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第十七章
静けさの中に、揺れる影
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翌朝の煙草屋には、いつものように柔らかな陽が差し込んでいた。
商店街の朝は穏やかで、どこかゆっくりと時間が流れている。
霧弥は店先のシャッターを上げながら、小さく伸びをした。
「……ふぁ……。昨日、変に気疲れしたな」
夜が更けるまで龍二がそばにいたのは嬉しかった。
けれど、そのぶん胸の奥に残る熱が冷めきらない。
昨夜の会話が、煙のようにまだ体のどこかに残っているようだった。
そして――。
「……おはよう、霧弥」
背後から控えめな声がした。
振り返れば、龍二が手に紙袋を持って立っていた。
「なんでそんな早く来てんだよ」
「霧弥が“明日もここに居てくれ”って言ったから……。早く来た方がいいかなと思って」
霧弥は思わず目をそらした。
「……そんな真に受けなくていいんだよ。ちょっと言ってみただけで…。俺は、ちゃんと受け取りたいんだよ」
龍二の声はやわらかく、迷いがなかった。
霧弥の胸が一瞬だけ熱くなる。
だがその熱を悟られたくなくて、そっけなく答えた。
「……勝手にしろ」
龍二は微笑み、紙袋を差し出した。
「これ、朝ごはん買ってきた。霧弥の好きな卵サンド」
「……気ぃつかうなって言ってんだろ」
口ではそう言いながら、霧弥は受け取った。
サンドイッチの袋が、妙にあたたかい。
(……なんで、こんなに気持ちが軽くなるんだろな)
霧弥は自分でもわからず、ひと口食べて黙り込んだ。
龍二は店の中に入り、掃除を始める。
その背中が、やけに近い。
だが、昨日までの“近い”とは違い、今日はどこか、胸をくすぐられるような感覚だった。
1
午前中は客の出入りが少なく、穏やかな時間が過ぎていった。
龍二はノートパソコンを開いて原稿を打ち、霧弥は棚の整理をする。
不思議なほど気まずくない。
黙っていても、そこにいることが自然だった。
だが――。
「……霧弥、今日、少し早めに店出るんだけど」
龍二が画面を見たまま問いかける。
「は?なんでだよ」
「南雲さんが打ち合わせしたいって。“先生の都合に合わせます”って言ってくれたんだけど……」
霧弥は、ほんの一瞬だけ、肩の筋肉が強張るのを自覚した。
「……また南雲かよ」
「うん。でも、すぐ終わるよ」
「早めに行きたいのか?」
「霧弥に迷惑じゃなければ……。最近ずっとここに甘えてるし、仕事の方もちゃんとしなきゃなって」
霧弥は煙草を取り出し、火をつけた。
吸い込むのも、吐き出すのもゆっくりだ。
「……そっか。行きたいなら行けよ」
「霧弥……?」
「仕事だろ。俺が引き留める理由ねぇし」
言ってから、自分の声が思ったより冷たかったことに気づいた。
龍二は少しだけ悲しそうな目をしたが、すぐに笑みを戻す。
「……ありがとう。でも、本当にすぐ終わらせるよ」
霧弥は煙を吐きながら、軽く目を細める。「……急がなくていいよ。別に、帰りを待ってるわけでもねぇし」
「待ってないの……?」
「ま、まあ……別に……」
龍二がこちらを見る気配がして、霧弥は顔を背けた。
(……なに期待してんだよ、俺)
煙が胸に染みる。
さっきまで落ち着いていた気持ちが、じわじわと形を変える。
無意識にもう一本、煙草を取り出しかけたとき――
「霧弥」
龍二がそっとその手を止めた。
「……あんまり吸わない方がいいよ。さっきから落ち着かないみたいだから」
「……別に落ち着いてるし」
