥が吸ってる煙草の匂い、俺……好きなんだ」
「……南雲さんの前じゃ、そんなこと言わなかったくせに」
「仕事の人に言うことじゃないだろ」
小さな笑いが、静かに落ちた。
霧弥は煙草を灰皿に押しつけ、ゆっくり息を吐く。
「……さっき、六本くらい続けて吸っただろ」
「うん、見てた」
「胸の奥のざわつき、煙で流そうとしてた」
龍二は、切なそうに眉を寄せる。
「霧弥……」
「馬鹿だよな。煙吐いて楽になるなら、苦労しねぇ」
そう言いながら、霧弥の指先は微かに震えていた。
龍二は、その手のそばに自分の手を置く。
触れはしない。
けれど、逃げられる距離。
「無理に誤魔化さなくていい。俺、聞くから」
一度瞬きをし、霧弥は喉を鳴らした。
「……昨日よりさ。今日の方が、怖ぇんだ」
「怖い?」
「昨日、あんなこと言っちまったから……龍二に嫌われねぇかって、逆に心配になって……」
そんな弱音を口にした自分に、少し驚きながら。
龍二は、そっと霧弥の手の上に指先を重ねた。
吐息が、近くで混ざる。
「嫌いになるわけない」
「……」
「昨日の霧弥も、今日の霧弥も。ちゃんと大事だよ」
霧弥は、握り返すか迷って――
結局、逃げずに、その手を受け入れた。
ほんの少しの触れ合い。
それだけで、煙草より深い温度が胸に広がる。
「……龍二」
「なに?」
「明日も……ここに居てくれよ」
龍二の目が揺れ、すぐに柔らかく細まる。
「勿論。霧弥が嫌じゃなければ、ずっと」
霧弥は肩を震わせ、顔を背けた。
「嫌なわけねぇだろ……バカ」
龍二は小さく笑い、もう一度その手を包む。
夜の店内に、煙草の煙がゆっくり漂う。
けれどそこには、もう焦りも不安もなかった。
“隣にいる”という温度だけが、静かにふたりを包んでいた。
霧弥の煙草屋には、蛍光灯の白い光だけが静かに落ちていた。
龍二は閉店作業を手伝いながら、カウンター横の棚を片付けている。
霧弥はレジ締めを終え、ようやく椅子に腰を下ろした。
ふっと息を吐いた、その直後――
カチッ。
ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
あまりに自然な動作で、それは呼吸の続きのようにも見えた。
しばらくして、
カチッ。
一本吸い終えると、灰皿に押しつけ、そのまま次の一本に火をつける。
煙が、ゆっくりと天井へ昇っていく。
また――
カチッ。
三本、四本、五本。──そして六本目。
手つきは落ち着いているのに、表情はどこか遠い。
心の奥に、小さな波が立っているようだった。
龍二は作業の手を止め、霧弥をそっと見た。
「……霧弥、吸いすぎだよ」
霧弥は、言われて初めて気づいたように、自分の手元を見る。
「あ……悪い、無意識だった」
少しの沈黙。
それから、逃げるように言う。
「とりあえず、晩飯作る」
煙草の火を消し、目を伏せた。
龍二は、その横顔に言葉にならない違和感を覚える。
「いや……それより、何か、あった?」
霧弥はすぐに答えなかった。
平静を装っているが、内側だけがざわついているのがわかる。
やがて、ぽつりと口を開いた。
「……今日、南雲さんが来ただろ」
「うん」
「別に嫌いじゃねぇよ。仕事もできるし、俺にもちゃんと礼儀正しいし……」
一度言葉を切り、軽く舌打ちしてから、正直に吐き出す。
「……でもさ。ちょっと、邪魔された気がした」
店の空気が、わずかに揺れた。
龍二は驚くこともなく、静かに霧弥のそばへ歩み寄る。
「邪魔された、って……俺との時間を?」
「……そうだよ。昨日、あんなこと言い合ったのにさ。今日は普通に一緒に仕事の話してるし……」
みっともない、と自分でもわかっている。
だからこそ、声がわずかに震えた。
龍二は責めることなく、ただ優しく霧弥を見る。
「霧弥」
「……なんだよ」
椅子を引き寄せ、隣に腰を下ろす。
触れるか触れないか、その距離。
けれど、それがいちばん落ち着いた。
「南雲さんは仕事の人だよ。俺にとって大事なのは、霧弥だ」
「……わかってる」
「わかってても、不安になる日くらいあるだろ」
霧弥は息を詰めた。
煙草の匂いがふたりの間に満ち、静かな熱を帯びる。
龍二は、もう一つ言葉を重ねる。
「今日、南雲さんと喫茶店で話しててさ。 “先生、赤城さんのところにいるときの方が表情が柔らかいですね”って言われた」
「……アイツ、そんなこと言ったのか」
「うん。それで思った。俺、本当は早く帰りたかったんだって」
霧弥の胸が、どくりと鳴る。
「……なんでだよ」
「霧弥に、言えてないことがあったから。ここに戻って、隣に座りたかったから」
霧弥は視線を逸らした。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
「霧弥が吸ってる煙草の匂い、俺……好きなんだ」
「……南雲さんの前じゃ、そんなこと言わなかったくせに」
「仕事の人に言うことじゃないだろ」
小さな笑いが、静かに落ちた。
霧弥は煙草を灰皿に押しつけ、ゆっくり息を吐く。
「……さっき、六本くらい続けて吸っただろ」
「うん、見てた」
「胸の奥のざわつき、煙で流そうとしてた」
龍二は、切なそうに眉を寄せる。
「霧弥……」
「馬鹿だよな。煙吐いて楽になるなら、苦労しねぇ」
そう言いながら、霧弥の指先は微かに震えていた。
龍二は、その手のそばに自分の手を置く。
触れはしない。
けれど、逃げられる距離。
「無理に誤魔化さなくていい。俺、聞くから」
一度瞬きをし、霧弥は喉を鳴らした。
「……昨日よりさ。今日の方が、怖ぇんだ」
「怖い?」
「昨日、あんなこと言っちまったから……龍二に嫌われねぇかって、逆に心配になって……」
そんな弱音を口にした自分に、少し驚きながら。
龍二は、そっと霧弥の手の上に指先を重ねた。
吐息が、近くで混ざる。
「嫌いになるわけない」
「……」
「昨日の霧弥も、今日の霧弥も。ちゃんと大事だよ」
霧弥は、握り返すか迷って――
結局、逃げずに、その手を受け入れた。
ほんの少しの触れ合い。
それだけで、煙草より深い温度が胸に広がる。
「……龍二」
「なに?」
「明日も……ここに居てくれよ」
龍二の目が揺れ、すぐに柔らかく細まる。
「勿論。霧弥が嫌じゃなければ、ずっと」
霧弥は肩を震わせ、顔を背けた。
「嫌なわけねぇだろ……バカ」
龍二は小さく笑い、もう一度その手を包む。
夜の店内に、煙草の煙がゆっくり漂う。
けれどそこには、もう焦りも不安もなかった。
“隣にいる”という温度だけが、静かにふたりを包んでいた。
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