煙草屋さんと小説家

男鹿七海

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第二十章

水槽の青、煙草の匂い

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 朝の台所には、まだ店の匂いがなかった。
 換気扇を回す前の空気は、水と米と、ほんの少しの油の気配だけを含んでいる。

 霧弥はフライパンに火をつけ、卵を溶いた。
 ベーコンを刻み、味噌汁の鍋に手を伸ばす。
 特別なことはしない。ただ、いつもと同じ朝だ。

 二階の廊下を歩く音がして、間を置いて階段を下りる足音が続く。
 霧弥は振り返らない。

「……いい匂い」

 まだ眠りの残る龍二の声。
 霧弥は短く「そう」とだけ返し、皿を並べた。

 向かい合って座る。
 龍二は湯気の立つ味噌汁を一口すすり、肩から力を抜いた。

「落ち着く」

「毎日言うな」

「毎日落ち着いてるから」

 霧弥はそれ以上、何も言わなかった。
 箸を動かしながら、龍二の皿が少しずつ空いていくのを横目で見る。

 食事を終えると、霧弥は食器を流しへ運び、龍二はコーヒーを淹れた。カップに注がれる濃い液体が、朝日の光を受けて輝く。



 1

 シャッターを上げてしばらくした頃、店の前で小さな足音が止まった。

「おはようございます」

 声をかけてきたのは、見覚えのある男だった。
 腕の中には、あの時の女の子。

「……あ」

 霧弥が目を細めると、男は少し気まずそうに笑う。

「この前はありがとうございました。由紀も、ずっと覚えてて」

「おにーちゃん!」

 由紀は父親の腕から身を乗り出し、店内を見回す。
 レジの横に立つ龍二を見つけた瞬間、ぱっと顔が明るくなった。

「しゅきです!」

 龍二が一瞬、言葉を失う。

「由紀ちゃん!ほら、またお兄ちゃん困ってるから!」

 父親が慌てて止めるが、由紀は構わず手を伸ばした。

 霧弥はカウンターの内側で、小さく息を吐いた。

「……よっぽど、あの時のあいつが王子様にでも見えたんだろ」

「赤城さん……」

 父親が頭を下げると、霧弥は軽く手を振る。

 龍二はしゃがみ込み、由紀の目線に合わせた。

「ありがとう、由紀ちゃん」そう言って、そっと頭を撫でる。
 由紀は満足そうに笑い、父親の肩に顔を埋めた。

 短い世間話のあと、親子は店を出ていった。
 ドアが閉まると、店内に静けさが戻る。

「……人気者だな」

 霧弥が言うと、龍二は困ったように笑った。

「違うと思う」

「同じだ」

 霧弥は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐く。

 少ししてから、龍二の方を見た。

「……出かけるか」

「え?」

「今日」

「どこに?」

「水族館」

 一拍。
 龍二はゆっくり瞬きをして、それから笑った。「……珍しいね」

「たまにはな」

 理由は言わなかった。
 言葉にしなくても、いい気がした。

 店を閉め、電車に乗り、水族館へ向かう。
 休日でも、昼過ぎの館内は思ったほど混んでいない。

 暗い通路を進みながら、龍二は水槽を見上げる。

「綺麗だな」

「そうか」

「霧弥は?」

「……まあ」

 巨大な水槽の前で足を止める。
 青い光が、二人を包む。

 龍二はしばらく黙って魚を眺めていたが、ふと霧弥を見る。

「誘ってくれて、ありがとう」

「……別に」

 それ以上、言葉は続かなかった。
 けれど、龍二の表情は満ち足りていた。

 夕方、商店街に戻ると、いつもの顔ぶれが揃っている。

「お、霧弥!今日はデートか?」

 八百屋のおばちゃんが声を張り上げる。

「違ぇよ」

 高校生たちがひそひそ笑う。

「仲いいっすねー」

 霧弥は煙草を取り出し、火をつけた。

「帰るぞ」

「うん」

 龍二は、ほんの少し後ろを歩く。
 商店街のざわめきの中に、煙草の匂いが混じる。

 それだけで、今日はもう充分だった。


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