煙草屋さんと小説家

男鹿七海

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第二十五章

湯気の向こうで、言葉になる前

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 宿は山あいにひっそりと建つ、小さな温泉宿だった。
 木造の外観は地味で、特別な装飾もない。だが玄関をくぐった瞬間、木と湯の香りが鼻をくすぐり、長旅の疲れがふっと軽くなる。

「いいとこだね」龍二が素直にそう言った。
 霧弥は帳場の奥をちらりと見て、軽く頷く。

「……騒がしくないのがいい」

 龍臣は荷物を肩に担ぎながら、にやりと笑った。

「魔王好みだな、隠れ家系」
「だから言うな」

 女将に案内され、三人は二階の部屋へ通された。畳の香り。窓の外には、夕暮れに沈みかけた山の稜線が見える。

 大部屋ではあるが、三人分の距離がきちんと取れる作りだった。

「風呂、先に行っていいですか?」

 龍二が聞くと、女将はにこやかに頷いた。

「どうぞどうぞ。今ならほとんど貸し切りですよ」

「じゃあ、俺も行くか」
 龍臣が続く。二人が出て行くのを見送り、霧弥は畳に腰を下ろした。

 ――静かだ。

 街の喧騒も、店の音も、エンジン音も、人の気配もない。
 霧弥はポケットから煙草を出しかけて、やめた。窓を開けて、外の空気をゆっくり吸い込む。

「……悪くない」

 そう呟き、しばらく夕暮れを眺めていた。



 1

 風呂場は湯気で満ちていた。龍二は肩まで浸かり、深く息を吐く。

「……生き返る」

「完全に観光客の台詞だな」
 隣で龍臣が笑った。

「でも」龍二は天井を見上げたまま、ぽつりと言った。「こうやって来れて、よかったです」

「霧弥が誘ったからな」

「はい」

 その一言に、龍臣は少し目を細めた。

「……アイツ、変わっただろ」

「え?」

「前なら、絶対こういう流れにはならなかった」

 龍二は少し考えて、答える。

「……変わった、っていうより……」
 言い表す言葉を探す。
「許してくれる範囲が、増えた気がする」

「ほう」

「俺がいる場所、って意味で」

 龍臣は何も言わなかったが、表情は穏やかだった。



 2

 風呂を上がると、すっかり夜になっていた。浴衣に着替え、三人は食事処へ向かう。

 畳敷きの小さな個室。卓には川魚の塩焼き、山菜の天ぷら、煮物、湯気の立つ鍋。

「……美味そうだな」
 霧弥が、珍しく率直に言う。

「素朴だけど、こういうのが美味しいんだよね」
 龍二が箸を取りながら答える。

 会話は多くない。だが沈黙は重くない。
 龍臣は酒を一合だけ頼み、ゆっくり口に含む。

「こういう飯は、静かな方がいい」

「だよね」

「魔王も歳取ったな」

「殴るぞ。俺らとたいして歳変わらねぇだろ」

 小さなやり取りを挟みながら、食事は静かに終わった。



 3

「ごちそうさま」
 龍二が丁寧に頭を下げる。

 部屋に戻ると、廊下はしんとしていた。足音がやけに響く。
 霧弥は窓際に立ち、売店で買ったらしい牛乳を飲む。

「一本やる」

「ありがと」
 龍二は礼を言って受け取る。距離が、自然に近い。

 龍臣は布団に腰を下ろし、スマホを確認してから言った。
「俺、ちょっと売店行ってくる」

「……今からか?」
 霧弥が視線を向ける。

「食後だしな。夜の散歩ついでに」

「すぐ戻りますか?」

「迷わなきゃな」

「迷う前提かよ」

 軽く笑いを残し、龍臣は部屋を出て行った。扉が閉まると、音は消えた。

 霧弥は漸く、しばらく吸えなかった煙草に火をつけた。換気扇を回し、窓を少し開けた。

「……疲れたか」

「ううん。楽しい」
 龍二は畳に座りながら答える。

「霧弥は?」

「……まあ、運転した分な」

 煙を吐きながら、霧弥は視線を逸らす。

「……あのさ」

「なに?」

「今日、無理してないか?」

「してないよ」

 即答だった。

「むしろ、安心してる」

 霧弥は一瞬だけ煙草を止めた。
「……何がだ?」

「一緒に来てくれたこと」龍二の声は静かだった。
「霧弥が、俺を生活の外に置かなくなった」

 霧弥は何も言えなかった。煙だけが、ゆっくり漂う。

「……俺」霧弥はようやく口を開く。
「守るとか、そういうの、得意じゃねぇ」

「知ってる」

「でも……」
 言葉が詰まる。
「……離れられる方が、きつい」

 龍二は何も言わず、ただ頷いた。沈黙が答えだった。

 しばらくして、廊下から足音が戻る。

「お、いい雰囲気じゃねぇか」
 龍臣だった。手には缶ビールが三本。にやりと笑いながら近づいてくる。「差し入れ」

「……気が利くな」

「だろ」

 三人で畳に円を作る。龍臣は霧弥の横に座った。

「なあ、霧弥」

「なんだ」

「お前、前より怖くなくなった」

「……褒めてねぇだろ」

「褒めてる」龍臣は真面目な声で続ける。
「背中がな、閉じなくなった」

 霧弥は龍二を一瞬見た。
「……守るもんが増えただけだ」

「それを、変わったって言う」

 龍臣はそれ以上、何も言わなかった。

 夜は深く、湯気の名残と煙草の匂いが混じる。
 三人の距離は、近すぎず遠すぎず。

 霧弥はもう一本煙草に火をつけながら思った。

 ――来てよかった。

 言葉にしなくても、それだけは確かだった。



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