「嘘だよ」
言い切られ、霧弥は言葉を失う。
龍二は小さく息をつき、ほんの少しだけ距離を詰めて言った。「霧弥が嫌なら、今日の打ち合わせ……断る」
「……は?」
「俺、霧弥が不安そうにしてるの見たくないから」
霧弥は反射的に声を上げた。
「断るな。……そんなの、俺のために仕事断るとか、ありえねぇだろ」
「仕事より霧弥が大事なんだよ」
「……っ」
心臓が、痛いほど跳ねた。
やめてくれ――そう言いたかった。
でも、口が動かない。
龍二はまっすぐ霧弥を見つめる。
「昨日からずっと考えてた。……俺は、霧弥のそばにいたい」
霧弥の指先が微かに震えた。
「……だから、仕事なんて――」
「……それ以上言うなよ」
霧弥は顔を逸らし、煙草を握ったまま深く息を吐いた。
「そんなこと言われたら……、俺が……どうしたらいいか解かんなくなるだろ」
龍二は一瞬きょとんとしたが、次の瞬間静かに微笑んだ。
「解らなくてもいいよ。俺がゆっくり教えるから」
「……っ、お前……!」
霧弥の頬が熱を帯び、耳まで赤くなる。
龍二は照れくさそうに笑い、言葉を重ねた。
「さっきの打ち合わせ……やっぱり夕方に変更してもらうよ。南雲さん優しいから大丈夫」
「……勝手にしろ」
絞り出すように言った霧弥の声は、怒りよりも照れに近かった。
龍二はゆっくり椅子に戻ると、パソコンを開いた。
その横顔が、昨夜よりもずっと大人びて見えた。
――覚悟を決めた男の顔。
霧弥は心臓を押さえつけながら、静かに煙草を灰皿に落とした。
火を消す音だけが、店内に小さく響く。
(……やべぇな。こんな、真っ直ぐ向けられたら……。俺、ほんとに……)
胸から逃げ出しそうな熱を抑えながら、霧弥は目を閉じた。
龍二が少しでも他の誰かに触れられるのが嫌だ――
その想いが形になり始めていることを、もう誤魔化せなかった。
商店街の朝は穏やかで、どこかゆっくりと時間が流れている。
霧弥は店先のシャッターを上げながら、小さく伸びをした。
「……ふぁ……。昨日、変に気疲れしたな」
夜が更けるまで龍二がそばにいたのは嬉しかった。
けれど、そのぶん胸の奥に残る熱が冷めきらない。
昨夜の会話が、煙のようにまだ体のどこかに残っているようだった。
そして――。
「……おはよう、霧弥」
背後から控えめな声がした。
振り返れば、龍二が手に紙袋を持って立っていた。
「なんでそんな早く来てんだよ」
「霧弥が“明日もここに居てくれ”って言ったから……。早く来た方がいいかなと思って」
霧弥は思わず目をそらした。
「……そんな真に受けなくていいんだよ。ちょっと言ってみただけで…。俺は、ちゃんと受け取りたいんだよ」
龍二の声はやわらかく、迷いがなかった。
霧弥の胸が一瞬だけ熱くなる。
だがその熱を悟られたくなくて、そっけなく答えた。
「……勝手にしろ」
龍二は微笑み、紙袋を差し出した。
「これ、朝ごはん買ってきた。霧弥の好きな卵サンド」
「……気ぃつかうなって言ってんだろ」
口ではそう言いながら、霧弥は受け取った。
サンドイッチの袋が、妙にあたたかい。
(……なんで、こんなに気持ちが軽くなるんだろな)
霧弥は自分でもわからず、ひと口食べて黙り込んだ。
龍二は店の中に入り、掃除を始める。
その背中が、やけに近い。
だが、昨日までの“近い”とは違い、今日はどこか、胸をくすぐられるような感覚だった。
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午前中は客の出入りが少なく、穏やかな時間が過ぎていった。
龍二はノートパソコンを開いて原稿を打ち、霧弥は棚の整理をする。
不思議なほど気まずくない。
黙っていても、そこにいることが自然だった。
だが――。
「……霧弥、今日、少し早めに店出るんだけど」
龍二が画面を見たまま問いかける。
「は?なんでだよ」
「南雲さんが打ち合わせしたいって。“先生の都合に合わせます”って言ってくれたんだけど……」
霧弥は、ほんの一瞬だけ、肩の筋肉が強張るのを自覚した。
「……また南雲かよ」
「うん。でも、すぐ終わるよ」
「早めに行きたいのか?」
「霧弥に迷惑じゃなければ……。最近ずっとここに甘えてるし、仕事の方もちゃんとしなきゃなって」
霧弥は煙草を取り出し、火をつけた。
吸い込むのも、吐き出すのもゆっくりだ。
「……そっか。行きたいなら行けよ」
「霧弥……?」
「仕事だろ。俺が引き留める理由ねぇし」
言ってから、自分の声が思ったより冷たかったことに気づいた。
龍二は少しだけ悲しそうな目をしたが、すぐに笑みを戻す。
「……ありがとう。でも、本当にすぐ終わらせるよ」
霧弥は煙を吐きながら、軽く目を細める。「……急がなくていいよ。別に、帰りを待ってるわけでもねぇし」
「待ってないの……?」
「ま、まあ……別に……」
龍二がこちらを見る気配がして、霧弥は顔を背けた。
(……なに期待してんだよ、俺)
煙が胸に染みる。
さっきまで落ち着いていた気持ちが、じわじわと形を変える。
無意識にもう一本、煙草を取り出しかけたとき――
「霧弥」
龍二がそっとその手を止めた。
「……あんまり吸わない方がいいよ。さっきから落ち着かないみたいだから」
「……別に落ち着いてるし」
「嘘だよ」
言い切られ、霧弥は言葉を失う。
龍二は小さく息をつき、ほんの少しだけ距離を詰めて言った。「霧弥が嫌なら、今日の打ち合わせ……断る」
「……は?」
「俺、霧弥が不安そうにしてるの見たくないから」
霧弥は反射的に声を上げた。
「断るな。……そんなの、俺のために仕事断るとか、ありえねぇだろ」
「仕事より霧弥が大事なんだよ」
「……っ」
心臓が、痛いほど跳ねた。
やめてくれ――そう言いたかった。
でも、口が動かない。
龍二はまっすぐ霧弥を見つめる。
「昨日からずっと考えてた。……俺は、霧弥のそばにいたい」
霧弥の指先が微かに震えた。
「……だから、仕事なんて――」
「……それ以上言うなよ」
霧弥は顔を逸らし、煙草を握ったまま深く息を吐いた。
「そんなこと言われたら……、俺が……どうしたらいいか解かんなくなるだろ」
龍二は一瞬きょとんとしたが、次の瞬間静かに微笑んだ。
「解らなくてもいいよ。俺がゆっくり教えるから」
「……っ、お前……!」
霧弥の頬が熱を帯び、耳まで赤くなる。
龍二は照れくさそうに笑い、言葉を重ねた。
「さっきの打ち合わせ……やっぱり夕方に変更してもらうよ。南雲さん優しいから大丈夫」
「……勝手にしろ」
絞り出すように言った霧弥の声は、怒りよりも照れに近かった。
龍二はゆっくり椅子に戻ると、パソコンを開いた。
その横顔が、昨夜よりもずっと大人びて見えた。
――覚悟を決めた男の顔。
霧弥は心臓を押さえつけながら、静かに煙草を灰皿に落とした。
火を消す音だけが、店内に小さく響く。
(……やべぇな。こんな、真っ直ぐ向けられたら……。俺、ほんとに……)
胸から逃げ出しそうな熱を抑えながら、霧弥は目を閉じた。
龍二が少しでも他の誰かに触れられるのが嫌だ――
その想いが形になり始めていることを、もう誤魔化せなかった。
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